第160話 黒い雲 10
先にも言ったように南部のドーバーなどは対岸まで40キロ以下という細い海峡に隔たれているに過ぎない。
警報に飛び上がり、尻を蹴飛ばされるように全速で空に上がっても、その時にはすでに敵機の姿が見えるほどだっただろう。
尋常ではない敵編隊の動きを察知した各指揮所は、ドーバーをはじめ沿岸にあった基地からすぐ様迎撃機を上げた。
ドーバーの空から見渡せば右の肩から左の肩までフランスの対岸が続いていたが、その広い上空のそこかしこに煙のような、はたまた鳥の群れのような塊が浮いている。
迎え撃ちに飛び出したパイロット達はすぐに目にしたその光景に硬直して背すじを冷やした。
「アレはっ!?まるで…黒い…雲…………」
とても数えきれない敵機の塊は長く連なり正面にすると、機影が重なりあってひと塊の黒い雨雲の様にも見えた。
それを見たパイロットはもちろんその正体を知りながら……見たこともない不吉な光景を目にしてそう言ったのだ。
「う、ウソだろ……!?い…いったい何機いやがる……」
ぱっと見回しただけだが、どう見積もっても100機以上の編隊が視界の中に4つ。それがもしも南部全体に及んでいたなら……、彼は想像した途端に胃が縮んで締め上げられた。
その恐怖は近づくにつれて増していくばかりだったが、それは大軍に突っ込んで行く自分の身の上に対するものでは無い。
これだけの数の爆撃機がイギリスに侵入したらどれ程の被害が出るのか想像も出来ない。どれだけの家屋が破壊され、いったい何人が犠牲になるのか……その光景が頭をよぎる者は肌をつたう冷たい汗に身体が震えた……。
この日……イギリス海峡に押し寄せたドイツ機は実に1600機以上、後にも先にも、これ程の大部隊が投入された作戦の記録は何処にも無い。
だから、この悪夢の光景を誰も目にしたことが無いのは当然なのだ。
そしてイプスウィッチの南東部にも大編隊が押し寄せた。遠目にはひとつの生き物にも見えるかたまり……
それが正面にひとつ、それから、遠く離れて海峡の南の方にもうひとつ……
編隊の排煙でその後方が煙っているようにさえ見える。敵であるならば誰もが固唾を飲み込む場面だ。特に若いパイロットは固唾を飲み込む事は出来ても状況をすぐには飲み下せずいた。
「ど…ドッグ1っ…アーキン少佐!!あそこに突っ込んで行くんですかっ!?」
「落ち着け、クリオーネ……」
「しかし……、100じゃききませんよアレは…っ!!」
護衛の戦闘機を前面に配置して、新旧入り混じった敵機の数は180機余り。対してイプスウィッチ44中隊は僅か19機に過ぎず、少し前に見える小編隊は、すぐそばにあるハリッチ基地とマートルシャム・ヒース基地、それにクラクトン基地の中隊だが、損耗度はイプスウィッチの比ではなかった。
「だからこそ突っ込め……」
落ち着き払ってフレッドが言った。
「え…?!あ…の中へ……??」
「そうだ、中に入り込んで爆撃機に絡み付け。外から突いているようじゃ、それこそメッサーに袋叩きにされるぞ?この状況じゃあ混戦に持ち込んで敵の攻撃を制限するしか活路は無いと思えよ?」
「……!」
10倍と言っても言い過ぎでは無い戦力差。そして『活路』と言ったフレッドの言葉は、吸い込む空気をヤケに冷たく感じさせた。急に血の巡りが悪くなったようにも思えて、指が冷たく感じたクリオーネは何度も操縦桿を握り直した。おそらくは他のパイロットも同じ心境だっただろう。
「くそ、やるしかない……いや、やれなきゃヤられるだけだ…………」
「その通りだ、覚悟は出来たか?全員聞け、敵の数がどれだけ多くても我々がするべき事は変わらない。だが、正面から行くのはいささか愚策だ、時間は惜しいが散開して突っ込むぞ!」
フレッドの号令が出しあぐねていた者の足を踏み出させる。口では怖気た事を言ってはみても、迫ってくる脅威に二の足を踏む者はひとりもいなかった。
そんな会話を聞きながらアトキンズはずっと状況を眺めて考えている。
「フレッド…いや、ドッグ1……この際だから爆撃機に攻撃を集中するのはどうだ?メッサーを無視していいわけじゃないが、実際にはあれだけの機数で混戦になれば護衛機もかなり動きづらい筈だ。メッサーを牽制しながらスピットも爆撃機を狙った方が良くないか?」
どうせ混戦になるのならいつもの図式を壊して尚且つ、相手を混乱させたい。そんな思惑にロングフェローも乗ってきた。
「その案には私も賛成する。敵の数に対して弾数が心許ない以上、あまり護衛機に弾を使いたくない」
敵の多さを逆に利用するこの作戦は大きな賭けになるがフレッドはすぐに答えを出した。
「分かった、やってみよう。ならば全員、短時間でのヒットアンドアウェイを心がけろ!少しでも長く同じ軌道を取ればすぐにハチの巣にされると思えよ!?」
「了解したっ!」
「オーライっキャップ……!」
それぞれが孤独なコックピットで一丸となった時、シャムロックが言った。
「こんな戦力差は前代未聞だけど、皆んなでアトキンズ少佐みたいに動けばいいんですよ!」
「や、無理無理無理…っ。あんなに動いてたらまともに狙えないし、血管切れるわっ!!」
そんな要求が10倍の敵機よりも無理難題に思えた。
※飛行機のアクロバットは加速度、つまりG値との戦いである。当時のプロペラ機でも7Gもの重さに耐えてパイロットは操縦していたが、それは体重が80キロなら身体全体では560キロの負荷に耐え、5キロの腕が35キロにもなるということ。あなたはその状況でミリ単位の繊細な操作が出来るだろうか?
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