本文

 思い出すのはあの小指の欠けたおっさん、僕を駅ビルのトイレに連れ込もうとした彼だ。

 目的が見え見えすぎたし、それにしたってもうちょっと場所なんとかなるだろって思った。だいたい、寿司を奢ってくれるっていうからついていったのに、その行き先がチェーンの居酒屋って時点でもうどうかしていた。

 夕刻前、店を開けた直後でまだ他に客のいない店内。見るからにしょぼい寿司セットみたいなやつをつまみながら、当時まだ十代後半の学生だった僕は、見ず知らずのおっさんにずっと股間を揉まれていた。


 まあなんのことはない、よくある男子高専生の日常だ。

 クソ生意気なガキだったと、我がことながらそう思う。これは私見でしかないからあくまでそのつもりで聞き流してほしいのだけれど、そも高専っていうのはそういう場所だ。中学校時代にそこそこ優秀だった奴ら、頭でっかちの跳ねっ返りばかりを集めた学校。ついこないだまで田舎の中学生だったのが、しかし一足飛びに「学生」なんてご大層な身分を与えられて、事実校則の類はあってなきが如し、授業だって単位制だから好きなだけサボれた。教壇に立つのは教師ではなく教官で、少なくとも中学までの「先生」とは違う。二コマを一組に連結した九十分の講義、教官らは好き勝手一方的に喋り倒して、学生のことなんかろくに顧みもしない。勝手についてくるのが当たり前とでも言わんばかりの授業態度は、でも他でもないこの僕自身、中学の頃までは心底望んでいたはずのことだ。

 実際に経験して思い知った。やっぱり授業って、多少簡単すぎて暇で暇でしょうがなくても、でも難しくて全然ついていけないよりは百倍マシだよね、と。

 つまり、落伍した。当然だ、だってそこはそういう場所なのだから。

 本当に優秀な人間と、実はそうでもなかった偽物の方とを、綺麗にふるいにかけるための場所。まあそんなものだと思う。別に高専に限った話ではなく、どの学校にも多かれ少なかれ、そういう側面はあるのだから。ただ、他の学校のことを知らないまま言うけど、それでも僕の通ったあの学舎まなびやは、自己裁量でどこまでも落ちてゆく自由を尊重してくれる、かなりおおらかな場所だったんじゃないかな、という気はする。


 結果、顔中穴ぼこだらけになった。ピアスだ。体に開けた穴から金属の小片をぶら下げることの何が楽しかったのか、今となってはさっぱり思い出せないのだけれど、とにかくそれが面白かったのだから仕方がない。そういう年頃だったのと、あと単純にオタクだったせいだ。世俗のイメージ通り高専にはオタクが多く、そしてオタクはなにかというと体に穴を開けたがる。アニメか漫画くらいしか引き出しがないせいか、絶妙に地に足のつかない青春の送り方をする。

 実際、深夜アニメは山ほど見た。パソコンとインターネットは手放せななかったし、初めてのコスプレは少年漫画のイタリアン・マフィアだった。痩せぎすの体と撫で肩は元のキャラクターの印象に近かったけれど、でも生まれつきのタレ目がすべてを台無しにしていた。お金は常になかった。いろいろ考えて頑張って稼いだ。オタクらしくTシャツを自作して地元のショップに置いてもらったし、あとパソコンができたからイベントのフライヤーを描いた。その縁でDJ、は音楽的素養がないから無理だったけど、でも代わりにVJをやった。当時はパソコンのスペックが低かったから大変で、僕にできたのは地味なモーショングラフィック程度だったけれど、でも四つ打ちの王道テクノ、特にミニマルが好きだったから方向性としては噛み合っていた。ヒップホップのイベントはたまに付き合いでお邪魔する程度、でも元々は古典的なHRハードロックHMヘヴィメタルが好きっていうか、そもビジュアル系ロックから入った人間だ。アニメではエヴァンゲリオンが好きだった。自作の二次創作小説を書いて、自前のウェブサイトで公開するような、どこにでもいる平凡なオタクらしい青春時代を送った。

 そのせいだ。

 そんなだから何でもない平日の午後、明らかに挙動のおかしいおっさんにナンパされて、それを面白がってホイホイついていってしまうのだ。


 その日はたまたま、ピアスの類を全部外していたせいもあるのかしれない。あと、なんか変な服を着ていた。一見普通というか地味目だけれど、襟元あたりが妙にダルダルのやつ。それとつい最近まで市販メガブリーチの二回がけでボロボロになっていた髪を、急に「これからは黒髪の時代じゃー」と真っ黒にしたばかりでもあった。いたんでブチブチ切れてえらいことになったのは、また別のときの思い出だったかもしれない。でも、変な頭をしてたはずだ。変な髪型にハマっていた時期だったから。変な服に変な頭のタレ目のやせっぽちのバカ。それで声をかけられたのだと思う。

 結果としては、もうただただ最悪だった。

 地下の店内、おっさんは僕の差し向かいではなく隣に座って、何のためらいもなく股間を揉んできた。引いた。剥き出しの下心はある意味話が早くて助かるのだけれど、でもムードもへったくれもない。いや、ハナからムードを期待できるようなおっさんではなかったし(だって見るからに小汚い)、まずそもそもの話をするのなら、別にそんなことを期待していたわけじゃなかった。

 ただ寿司を食わせてくれるだけかと思って、まさかそこに別の目的があるとは——というか、ナンパだとは思わなかった。思ってせいぜい「痩せてるから何か食わせたくなるのかな?」程度だ。実際よくある話で、例えばVJを交代してフロアの真ん中でふらふら揺れていると、よく見知らぬおじさんがコロナなりジーマなりを奢ってくれる。だからこの小指の欠けたおっさんも、その亜種っていうかレアケースっていうか、普通に「やったー寿司! 大当たり!」くらいに思っていた。

 それがでも、安居酒屋の店内ど真ん中のテーブル、もう何十分も僕の股ぐらをまさぐり続けている。


 あんまりだった。だってさっきから店の端の方、店員がしきりにこちらをチラチラ見てくる。冗談じゃなかった。別にこのおっさんは僕の何でもなくて、たださっきそこで声をかけられたからついてきただけで、つまり僕は決して自分の趣味でこれを選んだわけではないんですよ——と、そんな的の外れた言い訳を、的外れと知りつつそれでも叫びたかった。大声で。こんな薄汚いおっさんがお似合いの**野郎だと、そう思われるのだけは耐えられない。ただの**野郎だけにしてほしい。それなら事実、というわけでもないけど、少なくとも否定はできないという自覚はあった。

 とにかく、それでも、耐えるしかない。どうあれ、ご飯を奢ってもらっているのは事実なのだから。

 満足するまで揉ませてやったあと、店を出てそのまま早々にお別れしようとして、でも駅ビルのトイレの前で粘られた。僕の手を掴んで離さないのだ。ぐいぐいと、いいから、いいから、って。

 本当にしょうがない、どうにも救い難い最悪のおっさんで、一切の躊躇なく「こいつが死んでも誰も困らないだろうなあ」くらいのことを思ってしまったのだけれど、でも誰が悪いかって言ったらそれは僕だ。今ならわかる。満足するまで揉ませてやったのが原因で、それでおっさんは「いける」と思ったわけだ。そりゃそうだろう、だって普通は人から股間を揉まれるのをそのままにしない。いや僕だって身をよじるくらいのことはしたのだけれど、逆説その程度しかしてこないのは、それこそ「OK」のサインと取られても仕様がない。少なくとも、おっさんからすればそう見えるだろう。頭が性欲で茹っているのもあるとはいえ。

 ——その程度のこともわからないのだから、まったくクソ生意気なガキっていうのは本当に怖い。

 いやーこないだ知らんおっさんにナンパされて最悪だったわー、と、それを別に真面目な相談でもなく、さりとて新しい持ちネタってほど軽くもなく。雑談として、なんの気なしに平然と、別の男に話してしまうのだから。


 彼の名前は忘れたけれど、とりあえずここでは「Mさん」としておく。

 既婚者で、年齢は僕より一回りくらい上で、顔立ちはそんなイケメンってほどでもないけど、でも引き締まったいい体つきをしていた。背が高かったらもっと良かった。平均程度しかない僕よりも、大体三センチか四センチくらい低い。その程度でも、僕が極端な痩せ型のせいか、並んで歩くと差が強調されて見える。僕の顔に穴が開き始める前からの仲だから、その時点でもう二年か三年くらいの付き合いになる。親しいといえば、まあ親しい。

 その彼に、なんかものすごい顔をされた。

 初めて見る顔だなあ、と、そう思ったのをよく覚えている。場所は彼の車でお出かけした先、僕の急なわがままで立ち寄ったドーナツ屋さんだ。

 こないだこんなことがあってさー、くらいの軽い失敗談が、でも彼の中で何かすごい物語になった。少なくとも、僕からはそのように見えた——というか、そう捉えておくことにした。それが僕にとって、最も心地よい解釈だったから、というのもあるけれど。

 僕はMさんのことが好きだった。正確には、Mさんを振り回すのが好きだ。それも、できるだけどうでもいい、ひどくつまらない日常的なことで。ドライブ中、流れる車窓にドーナツ屋さんが見えたから、急に甘いものが食べたいなんて無茶を言って、無理なUターンをさせる、だとか。

 僕はシンプルな素のフレンチクルーラーがお気に入りで、いや本当はことさら気に入っているわけでもないのだけれど、でもドーナツショップは品揃えが豊富すぎた。季節商品も多い。僕は迷うのが嫌いだった。結局どれも甘いものでしかないのに、いちいち目移りしてしまう自分がどうしても嫌で、だから僕はフレンチクルーラーが好きなんだということに決めた。自分で決めたわけでもない。以前にレジのお兄さんが「これちょーうまいよー」と勝手に選んでしまったのが面白くて、それ以来僕の好物ということにしている。

 いつものフレンチクルーラーは、いつも通りに甘くてちょーうまかった。少なくとも、最初のひと口に限っては。つまり、ひと口だけで飽きた。突然わがままを言って彼を困らせた僕は、でもその実、言うほど甘いものが食べたいわけでもなかったんだと思う。

 そのフレンチクルーラー、一口だけかじってあとは放置されたままのそれを、テーブルを挟んで向かい側、Mさんがものすごい目で睨んでいる。僕は困った。確か困ったような気がするのだけれど、でも正直なところ、本当にそうだったか自信がない。その先の記憶といまいち噛み合わないからで、つまりそれくらい昔の話だ。過去の記憶というものは、わりと簡単に改変されてしまう。特にそれが、あまり覚えていたい過去でもない場合。


 僕はMさんのことが嫌いではなくて、だからこそその思い出は曖昧だった。


 顔に穴が空く前からの付き合いだ。Mさんと知り合ったのはインターネット、それも僕のサイトがきっかけで、つまり彼はオタクだった。さっきブワーッと並べた趣味の遍歴、その最後に突然思い出したみたいにエヴァンゲリオンを入れなきゃいけなかったのは、このMさんの話をしたかったから。絵の上手い人だった。僕だって後々はフライヤーなんか描いたりするくらいだ、絵の上手い人には憧れがある。すごい人だと思った。素敵な大人だった。今思えばあまり垢抜けているとは言えない人だったけれど、でもそれを言うなら僕だって一緒だ。というか、僕の方がひどい。彼はすでに所帯を持っていて、つまり最低でもその程度には、しっかりした身なりではあったのだから。

 ネット経由で知り合った相手の常として、当然の如く住所は離れていた。それでも奇遇にもというか、休日にしばらく車を飛ばせば会える程度の距離だった、というのは、なかなか奇跡的なことだったのだと思う。ただ奇跡的なだけで、あまり歓迎できたことではない気もするけれど。ちなみに、彼と初めて直接会ったのは東京でのこと。ひとりで東京をうろうろしたことがない僕に、なんかいろいろ案内してくれる、みたいな話だった気がする。

 一泊二日の日程、彼の予約してくれたビジネスホテルのツインルーム。

 普通に就寝という形で灯を消して、そしてその先はまあ、予定調和だった。

 そりゃそうだ。やっと十代半ばを折り返したばかりの、それもネット上で声をかけたらホイホイついてくるような子供と、わざわざ自分の普段の行動圏から離れた都会で会おうとするくらいだ。Mさんの方は最初から、少なくとも「あわよくば」程度にはそういうつもりだったんだろうし、実際会って「いける」と思ったのもわかる。でも同時に、僕が〝全然何もわかってない〟のもまた見て取れたんじゃないかと、今更ながらにそう思う。

 例えば合意とか、同意とか。そういうはっきりした言及以前に、まず空気や雰囲気の共有すらないままの、なし崩しの接触。最後まで、どころかほんのさわり程度しかないとはいっても、でも少なからず皮膚や粘膜の接触を伴う触れ合い。なのに翌朝、お互い示し合わせたかのように一切話題にすることのなかった、実質〝何もなかった〟はずの夜。

 それで終わっていればまだしも、でも以降もこうして会うたびに、なんだか似たようなことを繰り返している。まあ、本当の本当に可愛いものではあるのだけれど。僕の方はただ、何も知らない顔して横になっているだけ。相手に委ねて、それで苦労も痛みもなく済んでしまう程度のもの。

 今になってようやく気づいたのだけれど、もしかして。

 Mさんもまた、同性に対してそういうことをするのは、僕が初めてだったのかもしれない。


 だとしたら、とても悪いことをしたと思う。

 あの頃、僕はただ彼に任せていればよかった。僕は自分が何なのかわからなかったし、子供だからずっとわからないままでいられた。逆説、大人ならわかると思っていた。大人の彼なら、僕が何なのか教えてくれる。そう思えばこそ、彼に会い、彼の望むままにした。彼の愛車、スポーツタイプの白いハッチバックの中で、幾度となく——というほど多くもないのだけれど、でも何回か触れ合った。

 きっと想像されるであろうものとは違う、なんだか本当に笑ってしまうような、まるでおままごとみたいな可愛いむつみ合いだ。身体中、一番大事なそこも含めて、すべてを彼の手や舌の支配に委ねる。でも、それだけ。いつもそこまでで終わる。中途半端なのは明らかで、でもまあそういうものかと思っていたのは、僕が子供で、そして彼のことを大人と思っていたから。

 今ならわかる。

 いや、いまやもう会うことのない人の内心ではあるから、ただの想像でしかないのだけれど——。


 きっと彼自身、どうしていいかわからなかったのだ。

 僕の扱いを、というか、自分の中にある、僕をどうこうしたいと思うような、その感情を。


 Mさんはもともと口数が少なかったから、そのドーナツショップでも僕ばかりが喋り続けた。おっさんの話だ。平日の午後の駅前で、ひどく雑に僕をナンパした男。小指の先が欠けていて、たぶん事故か何かで失くしたのだと思うけれど、でもおっさん当人はそれを堂々、かつて反社会的な組織にいた証拠として自慢していた。明らかに嘘だった。十代の、何も知らないクソ生意気なガキでも、はっきりブラフだと断言できるくらいの見え見えの嘘。そんな暴力的な世界に生きてきた人間が、こんな適当に脅せば好きなだけコマせるような跳ねっ返りのガキを、あんな寿司とも呼べないような寿司で惨めったらしく気を引いて、情けなく顔色を伺ったりするものか。

 透けて見えた。おっさんの底が。アウトローを気取る彼の内側、どうやっても拭いきれない負け犬の色が。

 弱さと卑屈さ、それをこんな子供にさえ見透かされている、その事実に気づかず「いける」と舞い上がってしまう愚鈍さ。根本的な知能の欠如。きっと社会の最下層、地べたのさらに下を這いずるように生きてきた、その痕跡が彼の薄汚れた顔、まるで苔みたいにびっしり根付いているのが見えた。

 そのせいだ。

 そうなると、逆説——おっ﹅﹅さん﹅﹅その﹅﹅振る﹅﹅舞い﹅﹅でも﹅﹅悪気﹅﹅悪意﹅﹅ゆえ﹅﹅こと﹅﹅じゃ﹅﹅ない﹅﹅、というのもわかってしまう。

 わざと足元を見て安く買い叩こうというのではなく、彼にとってはそれが最善の選択。目一杯頑張って、自分をできるだけ魅力的に見せようとした、その結果がアレなのだ。彼の中ではあの安居酒屋のそれこそが「寿司」で、そして近年改装されたばかりの駅ビル、人の出入りの多い綺麗なトイレも、彼からすれば「性欲発散のために男を連れ込んでも構わない場所」だ。

 明白な、でもおそらくは社会的な保障制度からはギリギリこぼれ落ちる程度の、どうしようもない欠落。同じ地面の上に生きているのに、でも同じ地平には生きていない。違う世界の違う生き物。間違いなく人間であるはずのそれは、でもこちらの世界から観測する限り、人間の形をしてはいなかった。何か、自然災害のようなもの——それが当時の感想で、そしてそれは今も変わらない。

 そんな話を、まさかそのまましたわけではないのだけれど。


 そんな口の回る方でもなかった。僕はおしゃべり好きではあっても、気の利いた話はむしろ苦手な方だ。特にあの頃は本当に何も考えてないクソガキで——でももし仮にあのドーナツ屋さん、一番隅っこの小さなテーブル、いま時を超えて舞い戻ったのだとしても。

 それでもやっぱり、僕はあの時と同じことを、Mさんに対してぶつけるのだと思う。

 見捨てられたままのフレンチクルーラー。彼のあの、何かひどく思い詰めたような、まるで地球上から酸素が消えてしまったかのような顔。それを眺めながら、あの頃と同じく——でも、当時よりももっと明確に、彼の胸中を想像しながら。


 ——妬けばいい、って。


 大体、人のピアスにまで嫉妬するような男だ。

 自分の知らない間に、知らない何かの影響から、残される傷に顔を顰める男だ。

 抱く気概もないくせに。

 自分では、その傷ひとつつけられないくせに。


 別にいじめてやろうだとか、ましてや追い詰めようなんてつもりはなかった。

 態度に滲み出る彼の本音。見ていて心地が良かった、という感想を、いまさら否定するつもりはない。ただ、そうじゃなかった。僕が求めていたのはその心地よさの延長ではなくて、その先にある彼の決断だ。


 抱かれたかった、というわけじゃない。

 ただ、やめたかった。なんだかわからない、ただおっかなびっくり触れ合うだけの——その度に確実に何かが蝕まれてゆく、このどうしようもない反復ミニマルを。


 僕が自分からは何もできず、人任せにしてしまうのと同じように。彼もまた、何か境界線の真ん中にいた。自分ではどうともできない、決めてしまうことさえ難しい、個としての存在の瀬戸際にあった。それを半端に引きとどめ、その状態のまま宙吊りにしたのは僕だと、そんなことすらわからないから落伍するのだ。お勉強しかできないクソ生意気なガキだった僕が、でもそのお勉強をあっさり失って、どうにもならなくなって顔にボコボコ穴を開けたりする、そのおそらく最初のきっかけを作ったのが彼だ。あの一夜から、初めて他者に身を明け渡したあのツインルームの夜から、きっと僕はこうなることを決定づけられ、そのおかげで彼は今、フレンチクルーラーを眺めてこんな顔をしている。一口だけ齧ったそれを、手をつけてみたものの全部飲み込むには甘すぎた毒を、果たしてどうするのが正しい解なのだろう? 可哀想な話で、そして可哀想な男だと今なら思う。なにも高望みをしたわけでもない。ただ己の心のあるまま、自分として生きたかっただけだろうに。


 だめだった。結局、そこが僕と彼との行き止まりで、だからフレンチクルーラーはゴミ箱に捨てた。たまれなくなった。もういいよ、早く出よう——と、それはきっと今までで一番のわがまま。

 まだ日は高かったけれど、それにこんな場所でなんて、今まで考えもしなかったけれど。

 でも、もう、関係なかった。あの指の欠けたおっさんにとって、駅ビルの綺麗すぎるトイレがそうだったように。

 ドーナツ屋さんの駐車場、一番隅に停めた車の中、僕は初めて自分から彼を求めた。彼に触れた。彼に、彼のそれに、いま初めて自分から触れようとする、その指が——ああ畜生、思い返すだに反吐が出る——もう、どうしようもなく震えていた。はっきりと、目に見えて、内心の怯えをそのまま表すかのように! 自分から求めて、つまりお高く止まったところから地の底の底、その下の下のそのまた下まで落ちて、そのうえでのこの有り様だ。もしかしたら、泣いていたかもしれない。どっちにしろ同じだ。僕は別に何でもない、どこにでもいるひとりの男子高専生だ。たまたま上っていただけの舞台から降りれば、そこにいるのはただのちっぽけで痩せっぽちの子供。


 それで終わりだ。

 僕とMさん、そこに関係と呼べるものがあるとすれば、それが終わったのがこの瞬間。


 きっと、魔法が解けるかのように。今までMさんの中に存在したであろう何か、禁忌の御簾みすの向こうにいたはずの僕は、でもその資格を失った。結果としては、少なくとも社会的には、きっとよかったと言えると思う。これが物語であれば、ここで綺麗に終われるのであれば、踏み出さずに済んだのは紛れもないハッピーエンドだ。

 そうじゃない。

 これは僕の思い出で、つまり十代後半の僕には、その後も人生が続いていた。


 続いている。僕も、彼も、あの指の欠けたおっさんだって。どうにもできないギリギリの境界線、その上をまるで平均台よろしく、ただ歩き続けるだけの人生が。いっそ飛び降りてしまう勇気も持てず、また仮にそうしてみたところで、その先はただ地の底を這いずるばかりの、悪夢のような日々の反復が。

 それでも一応、僕はまだ、ひどい転び方をせずに済んでいるけれど。


 ——いや、どうだろう。

 実は自覚がないだけで、もう転んで穴だらけなのかもしれない。

 顔のそれは塞がっても、でも自分の内側に空いた穴は、自分では見えようはずもないのだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る