第24話 無意味【愛美視点】

 愛実が橋の上で女の自殺を止めた翌日。


 愛実は学校に行く前にお父さんの仏壇の前に座り、線香を立てて手を合わせた。


「お父さん。私もね、人を救ったんだよ」


 ゆっくりと目を開けると、写真の中のお父さんの口角が少しだけ上がったように見えた。


「じゃ、今日も一日頑張ってくるね。いってきます」


 写真の中で微笑むお父さんに手を振って、仏間を後にする。リビングのソファの上に置いていた鞄を肩に担ぎ、キッチンで洗い物をしているお母さんに声をかけた。


「いってきます」


「……」


 お母さんは返事をしてくれない。


 昨日の夜から喧嘩中なのだ。


 原因はもちろん、お母さんに医者を目指さないと伝えたから。


「あのね、お母さん。私はもう医者を目指さない。他に叶えたい夢があるの」


「どうしてそんなことを言うの? あなたはお父さんの遺志を継いで医者になるんでしょ?」


「ごめんお母さん。でも私、決めたから」


「どうして?」


「決めたから」


 言い争いは平行線をたどり、今はちょっとした冷戦状態。


 だけど、お母さんならいつかわかってくれると信じている。だって朝ご飯はちゃんと用意してくれたから。


「今日も友達の家で勉強会するから、夜ご飯はいらない」


「あっそ」


 お母さんから短い返事が返ってくる。


 もうそろそろ、お母さんも疑い始めるころかな?


 医者を目指さないと宣言した以上、理由が勉強会もおかしい。秘密にし続けるなら、別の理由を考えなくちゃ――って今はそんなことよりも、今日の晩御飯なに作るか考えないと。


 頬が緩む。


 智仁とゆちあのために晩御飯のメニューを考えるのが、最近の一番の幸せだ。


「うん。ごめんね。いってきます」


 お母さんの背中に謝ってからリビングを出ようとした時、不意にテレビ画面が目に入った。


 いつもなら朝のニュースやってるなぁくらいにしか思わないのに、ニュースの見出しに愛実の住んでいる市、春浪市の名前が入っていたので、今日は足を止めた。


 春浪市一家五人殺害事件。


 画面には、赤い屋根が特徴の一軒屋が映っている。


「本日午前三時ごろ、春浪駅南交番に、『人を殺しました』と血まみれの服を着た女性が出頭しました。警察がその女の証言した住宅に向かうと、ナイフでめった刺しにされた五人の遺体を発見。警察は殺人容疑で、住所不定無職の――」


 鳥肌……いや、戦慄が体中を襲った。


 テレビ画面には、長髪で、黒いワンピースを着て、赤いハイヒールを履いた女が映っていた。


 手錠をはめられて警察官に挟まれながらパトカーに乗り込んでいる。


 車内で不気味に笑ったところでその映像が止まった。


「昨日、の」


 眉間の奥に冷たいなにかが生まれた。


 そこから痛みが全身に広がって、細胞一つひとつが不気味にざわめき始める。


「嘘っ! これすぐ近くじゃない」


 お母さんの驚く声がして、はっと我に返る。


 ちょっと黙れよ。


「警察の取り調べによりますと、山城由美やましろゆみ容疑者は、『自分で死のうと思ったが、死んじゃダメだと止められた。だから死刑になって、国に殺してもらおうと思った』などと供述しているということです」


 濁流にのみ込まれてしまったかのように、目の前が真っ暗になった。


 肩から鞄が滑り落ちて、床とぶつかり、ドン、という音がした。





 自転車で駅に向かう途中、カメラマンと記者のグループとすれ違った。


 きっと彼らは、今日報道されていた殺人事件の取材に来ている。電車の中も、いつもとは違ってざわついている気がした。


「ってかやばくない? 今朝のニュース見た?」


「見た見た。五人とか殺し過ぎじゃね?」


 隣の女子高生二人組の会話が耳に入ってきた。


 いいからちょっと黙れよ。


「でも自首したから死刑回避成功的な?」


「なわけないっしょ。しかも反省とか全くしてない感じじゃん。死刑決定だよ」


「あはは。ご愁傷様」


 近くで起きたというのに、まったくの他人ごと。殺された人を悼むわけでもない。こいつらの興味は死刑判決が出るか出ないかだけ。


 私だってそんな風にこの事件を捉えたかった、と愛実は奥歯を噛みしめる。


 学校も、今朝報道された殺人事件の話題で持ちきりだった。


 昇降口で靴を脱いでいる時から鼓膜を破り捨てたかったが、愛実は平静を装い続けた。階段を上っている最中に、みんなの顔が街の人間とは少し違うことに気づいた。

 

 その話をする誰もが、少しだけにやついているのだ。


 理由はすぐにわかった。


 教室に到着し自分の席に着くと、クラスメイトの畠山はたけやまさんが駆け寄ってきた。


「ねぇ愛実。聞いた?」


「聞いたって?」


「今朝の殺人事件のことだよ」


「報道で見たよ」


「ひどいよね。五人もでしょ? 理解できないよ」


「理解できたら逆にすごいよ」


 だから、ちょっと黙れよ。


 愛実は荒れ狂う心臓に気づかないふりをしつつ、鞄の中から数学の教科書を取り出した。


「でさぁ愛実。実はね、ここだけの話なんだけど」


 畠山さんの顔に影ができる。


 先程よりも明らかに声が小さい。


「え……なに?」


「いや……なんていうか」


 畠山さんは一度言葉を止めて、周囲を確認してから、


「実はね、一人だけ生き残りがいるらしいの」


「生き残り?」


「うん。しかもその生き残りがね、うちの学校の一年生で、八組の人らしいよ」


 その言葉は愛実の胸をぐさりと貫いた。


「へ、へぇ、そうなんだ。だけど、ど、どうやってその情報を?」


「私も詳しくは知らないんだけど、クローゼットの中に隠れて難を逃れたって。でも本当ひどいよね。自分以外の家族が殺されるんだよ。死にたいんなら勝手に死ねって感じじゃない?」


 畠山さんの言葉にはたしかな怒りがこもっている。


「で、でもさ、それってあくまでも噂なんでしょ?」


「八組の人のこと?」


「うん」


「まあ、たしかに私もまた聞きだから、本当かどうかはわからないけど」


 畠山さんは眉をひそめながらそう前置きしたうえで、


「でもさ、夢見ゆめみなんて苗字そういないじゃん。それに夢見くんと同中だった子の話によると、あの赤い屋根の家、間違いなく夢見くんの家らしいよ」


「ほら席につけー。ホームルーム始めるぞー」


 担任の間延びした声が聞こえ、ざわついていた教室が静まっていく。


 話を中断した畠山さんは、「またあとでね」と胸の前で手を振りながら自分の席に戻っていった。


 それから、愛実はただひたすらに前を向いて、担任の話を聞いているふりをした。


 背中から噴き出る汗は止まらない。


 ――死にたいなら勝手に死ねばいいって感じじゃない?


 と畠山さんは怒りをあらわにした。


 ――死刑決定じゃない?


 ――あはは。ご愁傷様。


 と女子高生たちは笑い合っていた。


 なにそれ。


 自分は昨日、そんな殺人犯の命を救った。


 ありえない。


 こんなの。


 救わなかった方がよかったみたいじゃん。


 あいつを救ったせいで、夢見くんの家族が死んだってこと?


 昨日感じていたはずの暖かさが胸の中から消滅している。指先の震えを止めたくて強く握りしめると、掌に爪がめり込んで痛かった。


 その日の午後。


 急遽開かれた全校集会で、今回の殺人事件のこと、一年八組の夢見賢太郎けんたろうくんの家族が被害に遭ったことが、校長の口から語られた。


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