7 同じ心、違う心
セルマは黙ったままマユリアの私室から出た。
足が震えている。
今の今まで、マユリアがあれほど厳しい言葉を自分に投げかけたことはなかった。
何を言っても何をやってもお
それで自分は、いつの間にか同じ高さにいるのだと勘違いをしていた。
あの方が、たった一言「セルマを罰せよ」そう言っただけで、自分はすべてを取り上げられ、冷たい牢獄に繋がれるのだ。そのことに気づいて全身が震える。
許されていた立場にいたのは自分だった。
煮えたぎったお湯に浸けられようとする鳥は飛んで逃げるが、ほどよい温度のお湯に入れて徐々に茹でられた鳥は気づかずに死んでしまうのだ、と聞いたことがある。まさに自分は鍋の中にいる鳥なのだとあらためて思った。
(あの方が許していたからこそ自分はここにいられるのだ)
ゾッとした。
「取次役」と呼ばれて持ち上げられていたが、ふと足元を見ればこんなものなのだ。
(だが)
と、セルマは心の内で続ける。
(あの方がそうしていられるのも今の間だけだ。数ヶ月のうちには交代がある。あの方は人に戻る。その時にわたくしはまだ宮にいて、そう、その頃には侍女頭になる。宮の最高権力者に)
神官長はセルマに言っていた。
『交代が終わったら、キリエ殿には『北の離宮』に入っていただき、あなたが正式に侍女頭になるのがよいでしょうね』
そう、交代さえ終わってしまえばそうなる。
そうすればすべては自分の思うがままだ。
キリエがこの三十年に渡って行っていたことを、今度は自分がやるのだ。
自分にはやれる。
自分はキリエより上だ。
もっともっと、この宮を、この国を、この世界を良きものにするために腕を振るうのだ。
(そう、もう少しだ、もう少しの辛抱だ)
マユリアは、そうは言っても自分に何かをやるつもりはないのだ、と分かっている。もう少しの期間を乗り切れば立場は逆転するのだ。そう考えることでセルマは心を落ち着かせた。
(だがその前に……)
どうやってもマユリアに後宮入りを承諾させなければならない。
それは大事なことだ。
「いまいちど考える」と言ってはいたが、それを確実なものにしなくてはならない。
(もう一度神官長にご相談を)
セルマはそう決めて奥宮から前の宮の方向へと歩いていった。
セルマが出ていった後、マユリアは深い疲れを感じ、ドサリとソファの上に体を落とした。
「疲れた……」
らしくもなくつぶやく。
セルマには自分の健康状態に問題があるように見えるか、と言ったマユリアではあるが、実際、不調は感じていた。
八年前、自分が後宮入りの話を受けたのは、すべては先代の、「黒のシャンタル」のためだ。いや、世界のためと言い換えてもいい。千年前の託宣のためとも。
そのためにできることは何でもやる。ただその一つだっただけだ。その結果、自分が後宮に行くことはないとの確信の上でのことであった。
『どっちに転んでもマユリアはあんたしかいなくなるもんな』
そう言って
あの男は今どうしているのだろうか。そしてあの男と共にこの国を去った先代は。
マユリアは、もしかしたら例の中の国から来られた一行が彼らなのではないかと思った。そうして当代に託宣をやらせたのではないかと。先代ならば、「黒のシャンタル」ならばそれぐらいの力はあるはずだ。
それでキリエに尋ねに行ったのだが、キリエは託宣に対してあのように、
『人の身である自分には分からぬこと』
そう言った。
そして、それ以上のことは何があろうと語らぬであろう、そう分かった。
「不思議なことです……」
マユリアはポツリとつぶやく。
キリエの心、たとえ自分の命と引き換えにしてでも、シャンタルと自分のため、この国のためと定めたことはその信念を貫き通す。
「そしておそらく……」
セルマも、本心からこの国のため、宮のため、そう定めて自分の信念を貫いているのだ、命をかけて。それは理解した。
「同じ信念でありながら、なぜこうも違うのでしょうか」
マユリアは、神官長がセルマを連れてきて「取次役」に推薦してきた日のことを思い出していた。
「このセルマは前の宮で神具係をしていた時から、その優秀さと真面目さ、そして人望、人格、それらを見て、私が奥宮に推薦した者です」
細く、あまり血色のよくはない神官長が、珍しく顔に赤みを帯びながら、そう言って精一杯セルマを推してきた。
セルマは固い表情でありながら、真っ直ぐを前を見つめ、マユリアを認めると、さっと床に片膝をつき、丁寧に頭を下げた。その動きからは生真面目さを感じさせた。
「よろしいでしょう、神官長がそれほど認めた者ならば」
そう言ってマユリアも承諾をした。
「ありがとうございます」
神官長も丁寧に片膝をつき、頭を下げて正式の礼をする。
「セルマ」
「はい」
言われても頭を上げず、礼の姿勢のままセルマは答えた。
「頭をお上げなさい」
「はい」
そう言われて初めてゆっくりと頭を上げた。
「奥宮と前の宮の取次役、大変だと思いますがよろしく頼みましたよ」
「はい」
言葉数も多くなく、実直な人柄にあの時は見えたものだった。
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