25/ 聖と、翠と、姉妹の距離
「──え」
同じシーツ。
同じ毛布。
同じ、ベッド。
一夜をともにした涼斗は、聖を抱くことはなかった。
それがよかったことなのか、悪かったことなのか。聖にはわからない。
ただ間違いのない事実、出来事として、ふたりぶんにはけっして広いと呼べないシングルベッドにともに布団に包まり眠った聖と涼斗は表面的な言葉の通りにまさに、ともに『眠った』だけだった。
同じシーツに潜り込んだ聖に彼はけっして背を向け拒絶はしなかったけれど、それだけでしかなかった。
彼の投げ出した掌と、掌が重なった。
上目遣いに視界を開くと、寝入ろうとする瞬間の彼の、まぶたを閉じた顔が目の前にあった。
文字通りの意味でしかない、同衾の二文字がそこにあった。それ以上を彼はけっして、望んでいなかった。
彼の手を握ったまま、聖もまた眠った。たったそれだけの、夜だった。
朝、目覚めてみても開いた瞳の先には涼斗の寝顔があるだけ。僅かに寝乱れて皺の寄った着衣にはそれ以上の異変はなく。ほんの少し、頭のうしろのほうが寝癖気味であったばかりでしかない。お行儀よく眠りに落ちたふたりは、お行儀のいい寝相のふたりでもあった。
「メイ、が? ……なんで」
そんな寝起き、ひとつのペットボトルのミネラルウォーターを交互に飲んで、渇いた喉をふたり、潤して。
ほどなく、ホテルを出た。自分では連れ戻せないことが聖自身、そのとき既に理解をしてしまっていた。
だから、駅まで送るという涼斗の言葉に素直に従うよりほかになかった。彼はわざわざ入場券まで購入して、新幹線の到着するそのときまで聖のことを見送ってくれたのである──……それは彼に、聖とともに同じ場所へと帰る気がないからこそ導かれた行動でもあった。
無力は、理解していた。できることがないと、わかっていた。
一番近くにいたはずなのに、それでもなにも、やってやれないと。そのことが自覚できるからこそ、駅のホームをあとにする列車にただ、日常を送るその街までのあいだを揺られ続ける気持ちに聖は、なり得なかった。
「うん。……うん、そう。でもまさか、メイが帰ってきたなんて、ひとりで」
ひとりで辿る帰途の旅路に、このままではちょっと耐えられそうになかった。だから気の向くまま、べつにその土地に興味があるでもないままに、ふたつめの駅で列車を降りた。
なにをするでもなくぼうっとホームのベンチに腰を下ろして、キヨスクや、行き交う人々を眺めては深く息を吐いた。
そうしていて、翠からの電話を受けた。今度は着信を無視することなく、通話ボタンをフリックして、ほんの丸二日ほど聞いていないだけなのにひどく懐かしい後輩の声に耳を傾けた。
そして知った。自分の仮病が知られたこと。
自分が情報を遮断し目を伏せているあいだにも、翠が直面した出来事のひとつひとつを。
「心配かけてごめん。メイが、世話をかけたね。……うん、私からも連絡入れる。メイは翠の家に、いるんだね」
ベンチから重い腰を持ち上げて、ホームに立つ。
行きは独りだった旅路は、帰りも独り。涼斗を独り残して、戻る。
通話を切って、天を仰ぐ。心の中にあるのはどうしようもない、無力感だった。
「ごめん」
翠のようにはできない。なんのちからもない私には、一番身近な奴さえも癒せない。なんにもできない。──思案に沈みゆく聖は思い至らない。翠もまた同種の無力感に少なからず苛まれ得るということ。それはなにも、特別に彼女ばかりが抱くことではない──……。
「ごめん、涼斗」
自身の両肘を握るように、自らを抱きながら。滑り込んでくる新幹線が運ぶ風を前髪に感じる。
助けたいのに、助けられない。
魔法少女のようには、私には──できない。
* * *
そうして、聖せんぱいは戻ってきた。
半ば放心をしたような、心ここにないような疲れきった様相で、メイさんを迎えにやってきて。──彼女が迎えに来るそのときまで、メイさんは自身の家である柊家の部屋ではなく、翠と冴さんの暮らす家にいて、過ごしていた──お世話になりました、ご迷惑をおかけしましたと、冴さんに深々と頭を下げた。
噓をつくのは感心しない。
家族になにも言わず、学校をさぼってどこかに行ってしまうのも。
それがきみにとって必要と信じたことだったとしても、現に妹さんとこうしてすれ違っている。
二度としないようにしなさい。
心配をかけてはいけない。困らせてもいけない。
冴さんは、手厳しくも思えるそれらの声を聖せんぱいに、言って返した。
元来、冴さんは沈み落ち込んでいたり、気持ちの上で弱っている相手に追い打ちをかけるような行為を好む人ではない。けれどそんな聖せんぱいに対して彼女は珍しく、……多分、大人として、未成年を見守る保護者の側に立つ者として固い声音と言葉とで、そこに静かな叱責を投げかけたのだろう。
穏やかで放任な「冴さん」としてではなく。大人として、未成年を叱った。そういう図式だったのだ、それは。
「……あの」
そういうことが、あった。
戻ってくるべき人が戻ってきて、戻るべき人はその人のもとに戻る。それが以降の自然な流れのはずだった。
「んー? なあに、翠さん」
なのにメイさんは、翠の部屋にいる。彼女は姉と一緒に自身の家には、戻らなかった。そのことについては冴さんはなにも言わず、当人同士で好きにしろと子どもたちにどうするかを任せたのである。
だから彼女は戻らなかった。夕ご飯ができたら呼ぶから、と、半ば諦めたような雰囲気で言い置いた聖せんぱいに、……せんぱいは翠に、冴さんにもう一度「すいません」と頭を下げて隣家に戻っていった──なんでもないことのように軽く同意を示して、こちらに残ったのだ。
「ほんとうに、戻らなくていいんですか? せっかく聖せんぱいだって帰ってきたのに、一緒じゃなくて」
「んー?」
久しぶりの姉妹水入らずのはずでは。素朴な翠の疑問。
向けられたツーサイドアップの少女は翠のベッドの上に寝転んで雑誌をぱらぱらめくりながら、気のない声音の返事を曖昧に返す。
彼女が目を落としているのは翠が毎月購入している、開催中の小説新人賞の募集内容がいくつもまとめられた、そういう雑誌だ。
そんなに、帰国したばかりの中学生の少女の興味を深く惹くものではない。
生憎と、同年代の子たちが目を輝かせるような、ティーン向けファッション誌などというものは翠の部屋にはない。読み物らしい読み物といえば文庫本と、月ごとに増えていくその雑誌くらいだ。
自然、メイさんのめくり読み進めるその目線の動きも暇つぶし、流し読みという程度に過ぎないのがわかる。それはそうだろうな、と、机上のパソコンから彼女に振り向き移した視線の中、翠は頷けた。わたしが知りたいことがあるから買っている雑誌であって、読んだ誰かを楽しませる、自分が楽しむためを第一にしたものではないのだから──……。
「なにー? ひょっとしてメイ、お邪魔?」
「ああ、いえ、そういうわけでは」
ただ、せっかく姉妹揃ったのだから。別々に過ごすより、ふたりでいるほうが楽しいのではないかと思っただけ。
「いいんだよ。お姉ちゃん、疲れてたみたいだからさ。しばらくひとりになりたいと思うんだ。……まして、メイと一緒にいたらお姉ちゃんはきっと、もっとたくさん疲れちゃうよ」
「え?」
「お姉ちゃんはね、メイが魔法を使えるってことも知らない。傷を癒せるって、知らない。そういう距離感なんだよ、メイとお姉ちゃんは。……くやしいけど」
自身も不思議なちからを持つと──魔法を使えると翠に告げた少女は雑誌を閉じると、自嘲するように苦笑を見せつつ、深いため息とともに言った。
「嫌いなんじゃないよ。お互い。お姉ちゃんはきっとメイのこと、大切に思ってくれてる。メイももちろん、お姉ちゃんのこと、大好き」
「……どういうことです? よく、わからない」
自分の立場で踏み込んでいいことなのかどうか自信もないまましかし、翠は彼女へ問う。
好きなのに距離が、遠い? とは? 血のつながったふたりきりの姉妹なのに?
両者の関係性がそんなに単純なものでないこと自体は翠も知っている。聖せんぱいは以前たしかに、妹さんのことを苦手だと言っていた──やはり彼女も、妹さんを好きだといいつつも、それでも。
「メイがね、いけないんだよ。メイと、お父さん、お母さんたちが」
「?」
「お姉ちゃんのことは好きだけど、正直ピアノのことはメイ、そんなに大事じゃないんだ。たまたまほかの人よりなんだか上手くやれる……らしいってずっと、言われてきただけ」
そしてそれが、両親の求める子どもとしての像に合致してしまった。
「お姉ちゃんがやりたかったこと──野球は、そうじゃなかった。メイの場合はそうだった。音楽、ピアノっていうね。ほんの、たったそれだけの違いのはずなんだ、ほんとうは」
「でも、だったらどうして留学を」
「そりゃ、これだけ続けていたらきっかけはどうあれ、ピアノをやってる自分が当たり前にもなるよ。今更には変えられないっていうか」
まだ十五年にも満たない人生だけど。でも言葉にしてみると十五年って長い。
メイさんの発した理屈はピアノという世界で幼い頃から年長者に揉まれ、巻き込まれてきたからだろうかひどく老成したものに翠には感じられる。翠はもう高校生だけれど、そういう風に果たして、人生というやつを考えたことがあるだろうか?
──ううん、きっと違いはそこじゃない。たぶん自分も似たようなことを、日常におけるそれ自体はやっている。
父と離れての暮らし。その、「当たり前」。今更どのように変えたらいいのかなんてわからないし、その一歩を踏み出すきっかけもない。
そうだ、……柊 命という少女にあって翠にないものは、その変化を望み実行に移すきっかけを掴む気概なのだろう。
「もちろんそれだけじゃないよ。メイが誰かを癒すには、ピアノが必要だから」
「え……」
「今のメイじゃ、ほんとうに小さな傷とか、そういうものしか癒せないんだ。メイのちからは、メイの音楽に載せてしかほかのだれかを癒せないから」
「音楽で──癒す……?」
はじめて聞く、それは方法だった。翠は自分のやり方と異なるあまりに優雅にも思えるその光景を、脳裏に描いた。
「だから留学、受け容れたんだよ。望んだんだ。お父さんたちがメイを、ピアノを優先することはわかってた。聖お姉ちゃんの視界から自分やお父さんたちを一時的にでも消せる、いい機会だとも思った」
しかし少女はその光景に満足していない。自分のちから、できることの限界を飽き足りなく思っている。
あのときの──葉月さんたち姉妹を癒せなかったときの感覚が、翠の中に蘇る。
翠がそうして抱いた無力感を、……幼き日に受けた衝撃を。彼女もまた胸に抱きながら育ってきたにちがいない。
それを打開する。自分にはできなかった発想であり、想像できなかった模索だ。見た目よりずっとやっぱり、この子は大人びている。
「今よりずっと、ピアノが上手くなって。もっとずっと、すごくなれたら。いろんなものをもっと癒せるんじゃないかって、思う」
ただ手をこまねいているだけの自分とは違う。その感覚に翠は自分自身を恥じ入る気持ちすらあった。
自分は悩み、困るだけ。なにもできない。なにも、できていないまま。
せんぱいたちを心配し原稿に向かう手を止めて悶々としているだけだった。
この子は、違うんだ。
「メイがお姉ちゃんの可能性を狭めたのなら、お姉ちゃんはメイが癒さなくちゃならないの。──お姉ちゃんを癒すために、メイは留学したんだ。慌てて戻ってきたのも、翠さんっていう新しい可能性のことを知ったから」
葉月さんの、朋花さんの。
聖せんぱいの、涼斗せんぱいの顔が交互に翠の意識の奥底に去来する。
「メイはお姉ちゃんからなにも奪いたくないんだ。取り戻してほしい。諦めたことや、封じ込めてしまったこと、全部」
前に進む自信も。
大好きだった、野球も。
「お姉ちゃんはメイが癒さなくっちゃ、いけないんだよ」
この子は、立ち向かっている。
自身の無力さに。
そこに留まることをよしとしないで──……。
(つづく)
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