天穹に詩う

GB(那識あきら)

1 物言わぬ花

 派手な音をたてて水差しが床に落ちた。中に残っていた水が、剥き出しの石の床に飛び散る。

 奥のベッドで入院患者の身体を拭いていた同僚から、即座に「何やってんの」と叱咤の声が飛んできた。

「すみません!」

 マニは身をすくめると、深々と頭を下げた。

 ここは、古都ルドスの治療院。癒やし手見習いとして働くマニは、敷布を取り替えに各病室をまわっているところだった。この部屋で最後という段になってうっかり気が弛んだのか、替えの敷布を一旦ベッド脇の台に置こうとして隅に置いてあった水差しを引っかけてしまったのだ。

 険しい眼差しで振り返った同僚は、マニの顔を見るなり、一転して決まりの悪そうな表情になった。

「……あ、まあ、気をつけて、ね」

 先ほどとは打って変わって、歯切れの悪い口ぶり。

 マニはそっと口を引き結び、足元から水差しを拾い上げた。

「すみませんでした。水、汲んできますね」

「いいの、いいの。まだこっちにもあるから、大丈夫よ!」

 少し大仰に両手を振ってから、同僚は再び患者のほうへ向き直った。

「でも」

「それよりも、詰所に今誰もいないんじゃないかしら。敷布はあとで私が替えておくから、そちらをお願いできる?」

 てきぱきと仕事をこなす彼女の背中は、マニの目にはとても頼もしく、そして美しく映った。対して、「わかりました」と俯き返答するおのれの、なんという情けなさよ。

 溜め息が漏れないようマニは口元に力を込めると、そっと部屋を退出した。

 

 マニが癒やし手としての修行を始めて、今年で四年が経つ。入門に際しての「見極めの儀」では申し分のない成績を残し、術師としての素質は充分と言われたにもかかわらず、未だに彼女は簡単な術しか使えずにいた。文字通り寸暇を惜しんで癒やしの術の習得に励んでいるのだが、どうしても成果が上がらないのだ。

 ――このままでは、何もできないまま終わってしまうかもしれない。

 治療院の廊下をとぼとぼと歩きながら、マニは大きく息を吐いた。喉元までせり上がってきた不安感を無理矢理呑み込んで、突き当たりの扉を開く。

 同僚が言ったとおり、詰所は無人だった。

 もっとも、この部屋に人がおらずとも大して不都合はない。街の人間にとって治療院とその隣に建つ礼拝堂は、自分の家も同然だったからだ。勝手知ったる我らが教会、わざわざ詰所を通さずとも、適当にそこらを歩く人間を捕まえれば大抵の用事はそれで事足りる。

 つまり、マニは体よくあの場から追い払われたのだ。

 溜め息を道連れに、マニは窓辺へと寄った。街並みの向こう、高台にそびえる領主の城を望む。

『君が働く必要など、ない』

 忌々しそうに吐き捨てる領主の声が耳元に甦り、マニはきつく目をつむった。

 マニは、ルドス領主の遠縁にあたる。マニの家は何代も前にまつりごとの一線から退き、今は先祖の残した土地を郷士たちに貸与することで辛うじて糊口をしのいでいる、名家とは名ばかりの、ただ古いだけの家だった。

 そんなマニを、領主は妻にと望んでくれていた。感謝こそすれ、疎ましく思うなどもってのほかだろう。

 ――しかし。

 マニはそっと柳眉を寄せると、胸元でこぶしを握り締めた。溜め息に合わせて、琥珀の髪が優雅に揺れる。肌は真珠、瞳は翡翠。物言う花、と領主が誉めそやすその見目は、憂いすらも艶に変えるようだ。

 マニが十五を迎えた春、すぐにでも輿入れを、との領主の意向を伝える両親に、彼女は必死の思いで「もう少し待ってほしい」と言葉を返した。今の自分に領主夫人が務まるとは、とてもではないが思えなかったからだ。

 可愛い一人娘の、恐らくは生まれて初めての我が儘に、両親は揃って領主に頭を下げた。曰く、この子はまだまだ未熟です、今のままでは領主様にご迷惑をおかけするばかり、もうしばらく世の中のことを学ばせていただけないでしょうか、と。

 そうして、マニは癒やし手になるために治療院へ通い始めた。とにかく何か人のためになる仕事をしたかったからだ。それに、癒やしの術を司るアシアス神はルドスの守り神とされている。領主の妻となるのならこれ以上の肩書きはない、と、そう彼女は考えたのだ。

 しかし領主は、マニが「働く」ことに否定的であった。野外作業はするな、日に焼ける。水仕事などもってのほか、手が荒れる。そもそも金が欲しいのならば、幾らでも私が融通してやるのに。マニが勤めだしてすぐに教会に物言いに来た領主のせいで、同僚達はマニを腫れ物に触るように扱うようになった。

 それから四年。一向に癒やしの術が上達しないことも手伝って、マニはすっかり治療院のお荷物となってしまっていた。

 ――もう、諦めてしまったほうがいいのだろうか。

 一際大きな溜め息がマニの口をついて出たその時、騒々しい足音とともに詰所の扉が開いた。

 

 

 戸口に現れたのは、僧衣を着た中年の男だった。ただでさえよく日に焼けた顔が、白い衣のせいでますます黒く見える。

「助祭様」

 助祭と呼ばれた男は、小柄な体躯には見合わない力強さで、扉の陰からもう一人、栗色の髪の若い男を引っ張り出した。

「丁度良かった、マニ。こいつの怪我を診てやってくれないか」

「え、私がですか……?」

 突然の事に狼狽するマニに向かって、助祭はひそひそと声を落とした。

「急を要す怪我ではないから、おぬしの練習台に丁度いいと思ってな」

「え、でも……」つられてマニも、小声で返す。「私などでは……」

「構わん、構わん。わしが責任をとるから」

 教会の誰もがマニに対して他人行儀に接する中、この助祭だけは、他の者と分け隔てなく話しかけてきてくれた。彼がいなければ、恐らくマニは四年も経たずに修行を諦めてしまっていただろう。

「ほれ、おぬしもさっさとこの椅子に座らんか。何をぼんやりしとる」

「え、あ、はいっ」

 助祭の傍らで呆けたように立ち尽くしていた若者が、心持ち赤い顔で、弾かれたように背筋を伸ばした。助祭が引いてくれた椅子に腰を下ろし、マニに向かって右手を差し出す。

 手の甲一面が、赤剥けた火傷となっていた。

「……これは……痛そうですね」

 ええまあ、と軽く頷く彼の額に脂汗が浮かんでいることに、マニは気がついた。施術の邪魔にならぬよう、静かに痛みに耐えているのだろう。苦痛のあまり暴れたり、叫んだり、八つ当たりをしたりする者も少なくない中、彼のこの心遣いはマニにとってとてもありがたいものであった。

 術の練習台、などと自分本位なことしか考えていなかったおのれを恥じながら、マニはゆっくりと両手を前方に差し伸べた。同僚達のように洗練された術でなくともいい、少しでも彼の傷を癒やせたら、そう一心に祈りながら。

 

 空中に指で印を描きながら、「消炎」の呪文を唱えてゆく。形成された力場が次第に指先に収束するほどに、マニの心臓は高鳴り、高揚感が身体を満たす。

 今こそ、みなぎるちからを解き放たん。マニは若者の右手にそっと触れると、術を起動させた。

「……あ、れ?」

「どうした?」

 固唾を呑んで見守ってくれていた助祭が、若者を押し退けて身を乗り出してくる。

「……あ、も、もう一度やり直します……」

 すみません、と頭を下げるマニに、若者がにっこりと笑いかけてきた。

「そんなに緊張しないで」

「あ、はい、でも」

「もしかして、新人さん?」

 髪と同じ栗色の瞳が、そっと緩む。その眼差しがあまりにも優しくて、マニの肩から力が抜けた。

「あの、私、これでも四年目なんです……。なかなか上達しなくって……」

 笑われるか、呆れられるか。マニの覚悟を、柔らかい声がそっと包み込む。

「ゆっくりと、一歩ずつ進んでゆけばいいんですよ」

「そういうおぬしが、一番その台詞を必要としているんだろう」

 笑い声とともに、助祭が若者の頭を軽く小突いた。「自分の術で火傷をした魔術師など、初めて見たぞ」

 若者が魔術師と聞いて、マニはつい目をしばたたかせた。マニにとって魔術師といえば、領主お抱えの、恐ろしく厳めしい白髪の老人のことだったからだ。

 実は、癒やしの術も広義では魔術の中に含まれる。「アシアス神聖魔術」というのが癒やしの術の正式名称なのだが、長くて呼びづらいため、皆、通称の「癒やしの術」としか言わないだけのことだ。

 対して、一般に「魔術」といえば、古代ルドス魔術のことを指した。祈りによって神の加護を得る癒やしの術と違い、古代ルドス魔術は既に失われて久しい古代語を触媒とするため、その習得には多大な知識が必要となってくる。

 領主の城の老魔術師と比べてしまうとどうしても目の前の若者が頼りなく見えてしまうが、きっと彼も素晴らしい叡智の持ち主なのだろう。そう素直に感心しかけて、ふと、マニは眉を寄せた。

 ――自分の術で、火傷を……?

「この間も、術を失敗して頭にコブこさえていただろう」

 助祭のからかい声に、若者が慌てふためく声。

「あ、いや、その、ですから、少しずつ、ゆっくりと、ですね……」

「その前は、切り傷だったか」

「もういいじゃないですか」

 にやにやと笑う助祭に恨めしそうな一瞥を投げて、若者は再びマニのほうへ向き直った。ごほん、とわざとらしい咳払い一つ、場を仕切り直す。

「だから、あなたも焦らずじっくり練習すればいいんですよ」

 全く慰められた気がせず、マニはつい溜め息をついた。

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