39/ 聖と、翠と、『諦めないで』


 語り始めは、たどたどしく、ゆっくりと。

 ぽつり、ぽつりとしたものだった。

 はじめて父の小説を、読んだ日のこと。

 父に憧れ、生まれてはじめて、自分の紡ぐ物語を、その最初のひと文字をノートに記したときのこと。

 それからずっと、書き続けたこと。

 そして、最近。その筆に翳りが差し始めたこと──そうなるだけの理由を、自分が抱えていること。

 気付けば、自分が語れると思っていた以上のことを、言葉の溢れるままに、父の前に紡ぎ出していた。

 求めてくれた父を、翠もまた求めるように、そう思えた。

 

「涼斗せんぱいと、聖せんぱいのこと。第三者のわたしがどうこうできること、言うことではないと、わかってはいるんです。だけど」

 

 だから語る。

 どうにかしたくて、どうすればいいのかわからないことを。

 そんな翠の言葉、ひとつひとつを、父は時折相槌を打ち、時折暫し考えこむ様子を見せながら、真剣に耳を傾けてくれていた。

 そのためだろうか、父へと語りながら翠自身もまた、半ば落ち着いた目線で、自分が今、目の前にあるせんぱいたちの状況についてどう感じているのかを俯瞰できたようにも思えた。

 このまま、あのふたりに終わってほしくはない。たとえそれが第三者の余計なお世話だとしても。

 

「──ふむ」

 

 胸に抱いたその感覚が、離れない。その気持ちをまっすぐに、翠自身にとってできるかぎりの言葉で、父へと伝えたつもりだった。

 口許に軽く曲げた人差し指を遣り、ひとときの思案の素振りを表現していた父はやがて、口を開く。

 

「これは、娘を大切に仕舞っておくべき父親として口にするのは些か不適当な思考なのかもしれないけれど。きみの気持ちはほんとうにそれだけなのかい、翠?」

「え?」

 

 わたしの、気持ち。

 問われた言葉をこころの内側で繰り返してみる。──いったい、どういうこと?

 

「つまり、きみはただその先輩ふたりが心配なだけなのかい、ということだ。例えばそう、その男の子に対して、……恋心だとか?」

「えっ」

 

 涼斗せんぱいに、わたしが?

 父の指摘はまるで、翠にとって思いもよらず、考えもしなかったことだった。

 

「──それは、ないです。わたしは、そういうことは」

 

 だからはっきりと、否定もできた。

 あのふたりのあいだには、あのふたりにしか為しえない繋がりがある。

 そこに自分が割って入ろうなどということは到底、翠の思考の中には存在し得ない考えだった。

 

「わたしが好きなのはふたりとも、どちらもなんです。聖せんぱいはわたしのちからを知って、それを受け容れてくれた。そしてわたしにいろんな繋がりをつくってくれたんです。そうやって繋がってくれた涼斗せんぱいも、わたしは尊敬しています。ひとつしか歳が違わなくても、こんな素敵な作品が書けるのだと。勇気をいままで、与えてくれたんです」

 

 感謝と、尊敬。大好きなふたり。

 そのふたりはきっと互い、好き合っていて、ふたりがそうあることが、翠も好きなのだと思った。

 大事なのは、ふたりがふたりであること。自分がそこに挟まることではない。

 そうあってほしいと思うのはなにより、そこだった。

 あるいは、自覚をしていないだけ? ……ううん、そんなことはない。

 わたしにとってあのふたりは、「高校生・雪村翠」にとってどちらも等しく、欠くべからざる大事な存在なのだ。

 

「そう。そうか──ウン。わかった、きみのそれはきっと、本心からの気持ちなのだろうね」

 

 ひと呼吸置いて、父はそう言い、頷いた。

 

「聖せんぱいがいてくれたから、涼斗せんぱいたちと知り合えた。そういうわたしになれたから、葉月さんと友だちになれる自分にもなれた。涼斗せんぱいの書く彼のお話は、わたしの一番身近な目標だった。どちらも、かけがえのないものだから」


 自動車に飛び込んでいく、少年の姿が脳裏に再生される。

 彼は自分にとって、そして自分の大切に思う少女にとって大切な人。

 

「わたしよりずっと、聖せんぱいのほうが苦しい、つらいと思うんです。当事者である涼斗せんぱい自身も──第三者のわたしとはきっと、比べものにならない」

 

 結局ちからがあっても。それはこの状況になにも生み出せない。

 そう思うことこそ、それ自体が傲慢なのかもしれなくとも。それでも、感じずにはいられない。

 だれかを、なにかを「癒せる」ちからがあるくせに。

 一番近しい人たちになにもできないのか。

 これでいったい、何度目か、と。

 

「きみが気に病む必要は、ないことだと私は思う」

 

 父の言葉は既に誰かに言われたこと。自分でもまた、とうにわかっていることでもあった。

 しかし抑えられない。想ってしまうことが。

 わかっていても、いやだ。なにもできないのが、もう。なにかしなければ──できるはずだ、できなくてはいけないという焦燥感が身を焦がす。

 

「もう、なにもできないのは嫌なんです」

 

 率直な気持ちを、翠は父へと投げかけた。

 既にそこに、遠く身とこころの距離を隔てた父へのぎこちない感覚はなく。素朴にただ、答えを知り得ぬ子としての、親に縋る気持ちがあったのだった。

 

「できること、か」

 

 父はぽつりと、……けっしてこちらを馬鹿にしている風でもなく、しかし苦笑をするように呟く。

 

「もうほかの誰かに、既に言われているかもしれないことを言うよ」

「……っ」

「人というものはね、『できない』ことが当たり前なんだ。そういう出来事や、目の前の光景のほうがずっと、多い」

 

 だからどうか、大切な人になにもできないことを、できないでいる自分を責めないでほしい。

 告げられる父の言葉は、真摯だった。

 

「私も、きみのお母さんになにもできなかった。きみに、なにもできなかった。そのことで自分自身をどれほど嫌いになったかわからない。娘であるきみにまで、同じ心境で在り続けてほしくはない」

 

 上から見ているのではなく。──翠は子、父は親。そういう上下の関係性を会話に持ち込んでなにもおかしくないはずなのに、誰も何も違和感を覚えず、責めもすまい事柄なのに。ただ純粋に彼の願いを目線として投げかける。

 

「お父さん。……でも」

 

 そう。わかっている。

 父がただ、翠へと自分の願いをぶつけているように。

 翠がそれでも、『でも』と反駁をしてしまうのもまた、ただ翠自身の感情にほかならないのだと。自分の中にある理屈の産物という点ではそれは親子、変わらないものを互い向けあっている。

 

「逆に、できることも案外、いくらでも転がっているものだよ」

「──え……?」

「ごく簡単なことでも、人というのは救われるものだから。──これも、私の場合だけれど」

 

 譲れずにいる翠にしかし、父が続けた言葉はそれすら包み込んでいく。

 できないことがたくさんあっても。

 できることもまた、たくさんある。ごく、些細なことで──そんなことで、人は癒される。癒すことが、できる。

 

「時間は、ものすごくかかったよ。けどね、それでも私がこうして前を向けるようになったのは、そう、翠。きみがただ、健やかに、元気に育ってくれたから。それだけのことなんだよ」

「わたし……が?」

「そうだよ。私がしてもらった、してもらえてうれしかったのはただふたつ。それだけでどれほど、このこころが満たされたかわからない」

 

 ひとつは、きみという存在が『在ってくれた、在り続けてくれた』こと。

 そしてもうひとつはそれを冴が、折に応じて何度も、何度も、何度も飽きることなく、『伝えてくれた』こと。

 それらが、それらだけが、この身を、こころを支え続けてくれた。

 

「きみの先輩である少年も、時間はかかるかもしれない。けれど伝えること、伝え続けることで──そのこころをあたたかくしてやることはけっして、不可能なことではないんじゃあないかな」

「伝える、こと──……」

「だって。今こうして、きみにとって大切なことを相談し、伝えてもらえる。そのことが家族として今、私はとても誇らしい。きみがたしかに目の前に在って、話すことができて──ちからになれるのだから」

 

 そして、彼にもそのような存在がいるのだろう?

 

「家族とすれ違い、その関係性に絶望をしたとしても。その傍に在り続けたいと願い続けてくれる相手が。これまでずっと、その気持ちを伝え続けてくれた、女の子が」

 

 会ったことのないふたりをしかし、信じるように父は頷いた。

 翠さえもが諦めてしまいそうに、彼女たちのためにやるべきことをうまく見出せなかった中で、父は翠を、そして聖せんぱいを、また涼斗せんぱいを信じてみせてくれたのだ。

 いっぱい、涼斗せんぱいに言葉を伝え続けてきた聖せんぱい。

 ずっと、一緒にいて。そうすることを望んで。ずっと、ずっと。

 その姿を父は、イメージしてくれた。

 

「だからきみが彼女たちにできることがあるのなら。それはとてもシンプルで、簡単なことのはずだよ」

 

 行く末の見えないその行為に、もしもせんぱいが疲れてしまっているなら。彼女がわからなくなってしまって、いるのなら。

 聖せんぱいと涼斗せんぱいに、まだあきらめてほしくないと翠が願うならば。

 できること、それは──、

 

「──伝える、こと?」

 

 思わず翠は、椅子から腰を浮かしていた。

 翠の発した言葉に、……父は静かに、頷いて。

 

「……あのね、翠。大人とは、とくに親というものは子どもに接するとき、少なからずよかれと思って、その行為を決めているはずのものなんだ。私なんかでさえ、そうだった」

 

 言うのはきっと、涼斗せんぱいと、その両親のこと。

 

「少年の両親も、きっとそうだったのだろう。だがそれが、両者のあいだで絶望的に噛み合わなくなってしまった。そういう事例もきっとある。だからこそそういうときは第三者の、ほかの誰かのちからが必要なんだ」

「第、三者──……」

「だから、きみも。その少年の幼なじみも。少年も。つまりきみのせんぱいたち、どちらも。けっして間違っていないんだよ。きみの願いは、正しい。女の子の好意も、気持ちも。全然間違っていないんだ」

 

 だが彼らは──彼女らは、間違っていないということに気付いていない。自信を、持ち合わせていない。

 

「伝えることが、必要なら。わたしは」

 

 わたしが望むことは。すべきだと、信じられることは。

 父に、わたしが成長をし、はぐくまれ、存在をし続けることで希望をもたらすことができたのなら──同じことを聖せんぱいも、涼斗せんぱいにしてあげられるということ。

 それを、彼女に伝えること。彼女が愛を持って、持ち続けて涼斗せんぱいの傍に在り続けてくれるのならば、それはきっと、いつか希望を生み出してくれる。

 

「──お父さん。わたし」

「行きなさい、翠。今日は私は、十分すぎるくらい、きみに満たしてもらえた」

 

 だから、行きなさい。父は繰り返す。

 

「きみが今、最もちかくで、最も満たしてやりたいと願う人たちのところへ。きみ自身がそうしたいと思うようにするといい」

 

 癒しのちからの有無など関係なく。願うままに。その行動はとても、とても簡単なこと。

 

「伝えなくちゃ」

 

 聖、せんぱいに。

 諦めないで、って。

 涼斗、せんぱいに。

 振り向いてみて、って。傍にいる人に、諦めさせないで。どうか。

 喧噪の中を踵返し、翠は歩み出す。一歩、一歩、歩調は速く、大きくなって。

 その背を見つめる父へのいくぶんの申し訳なさと、大きな感謝とを抱きながら、しかしもう振り向かない。

 人の波の中を抜けていく。

 十分すぎるものをもらった。自分にはもったいないくらいの時間を父とともに過ごせた、と思う。

 これ以上は、またいつでも会える。翠が翠として存在し続ける限り、それを父は見つめ続けてくれているのだから。

 そのあたたかな瞳が見守ってくれているから、翠は今、走り出せる。

 向かうのは、柊宮神社。

 伝えるんだ、せんぱいに。せんぱいが、間違っていないこと。

涼斗せんぱいのこと。『諦めないで』って、こと。

 それが今、わたしにできること。

 伝えるんだ。

 信じてもらうんだ。

 聖せんぱいに、涼斗せんぱいと、ずっとずっと、繋がっていてほしいから──。

 翠の大好きなふたりに、互いを大好きなその気持ちをふたり、手放さないでいて、ほしいから──。

 

 

          (つづく)

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