ただ距離だけが美しい
湿原工房
第1話
3日ばかりの休暇を利用し、妻と、息子、娘を連れて私の実家に行くことになった。最後に帰ったのは、妻と結婚してすぐの頃で、もう何年も以前になる。父と母が連絡をよこすことはあったが、こちらから連絡したことはほとんどなかった。子供たちにはまだ行ったことのない土地だった。その喜びようを見ると、故郷に特別の思いのないこちらまで嬉しくなってくる。一家揃って出掛けることも、近くのスーパーなんかへ買い物に行くくらいに限られ、旅行なんかしたこともなかったのだから、彼らにしてみると並々ならない期待が身中で暴れもするのだろう。妻もそうした子らの様子に顔がほころんでくるようだ。
子供たちは出掛けるとなると、玄関から私たちを急かすのが常だったが、なぜかこのときは進んで手伝ってくれる。
「もうない? もうない?」
と、次の仕事を催促してくる。
「もうないよ」
妻は手に提げたみやげ物を私に預けると、もう一度家の中を確認をしてくると言って奥へ戻っていった。
「お母さんといっしょに戸締りの確認しておいで」
私が言うと子供たちは廊下を響かせて妻のほうへ走っていった。妻が指示する声をうしろに聞きながら車に向かった。
「お出掛けですか」
庭木の手入れに出てきたお隣さんが、ブロック塀の向こうから言った。
「ええ、ちょっと実家のほうへ」
「あらいいですね。お子さんが喜ぶでしょう」
「騒がしくしてすいません」
「いいのよ。楽しんでいらしてね」
「ありがとうございます、2人で行ったときよりいいものですね」
「それはそうよ、あら」
「かくにんかんりょー」
黄色い声が家から飛び出して、3人が家を出てくる。
「それではお気をつけて」
「はい、いってきます」
「いってきまァーす」
と息子が言い、それに倣って娘も言う。
「良太君、知花ちゃん、いってらっしゃい。楽しみだね」
「奥さんちょうどよかった。朝回覧きてたから渡さなくちゃって」
「あ、はいはい。気を付けてね」
「ありがとうございます。いってきます」
子供たちが車を揺すりながら乗り込む。シートのあいだから顔を突き出し、
「ねえねえねえどれくらい、着くの」
と運転席の私に尋ねる。
「七時間くらいかな」
「それってしょうご?」
最近知った言葉なんだろう、このあいだも十二時に「正午」を報せてくれた。
「正午は難しいな」
と笑いながら答える。
「正午にお昼ごはん食べようね」
と助手席に上がった妻が言った。
「お弁当つくったんだよー、どこで食べようかなー」
と言って満面の笑みをうしろのふたりに送った。私はエンジンを掛けると、良太が知花を引き寄せて言う。
「危ないから座ってなさい」
良太も知花も大人の真似をしたいのか、ほかに知らないからか、大人の言葉を真似る。以前、スーパーのお菓子コーナーから「おいでー」と母を呼ぶので、妻は動転しながら知花のもとへ駆けていった。その後、何度かそれを指摘したというが、あいかわらず「お母さんおいでー」と呼ぶ。良太のほうは兄であるという意識があるらしく、知花に対してそうした言葉遣いをする。
子らは見たことのない景色に齧りついて目を離さない。木々の緑の隙間からせわしく川が覗いたり隠れたりを繰り返している。一瞬、藪が途切れ、視界がひらけた。対岸の緩やかな斜面の上に広がる畑や、さらにその向こうに見える山の裾に隣接する家が見える。そしてすぐまた木々が立って、隠れてしまった。2人は次の瞬間も見逃すまいとしている。この子たちにとって、山は遠いところに淡く見えているものであったし、肩を寄せ合う住宅地からは、その遠いものが地続きのもののだとは了解していなかっただろう。彼らの知る緑は街路樹のそれか、公園にあるものだったし、川はコンクリートの矩形の中を流れるものと思っていただろう。いま目の前にある光景を、子供たちにはどう解釈し、記憶として残していくだろう。――
私たちはここの河原で弁当を食べることにしていた。
「どのあたり?」
「もう目鼻先だよ」
そこは父と母と3人で、川遊びをした場所だった。私がまだ小学生に上がるかどうかという頃のことだ。
「あなたの実家からも遠いのに、どうしてこんなところまで来たのかしら」
「たしかに近くはないな。――ただ、俺の田舎ではこのくらいの距離はそれほど遠いって感覚はないんだな。まあ、なんでここだったのか、それはわからないんだけど」
数年前に最後に帰省したとき、両親の老いを見た。故郷愛を感じない私にとって、必要のない帰省は労多くて益無いことだったから、その時も何年振りかの帰省だった。式も挙げずいっしょになった妻と迎える最初の連休だからと、顔を出すことにしたのだ。それを発案したのも妻だった。その数年が、両親の背中や顔に老いを強く感じさせたのかもしれない。私はその姿にどう応じればいいか、独り当惑していた。ときに腕を挙げて私を叱ったかつての父も、可愛らしいサイズの車で買い物に連れて行ってくれたあの母もいなかった。
形成された立場関係の崩れるのを恐れる、私はそんな人間だった。上に立っている人間はいつまでも上にいてほしい。帰った私は、父の細くなった腕に、また自分の車を売り、移動は父の運転する車による母に、見てはいけないものを見た思いがした。
妻は過去に一度、私の実家を訪れたことがある。それは二人が大学を出て間もない頃だ。彼女の目には、この両親がどう映ったのか。
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