第10話 いただきます
顔を洗ってリビングに戻ると、ゆちあと愛美はすでに椅子に座っていた。
「待っててくれたのか?」
「当たり前でしょ」
「おとーさん早く。ゆちあもうお腹ぺこぺこ」
お腹をさするゆちあ可愛すぎかよ。そういや俺もはらぺこだ。ゆちあの隣、愛実の真向かいの席につき、さっそくサラダを食べようとお箸を手に取る。
「ぴぴー、ぴぴー」
しかし、ホイッスルを吹く真似をしたゆちあに動きを制された。なんで俺、リビングでイエローカード出されそうになってるの?
「おとーさん、それダメだよ」
「なにがダメなんだ?」
「ご飯を食べる前は、手を合わせていただきますするんだよ。知らないの?」
言われてハッとする。
そんな常識、知らないわけはない。
「いた、だきます……か」
でも俺は一人で食べることに慣れすぎて、いつの間にか『いただきます』を言わなくなった。正常だったころの両親から口酸っぱくやるように言われていた『いただきます』を、ゆちあのような子供でも知っているような『いただきます』を、俺はすっかり忘れていた。
「そうだな。おとーさん。いただきます忘れてた」
恥ずかしいような嬉しいような懐かしいような、変な気分だ。
「ありがとう。ゆちあのおかげで、大切なこと思い出せたよ」
「わかればよろしい」
自慢げに胸を張ったゆちあが、こほんと咳払いをしてから発声する。
「おとーさん、おかーさん、手を合わせてください。せーの」
「「「いただきます」」」
三人の声が揃った後、テーブルの上に並べられた料理はより色鮮やかに見えた。
ゆちあが真っ先にフレンチトーストにかぶりつく。
「おいしー。おかーさん天才だぁ」
「もう、ゆちあは褒め上手なんだからぁ」
愛実は控えめに謙遜しつつ、チラチラとこちらを見てくる。
「ん? なんだよチラチラと?」
「べ、別に全然見てないんですけど?」
なぜか唇を尖らせてつんとそっぽを向いた愛美。え、なんでいきなりの不機嫌?
と思いつつ俺もフレンチトーストを一口。はしゅう、と染み込んだ卵が口の中に溶けだした。ほどよい甘みが舌の上に広がっていく。
おいしい。
そう言おうとしていたのに口からはなにも出てこず、かわりに視界がぼやけ始めた。
「え、あ、……え?」
全然悲しくないのに、なんで涙が出てくるんだろう。
「おとーさんどしたの!」
俺の涙に気づいたゆちあが心配そうな声を出す。
「え。嘘? なんか変な味した? ごめん」
愛美は慌てた様子で、キッチンに水を取りにいこうとする。
「違うんだ」
俺はその必要はないと愛美を呼び止めた。
「これは、違う。愛美の料理がまずいわけない」
「だったらどうして」
「俺は、ただきっと、この空気感が懐かしくて」
ゆちあと愛実と三人で食卓を囲んでいる。
その奇跡によって思い起こされた記憶は、俺の家族がまだ家族だったころの記憶。
複数本ある歯ブラシも、俺以外の声が聞こえてくるリビングも、手作りの朝食を誰かと囲む場面も。
かつてこの家で繰り返されていた、なにげない幸せな時間の一つだった。
「こういう時間を、朝ご飯をみんなでとか絶対無理だと思ってたから、昔の、ほんとに懐かしくて」
「もー、泣いちゃうなんて子供だなー。ゆちあがよしよししてあげる」
隣のゆちあが手を俺の頭の上に伸ばす。
一生懸命伸ばしているが届きそうになかったので、俺は自分から頭を少し下げた。
「よしよーし。よしよーし」
ゆちあの小さな手になでられた途端、本当に涙が止まったから不思議だ。最高に気持ちよかったので、ゆちあが満足するまでなでられてやることにする。
「あのね、おとーさん。今度からはね、そういう気持ちになったら泣くんじゃなくて、『おいしい』って言うんだよ」
ああ、またゆちあに大切なことを教えられてしまったな。
「なるほど。たしかに愛実の料理、すごくおいしい。ほんとにおいしい。世界一。最高だ」
「そんなに褒めてもなにもないからね」
顔を真っ赤に染めた愛美を見て、俺とゆちあはニヤリと笑う。
そして、「言えば言うほど言葉の価値は下がるんだからね」と満更でもなさそうに愛美が言うまで、おいしー、おいしー、と二人で連呼し続けた。
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