あなたの歌を唄わせてください――1

 七月一五日。北洋高校では終業式が執り行われた。


 明日から八月いっぱいまで夏休みだ。僕は部活に入っていないから、今日から九月になるまで、この学校を訪れる機会はそうないだろう。


 ホームルームも終わって、さあ夏休みに突入だ! っていう空気のなか。


「あの、ね? 皇くん」

「う、うん」


 僕の前に、すれ違ったら場所を問わずに誰もが振り返るだろう、絶世の美少女が立っている。


 窓際の最後列――僕の座席は、いまや注目の的になっていた。


 一年一組の教室から、こんな平々凡々へいへいぼんぼんな僕のもとを訪ねてきてくれた文月さんが、おっかなびっくりとした様子でぎこちなく、僕へと顔を近付けてくる。


 クラスにどよめきが走った。


「えうっ!?」


 当然、僕の戸惑いも尋常じゃない。


 学校一と称される文月さんの行動に、僕の心臓が大きく跳ね上がった。


 文月さんの瞳はちょっとだけ潤んでいて、心なしか頬にしゅが差している。


 二重ふたえ双眸そうぼうが近付いてきた。


 文月さんの潤いを持った薄い唇は、いまにも僕の頬に触れてしまいそうだ。


「その……誰かに、話して、ない?」

「う、うん。誰にも話してないよ」


 僕が答えると、再び背筋を真っ直ぐにした文月さんは、心から安堵あんどしたような表情ではあー、と胸を撫で下ろして、ふわりと、僕に微笑みかけた。


「よ、よかったぁ――ありがとう、皇くん」


 周りにいる男子が、羨望せんぼう嫉妬しっとと殺気が込められた視線を僕に向けていた。


 昨日、歌の練習中に僕と鉢合はちあわせしてしまった文月さんは、ペコリと一礼するやいなや、真っ赤になって走り去ってしまった。


 文月さんがこの教室を訪れた目的は、僕が昨日のことを言いふらしていないかどうかの確認だ。


 文月さんは秘密にしておきたいんだろう。自分が唄っていたこと――自分が唄う姿をサイトに投稿していることを。


 僕は彼女の不安に気付かないほど鈍感じゃないし、あの公園での出来事を言いふらすほど野暮やぼじゃない。


 文月さんの気持ちを汲み取ることぐらいできる。


 だから、あのことは誰にも話していない。


「その……ごめんね? つ、つまらないものを、お聞かせしまして」

「え? いや、むしろありがとうございますって言いたいほどなんだけど……」

「は……うぁ……あ、ありがとう……」


 文月さんは胸元で手を重ねて視線をらした。


 その頬がゆるんでいて桜色に染まっていて、嬉しくて嬉しくて堪らないって顔に出ていて、どストライクだった。


 かっ、かわいいっ!!


 ギュウゥゥゥン! と胸がうずく。


 なに? なんなのっ!? ものスゴいトキメクんですけどっ!? 僕の前にいらっしゃるのは女神さまですかっ!?


 さ、流石は入学時からうわさされる美少女なだけあるよね。うっかり、僕、天にされるとこだったよ!


 文月乙姫という人物は、北洋高校の全男子、いては一部の女子にとって、アイドルをすらもしのぐ存在だ。


 なにしろ、入学してからいままでの約三ヶ月で、先輩・同学年合わせて五〇人以上から告白を受けているし。


 まあ、全部断っているらしいけど。


「え、えっとね? その、やっぱり誰かに聞かれるの恥ずかしくて――身近な人には、特に、その……」

「うん、わかるよ。大丈夫」


 僕には文月さんの気持ちがよくわかる。


「なんていうか、落ち着かないよね?」

「そ、そうなのっ」


 自分が唄っている動画をネットに投稿する。


 その行為自体は、吹っ切れさえすればできるだろう。一応、匿名とくめいだし、相手には顔も見えないし。


 だけど、ネットはネット、リアルはリアル。その事実が明るみに出たら、恥ずかしくて仕方ないものだ。


 わかるよ、その気持ち。僕も、ラノベを書いて投稿していること、家族以外の誰にも話していないんだからさ。


「ちゃんと秘密にするからさ? 心配しないで?」

「うんっ」


 そう返答した文月さんのメゾソプラノはとても明るくて、目元は細められていて、頬はゆるみ、口元はほころんでいた。


 僕の頬が熱を帯びる。思わずニヤけてしまいそうだ。


 文月さんと話している。文月さんが僕に笑いかけてくれている。


 文月さんが、僕に心を許してくれたみたいで、嬉しくて仕方がない。


「そ、それに、文月さんの歌にはいつも元気をもらっているからねっ」


 思わずそう口にしちゃったのは、浮かれていたからだろう。


「あ……そ、そう……なん、だ」


 文月さんがまたしても顔を真っ赤にして、視線を右往左往。


 そのあと、ちょっとだけうつむいて、「あ、あはは……」と困ったように笑った。


 そうだよねっ! 予想していたとはいえ、恥ずかしいよねっ!? 同じ学校に通っている人から、「めっちゃお世話になってます!」発言されたら困るよねっ!!


 僕が口元をあわあわとさせて、どうフォローしようか迷っていると、


「な、なんか恥ずかしいな……ど、どうだった、かな?」


 期待と不安が入り混じったようなはにかみ笑顔で、チラリと僕に上目遣い。


 僕の胸に刺さる特大の矢。


 かわいいやら愛しいやらありがたいやらで、僕の頭はてんやわんやだ。


「そ、そのっ! 落ち込んでいるときに勇気づけてもらったり、僕、女の子と付き合ったことないから夢を見させてもらったり、ときどきやさしく涙させてもらったり! 文月さんがいなかったら、いまの僕はないと言っても過言じゃないですっ!!」

「う、うぁ……」


 まくし立てるように言い切って、今度はやっちまった感が僕の脳内を支配した。


 全身から血の気が引く。


 ああぁぁぁっ!! 感謝の気持ちが強すぎて暴走してしまったあぁぁぁ――っ!!


 変だよねっ! 特に中程なかほど暴露ばくろとか! 文月さん、軽く引いてるよねっ!!


「い、いやっ、そのっ! 新人賞に落ちたときとかセンチメンタルな気分になるわけでして――」

「――え?」

「ですから決してやましい気持ちはなくてでしてっ!!」

「う、うん。スゴく嬉しいよ? 皇くんのお役に立ててるの」


 よかったぁ! 僕、文月さんに嫌われたかと思ったよっ!!


「ところで、新人賞ってなに?」

「あ」

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