妖家の花嫁

雪月香絵

天は月と出逢う

父の失態ー①



「お前は今日から、俺の花嫁だ。よろしく、花嫁殿」


 表情一つ変える事なく、冷たく言い放った目の前の男に、紫乃しのは震えが止まらなかった。

 射抜くような、まるで血の滴るやいばのように鈍い光を携えたその瞳は、鋭く、紫乃を真っ直ぐに見つめた。

 窓から映る月が、美しく2人を照らす。夢のようなその光景を、背中の痛みが夢ではないのだと告げる。

 濡羽ぬれば色の髪。血の気のない真っ白な肌。月を閉じ込めたような琥珀こはくの瞳。そして、その背中にある、漆黒の翼。

 人ではない、その姿。恐怖で、紫乃は動くことができなかった。


ーーきっと私は、喰われるのだろう。


 その冷酷な瞳。恐ろしいほど美しい、人ならぬ姿。

 喰われるのは、その身か。それとも心か。

 紫乃は息を呑む。覚悟を決めなければならない。なぜなら、今日からこの男の花嫁になるのだから。










*****







 時は明治。古くから続く名家、八雲やくも家。神の血を引いていると言われるほど、遥か昔から続く八雲家だったが、時代の移り変わりと、主人の類稀たぐいまれなるお人好しにより、その暮らしは名家とは呼べないほど質素なものだった。


 その日もまた、娘・紫乃の呆れた声が響いていた。


「お父様、それはなに?」


 紫乃の視線は、父が持つヘンテコな壺に向けられていた。


長谷川はせがわ様にいただいたんだよ」


 人の良さそうな笑みを浮かべ、口の周りに蓄えられ整えられた髭が揺れるこの人物は、この八雲家の主人・八雲源治やくもげんじだ。

 手には悪趣味な柄の壺。気持ちの悪い、壺に描かれた人のような生き物に紫乃は嫌悪感を抱いた。

 紫乃に睨みつけられたその壺を、源治は大切そうに抱えていた。


「長谷川様ですって?本当にいただいたの?」

「あぁ、私の持っていた翡翠の代わりにな」


 にっこりと微笑んだ父と反対に、紫乃は血の気が引き、眩暈がする。


「まさか、うちの家宝の翡翠のこと?」

「そうだ」


 紫乃は力が入らなくなり、その場にふらふらとへたれ込んだ。大丈夫か、と源治は声をかけたが、そんな声は紫乃の耳には入らない。

 源治が渡してしまった翡翠は、この八雲家の家宝。この家が出来た時からり、何度もこの家を危機から護ってきた大切な石なのだ。何があっても翡翠だけは手放してはいけないと先祖代々言われてきたのに、なぜ渡してしまったのか、と紫乃は父の行動に目の前が白黒する。


「うちがどんなになろうと、あの石だけは手放してはいけないはずでしょう。どうして渡してしまったの」


 弱々しく、紫乃は父に問う。すると源治は言いづらそうにしながら答える。


「長谷川様が、あの翡翠があるから紫乃が嫁にいけないんだと言うもんで」


 紫乃は呆気に取られ、目を丸くして言葉を失った。


「代わりにこの壺があれば、お家も紫乃も安泰だろうって」


 言葉を失い、眉間を抑えて怒りをこらえる紫乃。

 たしかに紫乃はもう22歳。とっくにお嫁に行ってもおかしくない年齢だ。それに、紫乃はそれはそれは美しい娘だった。長く整えられた黒髪に、白く透き通った肌、黒曜に淡く藤色が覗く瞳。質素な生活のせいで、痩せて髪に少し艶はないが、それでも花のように美しかった。

 もちろん、家柄とこの器量のよさで多くの男性からぜひ嫁にと、過去にいくつも縁談話が上がった。だが何故か急に破談になったり、この父のそばを離れることに不安が拭いきれず、結局はこの歳まで結婚には至る事はなかった。


 誰のせいで嫁に行ってないと思ってるんだ、と紫乃は言葉が出かかったがそれは飲み込んだ。


「今すぐその壺をお返しして、翡翠を取り戻してください」


 なんとか怒鳴り散らすのを我慢して、紫乃は源治に言ったが、えぇと小さく源治は声を漏らす。


「長谷川様は気難しいお方だからなぁ。それにこの壺を返して、不幸が訪れたらどうするんだ」

「関係ありません!それにあの翡翠が我が家に無い方が不幸が訪れます!」


 はっきりしない態度の父に、紫乃はきっぱりと言った。でも、といつまでも煮え切らないその態度に、紫乃はしびれを切らして言う。


「では、私がお返しに行って参ります」


 ずかずかと源治に近付き、興奮した様子で怪しげな壺を奪い取る紫乃。残念そうに眉を下げて何か言いたげな源治だったが、紫乃の気迫に負けて、がっくりと肩を落とした。

 父から奪い取った壺を風呂敷で包み抱えると、紫乃は厳しい口調で言った。


「それでは行ってきますから、くれぐれも父様はきちんとお仕事なさっていてくださいね」


 気の抜けた返事をする父を残し、紫乃は無駄に重い壺を抱えて家を後にした。



 ただでさえ気の重い紫乃に、このおかしな壺の重さがますますのしかかる。道ゆく人におかしな目を向けられながら、紫乃は早足で長谷川邸を目指す。


 長谷川の家は、いわば成り上がりである。長谷川の現在の主人である、長谷川一郎はせがわいちろうは類稀なる商才と、諦め悪い性格と口のうまさが功を奏し、一代で財を築いた。だがその諦め悪さと口のうまさで、紫乃の父のような"お人好し"をだます、ということが度々噂され、他の金持ちや名家の主人達からは煙たがられていた。

 紫乃ももちろんその噂を知っていたので、長谷川邸へ行くことは、できれば避けたいところだった。だが、家宝である翡翠が長谷川の手にあるとなれば別だ。

 紫乃は覚悟を決め、真っ直ぐに長谷川邸へ急いだ。




 やけに金の装飾の多い、西洋風の大きな建物が見えて来る。あれが長谷川邸だ。まるで長谷川の嫌な人物像が見て分かるようだった。

 長谷川邸の玄関前に着いた紫乃は一呼吸置いた後、重厚感あふれる大きな扉に向かって声をかける。


「ごめんください」


 大きくかけたその声は、虚しくも空気に溶け込んでいった。

 もう一度声をかけようと息を吸ったその時、控えめに屋敷の扉が開く。


「どちら様でしょうか」


 扉を少し開いた隙間から、使用人らしき人物が顔を覗かせた。その表情は、とてもお客様に向ける顔では無いように見える。突然訪れた人物を警戒しているのだろうか。

 そんな女性に、紫乃は貼り付けたような笑顔で言う。


「私、八雲と申します。ご主人の長谷川一郎様に用があって参りました」

「はぁ」


 ハキハキと言う紫乃に対して、使用人らしき女性は特に反応を見せる様子もなく、気の抜けた返事を漏らしただけだった。


「長谷川様はいらっしゃいますか」

「ええ、おりますが一体どのような御用件で?」

「父が世話になったようでして、この壺をお返しに参りました」


 面倒臭そうに聞いてくる女性は、紫乃が手に持つ壺に目を向けた。じろじろと壺と紫乃を上から下まで見ると、小さくため息を漏らしたあと、素っ気なく言う。


「確認して参りますので、お待ちを」


 バタンと、まるで拒絶を表すかのように少々乱暴に閉められた扉と、女性の来客へあるまじき態度に紫乃は怒鳴りそうになったが、こらえる。他人様の玄関先で、下品に騒ぎ立てるなどあってはならないからだ。


 壺は重く、立ちっぱなしで足が痺れてくるほどには待たされた頃だった。突然扉が勢いよく開かれる。


「中へどうぞ。お会いになるそうです」


 ぶっきらぼうに言う女性に、ありがとうございます、と紫乃はなんとか怒りを耐えながら言った。


「こちらです」


 振り返ることもないまま、紫乃を置き去りにするかのように女性はバタバタと玄関正面にある大きな階段を登っていった。

 屋敷の中は、外見同様、金の装飾や趣味の悪い置物や絵画。これでもかと長谷川の富と権力を誇示するかのようなもので溢れていた。

 紫乃はその内装に眉を少し顰めたが、姿が見えなくなりそうなほど、さっさと階段を登る女性を慌てて追いかけた。




 

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