第101話 聖域の護衛戦 ⑤
「巡り巡る
シェーナは全力で走りながら、呪文を詠唱する。
ドレスのままなので、駆け足には向かない。途中どこかに裾を引っ掛けたが、気にしてはいられなかった。呪文も大幅に省略し、強引に構築させた上で、サンドラの前へと躍り出る。
「――我らが頭上に示し
我が身
『
魔術は、発動した。
するにはしたが、現出したのは貴婦人の日傘にも満たないような、ごく小さな円盤状の水膜である。
「やっぱ魔力足りなっ……」
焦るシェーナが見上げたその鼻先で、特大の氷柱が貴賓席の屋根に突き刺さった。
衝撃の瞬間、何とか魔力を集中させて結界を維持する。幌を貫いた氷柱は、水膜の前でぴたりと停止した。
氷柱の圧し掛かった重みに、屋根そのものが耐えられなかったのだ。倒壊する。屋根の下にはシェーナとサンドラだけではなく、身動き出来ない患者や子供達もいるというのに。
「やばい、皆離れてっ!」
「シェーナああああああッ!」
離れろと言ったそばから、フェリックスが盾を放り出し、こちらに猛突進してくるのが見えた。
魔力枯渇のせいだけでない目眩を、シェーナは覚える。
「フェリックス、駄目だって! 屋根が!」
「分かってる。
「は!?」
唖然とするシェーナの片手を、駆けつけて来たフェリックスが取った。手指を絡め、身体を寄せて、もう片方の手は、杖を掲げるシェーナの手に添わせて斜め前方へ。丁度、社交ダンスでも始めるようなポーズになる。
「な、フェリックス何して――」
「
「ええっ!?」
摩式仙術。フェリックスは確かに数日かけて、ホウゲツから仙術の基礎を教わっていた。だが実際に彼が仙術を使いこなしたのは、エイダン相手に一度きりだ。しかもその時、エイダンはかなり痛い思いをしたらしい。
摩式仙術発動の際には、被術者の身体に直接触れ、強く締め上げたり圧迫を加えたりする必要があるようなのだ。
今のシェーナが激痛に苛まれたら、集中が乱れ、ただでさえ貧弱な結界が掻き消えてしまうかもしれない。
「心配するなシェーナ、もうコツは掴んだ! いや、エイダンくんには申し訳なかったが、上手くやれば、本来そんなに痛みを伴う術ではないはずなんだ!」
言葉を交わす間にも、柱の亀裂は大きくなり、屋根が不気味な音を立てて氷柱と共に揺らぐ。もう数秒も猶予はない。
「やろうシェーナ! 今こそ僕らの愛と絆の力を!」
「そんな小っ恥ずかしい事言ってる時じゃ――」
文句を返しかけて、そこでシェーナは一瞬、口を噤んだ。
――違う。今こそそれを言う時だ。
シェーナの命もフェリックスの命も、ここまでかもしれない。最期の時まで自分を誤魔化して、臆病なままでいるつもりなのか。それがシェーナ・キッシンジャーの一生?
いいや、絶対に違う。
「ええ、やるわよフェリックス」
半呼吸だけ間を開けて、シェーナはフェリックスに告げた。
「これだけは言っておくわね。あんたの事、愛してる。出逢った時からずっと」
フェリックスは、目を見開いた。
鼻先の触れ合う程の距離からシェーナを見つめる。
今まで自分から散々、愛の告白を絶叫していた癖に、信じ難い奇跡を目の当たりにしたような驚愕の表情を、彼は浮かべていた。
そういう表情も腹が立つくらい様になる、とシェーナはこっそり思う。彼の瞳は青く、白鷹のように凛々しく、伝承歌に謳われる風の精霊王イーナンを連想させる。
そして次の瞬間、シェーナは震えた。
仙術の痛みに――ではない。とっくに枯渇していると思った魔力が、突然身の内から、泉のように溢れ出てきたのだ。
これはフェリックスの魔力だ、とシェーナは気づいた。絡め合った手指から、彼の魔力が奔流となって注がれ、身体の奥底でシェーナ自身の、水属性の力へと転換されて、再び両の手の平へと集積される。
弱々しかった結界がぴんと張り詰め、
「シェーナ! 今だっ!」
杖を握るシェーナの手を、フェリックスの手指が包む。
見据える先、照準、魔力の流動――二人の全てが重なり合ったその時、彼女は詠唱を完了させた。
「『
頭上の柱が遂にへし折れ、木材と裂けた布、そして氷の破片がばらばらと落下してきたが、それらをものともせずに弾き飛ばし、闘技場を覆う氷の結界に迫る勢いで、『
それは瞬く間の出来事だった。
観客席の半分以上を水の膜の中に納めたところで、結界の膨張は止まる。
「プライス中尉、少尉! 患者の搬送を!」
シェーナは叫んだ。まだフェリックスからの魔力は
「こっ、心得ましたわ。ミカエラ!」
「ああ頼む、ハリエット!」
プライス姉妹は、素早く頷き合った。ハリエットがミカエラに杖を向けて呪文を唱える。
「『
標的の腕力を強化する、風属性治癒術である。魔術を浴びたミカエラは、「いよっと!」と一声、患者の男性を軽々と肩に担ぎ上げて、出口へと急いだ。
「キッシンジャー夫人、子供達を!」
フェリックスが呼びかけたが、声を張るまでもなく、サンドラは既に動いていた。
「ぐずぐずしないで、さあ早く」
尻を叩かんばかりの勢いで子供達を引き連れ、ミカエラの後にサンドラが続く。
周囲では、患者を抱えたまま身動きのつかなかった救護の警備兵達も、続々と避難を始めていた。
「シェーナ、僕らも逃げないと」
「でも、この結界を走りながら維持するのはちょっと無理よ」
「――分かった。じゃ、君は結界の維持に集中しててくれ!」
言うなり、フェリックスがシェーナの身体を抱き上げる。
「ひゃっ!?」
驚いて、危うく結界を消し去りかけたシェーナだったが、薄まりつつもどうにか未だ、水の防壁は氷柱の攻撃を押し留めている。
「エイダンくんにも宣言したからな! フェリックス・ロバート・ファルコナーは、精霊王と父祖の名にかけて、命に替えても君を守ってみせる! 一生だ!」
シェーナの背と膝裏に両腕を通して持ち上げた状態で、フェリックスは猛然と、階段を駆け上がった。
「二人ともこちらへ! 入口を閉ざします!」
ハリエットが手招きをする。その後ろではミカエラと警備兵達が、身の丈程の大きさの板を数枚抱えて待機していた。
フェリックスとシェーナが滑り込むようにして屋内へと逃げ込み、直後、『
安全な場所まで足を進め、シェーナの身体を下ろしたフェリックスは、そこで急に我に返ったのか、少しばかり照れた表情を見せる。
「ああ、シェーナ。その、勝手に抱き上げたりしてすまない……」
「謝る事なんてないわよ。緊急事態だったでしょ」
つられて軽く頬を上気させたシェーナは、ふと思いついて、フェリックスの肩を引き寄せた。
「でも気になるなら、あいこになるようお返しをしとくわ」
「あいこ?」
きょとんとするフェリックスの唇に、シェーナはさっと自分の唇を重ねた。
「……!?」
フェリックスが、何が起きたのか理解出来ない――といった顔で、呆然と固まる。
すぐ傍らで見ていたミカエラが、「わお」などと小さく声を上げて、ハリエットに無言で窘められた。
「――シェーナ」
唐突に、無機質な声色で名を呼ばれ、シェーナは振り向いた。
サンドラがそこに立っている。
「母さん。……今の一連の行動、非合理的だったかしら?」
「全くそのとおりね」
浅く息を吐いて、サンドラは肯定した。
「無茶な真似をして。一体誰の影響? 私はあんな教育をした覚えはないわよ」
影響を受けたとすればエイダンかな、とシェーナは考える。しかし口には出さず、彼女はただ肩を竦めてみせた。
「大体ね、シェーナ。貴方はキッシンジャー家とはもう無縁のはずよ。無謀な行動を選択してまで私を救助する必要はない。私が身内で恥ずかしいんじゃなかったの?」
「ええ、そう」
シェーナは欠けてしまった靴のヒールを鳴らし、サンドラと向き合う。
「でも、あたしは不出来で非合理的な、貴方の娘だもの。母さんの事が大嫌いだと思う事もあれば、心配になる事もあるし、危ない時には、つい助けちゃう事だってあるわ。悪かったわね、躾けたとおりに育たなくて」
両手を腰に当てて、シェーナは述べた。
眉間に皺を寄せたサンドラが、つかつかとこちらに歩み寄る。
そして――シェーナは、抱きしめられた。
「……無事で良かった」
そう囁いたサンドラの声は、相変わらず冷静なものだったが、ほんの僅かに、語尾が震えたようにも聞き取れた。
抱擁は、三秒足らずだっただろうか。サンドラは歩み寄ってきた時と同じくらい素早く身を離し、周囲の兵士達に鋭い視線を送る。
「重傷者に担架の用意を。一階で脱出の準備が進んでいるはず。急いで!」
その場の面々に指示を飛ばすサンドラは、既にいつもの彼女でしかなかった。
兵士を連れて廊下の奥に消える母親の背を、シェーナは言葉もなく見送る。
そんな彼女に、横合いからおずおずと、ハリエットが手を振ってみせた。
「あの、シェーナさん」
「えっ……ああ、プライス中尉。どうしたの?」
「フェリックスさんが倒れてしまって……」
「はあ!?」
大慌てで回れ右をしたシェーナの視界に、石畳の床の上で大の字になっているフェリックスの姿が飛び込んできた。
ミカエラが傍に屈み込んで、介抱にかかっている。
「フェリックス! どうしたの、大丈夫!?」
「うーん、これは完全に目を回してるね。多分慣れない魔術……いや、東洋の『仙術』っていうんだっけ? あれを全力で使った上に、ハードな力仕事をこなして、それから更に……あんまりにもびっくりするような事が起きたショックで」
説明をしつつミカエラは、シェーナにちらりと目配せをした。
――自分のせいか。
シェーナは天井を仰いだ。ちょっと急激に、素直になり過ぎたかもしれない。
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