第98話 聖域の護衛戦 ②
ホウゲツは、カリドゥス・カラカルと真正面から対峙した。
はっきり言ってしまうと、逃げ出したい。何故自分はこんな異郷の地で、関係ない人々のために命を張っているのかと、自身の胸の内に向かって際限なく愚痴を零せそうな気分だ。
「見覚えがあるな。あの時の東洋人か」
カリドゥスが呟く。感情が備わっているのかどうかも疑わしい、酷く冷淡な言い草である。
「死に損なっておきながら、何故もう一度わざわざ死地に追い込まれに来た?」
こっちが聞きたいくらいだ、とホウゲツは、カリドゥスの問いかけに対して思う。
しかし、実際には分かっている。自分がエイダンを庇い、今もこうしてテロリストと対決しているのは何故か。彼が武家であり、
生涯を懸けて描画するべき究極の美を、ホウゲツはかつて、自分を助けてくれた
たとえ両腕を失っても、ホウゲツは
異国の地で出逢えた友人を救わず、倒すべき敵の前から尻尾を巻いて逃げ出す――そんなアシハラの士道にもとる真似をすれば、ホウゲツは二度と、コヨイの生き様など己の筆の上に表せないだろう。
サムライでアーティストとは、何と面倒臭い生き物だろうか、と己を笑いたくもなるが、仕方ない。これが性分だ。
「知れたこと! お主らの悪事を、止めるために参ったのでござるよ!」
両膝が震えるのをどうにか隠しつつ、ホウゲツはカリドゥスに向かって、大見栄を切ってみせた。
「……」
カリドゥスの方はと言うと、残念ながらこれ以上の対話をする気はないようだ。相槌すら打たずに、彼は淡々と右手首を捻った。籠手のギミックが展開し、ボウガンの照準がホウゲツへと合わせられる。同時に、ごく短く、囁くような呪文の詠唱が聞こえた。
「『
灼熱の楔が、ボウガンから高速で射出される。エイダンが操るのと同じ、火属性加熱特化の魔術だが、その効果は遥かに凶悪だ。
――二人の距離は、ほんの数ケイドル間。
常人には回避の難しい速度である。しかしホウゲツは、「どわあああ!」と悲鳴を上げながらも、カリドゥスの初撃を転がって躱してみせた。
「――!?」
カリドゥスが、驚きに切れ長の目を開く。
ホウゲツの身のこなしは、どう見ても素人のそれでしかない。だが彼は、続け様に放たれた二撃目もまた、寸での所で避けた。
「……これは」
「デュッフフフフ! 気づいたか。今、この階を満たしている音楽は、治癒楽曲『
勿論、弾き手はハオマだ。目の見えない彼が、狙撃型の殺傷手段を持つカリドゥスと出くわしては危険なので、とある方法で身を隠し、密かに楽曲を奏でている。
「今の我々は、別々の結界内に押し込められた状態にござる。逃げるには容易いが、遠くから呪術を当てる事は困難――うおわああっ!?」
意気揚々と解説をしている
仰天、というのは比喩でなく、文字通り天井を仰いで転倒した彼は、『
カリドゥスは呪術士だが、近接戦闘にも
『
「呪術が当たらないとしても、お前を殺すのはそう難しくないな」
脅すでも嘲るでもなく、本に書かれた事実を読み上げるかのごとく、カリドゥスはホウゲツに告げる。
写本室内は暗く、机や紙束がごちゃごちゃと置かれていた。だが、人が隠れられる程のスペースはない。ホウゲツは無事な方の腕で周辺の物を掻き分けて、部屋の奥へと必死で進む。
カリドゥスからすれば、ネズミを一匹袋小路に追い込んだような気分だろう。
東洋には、追い詰められたネズミは時に猫にも反撃する、といった意味合いの
だが、油断もしていなければ諦めてもいないのは、ホウゲツも同じだ。彼は、追い詰められてすらいない。
敵を
「――ハオマ殿ッ!」
突然、虚空に向けてホウゲツは叫んだ。
カリドゥスに位置を気取られないよう、微かな音程で奏でられていた治癒楽曲の、曲調ががらりと変わる。
あたかも歌劇を元にした組曲の中で、舞台が切り替わったかのように、どこか勇壮な旋律が流れ始めた。
即興の
『
ならば、とカリドゥスのボウガンが、再度ホウゲツに狙いを定めた。追手を振り返ったホウゲツの背は、狭い部屋の壁に突き当たっている。
最早、
「カリドゥス・カラカルッ!」
凛とした女性の声が、二人の間近から上がった。カリドゥスは声の元に素早く首を向ける。そこにあるのは薄暗がりと、紙や古書の積み上げられた棚――
――ではない。
一見、無人の空間としか思えないそこには、実は身の丈程の長い紙面に描かれた精密な絵画が、幕のように垂れ下がっていたのだ。
暗がりの奥から、虚空を突き破るようにして矢が放たれる。カリドゥスが身を退くその直前、魔術によってより強靭になった
「がぁッ!?」
獣の咆哮を思わせる怒りと苦悶の声が、カリドゥスの口から絞り出された。木目の床に血が滴り、彼はその上に片膝をつく。
「そこまでだ!」
空間そのものが歪むかのように、大判の絵画がめくり上げられ、その奥から長弓に矢を
「ホウゲツ、君の絵は本当に……見事なものだな!」
と、マディがホウゲツに率直な賛辞を贈る。
聖ジウサ
製本設備の揃ったその部屋で、ホウゲツ達は大判の白紙の紙を発見する。
テロリストのカリドゥスを、みすみす取り逃がす訳には行かないが、このメンバーで真っ向から彼とは戦えない。そこで三人は咄嗟に、マディとハオマが身を潜めた上で、カリドゥスを仕留められるポイントまで誘い込む、という作戦を練ったのだ。
作戦が成功するか否かは、ホウゲツにかかっていた。
写本室の右手最奥部を、マディとハオマの潜む一平方ケイドル弱のスペース分だけ覆い隠し、そこに『誰もいない部屋の奥』があると思い込ませるトリックアートを、極めて短時間で、写実的に完成させなければならない。
ホウゲツにも、自信はなかった。全快の体調ならばともかく、まだ彼は右手が使えないのだ。
ただ、写本室は暗く、状況も混乱が予想される。ほんの二、三秒でも騙しきれれば、あとはマディが決着をつけられる。
そしてマディは、かつて浄気機関車の中で披露してみせた、ホウゲツの即興の描画力に信を置いていた。君の腕ならば、とマディに左手を握られ、ホウゲツはこの作戦に乗る決意を固めたのだ。
自分達は、どうやらこの危うい賭けに勝ったらしい。ホウゲツは、今更どっと噴き出した汗を一度拭って、その事を実感した。
彼は――左手一本で、敵の目を誤魔化すだけの空間を創出してみせた。
自身の復調をジンと噛みしめるホウゲツを尻目に、マディは膝をついたカリドゥスの胸元へ、隙なく照準を定めたまま、鋭く呼びかける。
「投降しろ。動けば次は心臓を狙う!」
「拙僧の楽曲により強化された、マディの矢。至近距離から貫かれれば、相当量の出血があったものと思われます。投降し、すぐに治療しなければ、命にかかわるでしょう。……別に拙僧は命にかかわっても構いませんが」
マディの傍らで蛇頭琴を下げたハオマが、僧侶らしからぬ冷たい言葉を付け加えた。
対するカリドゥスもまた、血だまりの中で慌てふためくでもなく、平静に一行を見上げる。彼の眼差しは、相変わらず無機質である。
ただその表層に、どこか投げやりな、薄っすらとした冷笑が加わっていた。
「投降?」
と、カリドゥスは鼻で笑う。
「捕まえたきゃ勝手にしろ、
「何だと?」
こちらの油断を誘うためとも思えない、至って無気力なカリドゥスの物言いに、マディは片眉を跳ね上げた。
「分からないか? もう発動したんだよ、攻化機関は。たとえ道具の方を壊そうが、反転した魔術は止まらねえな」
三人の眼前にうずくまるテロリストは、虚ろな両眼を動かさず、口角だけを吊り上げてみせる。
「この街も、そこに生きる連中も。全部壊しちまえば、それだけで俺は勝ち逃げって事になるのさ」
「な……」
絶句するマディとホウゲツである。
一人、ハオマは廟の外に向けて、鋭敏な耳を傾けた。
「これは……何の音でしょうか?」
「音?」
ホウゲツの耳には、何も察知出来ない。ただ、ハオマが瞬時に物音の正体を聞き分けられないのは、珍しい事態だと思った。
「このような音は――今までに、耳にした事がございません」
僅かながら焦燥に駆られた声音で、ハオマは呟く。
一体何が起きているというのか。戸板に閉ざされた窓辺に、ホウゲツは駆け寄った。
だが、戸板を開けるまでもなく、ホウゲツの耳にもその音は届いた。
地鳴りを思わせる低音。
今まさに、廟の外壁を覆う全ての加護石が、その放出する魔力の性質を変異させ、唸りを上げ始めていた。
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