第62話 オキテ破りのデート 4

 ここではもう、自分は空に浮かぶ一点に過ぎない。そして間違いなくこの世界の中心になった。近い感情はあってもどれも違う、確かで曖昧あいまいな、まるで甘美で強いお酒を飲まされたような酩酊感にローレルは酔った。


「コレは…キョーレツ……」


 そんなローレルを見て、フレヤはクスクスと楽しそうだ。


「そんなに?ふふふ…でも楽しいでしょう?」


「楽しい……?とてもそんな…圧倒、感動、でも無い。解放、充足、全能、でも無い。孤独でも無い一体感?私は、こんな感情を知りません」


「多分、あなたの知っている感情、その全部じゃない?」


「ああ、そうか……きっと今は心も戸惑っていて、何を感じればいいのか…取り敢えず全ての気持ちが溢れているのかな?」


「かもね……でもそんなこと、わざわざ考える意味も無いわよ?」


「あ……」


 そう言われてローレルは理屈っぽい自分がちょっと恥ずかしくなった。


「まあ、あなたの感じるようで良いんじゃない?さて、それじゃあ……どっちへ行きたい?」


 遠くを見渡すフレヤにつられてローレルの目も遥かを望む。


「どっちへ…?じゃあ…上へ……」


 そう言って天を仰いだ。フレヤはちょっと驚いた顔をする。


「そう、だったら昇りながら北へ行ってみましょうか?今は西へは連れて行ってあげられないから」


 きっと自分を乗せていたら足手まといなのだろう、Mk5を手玉に取るほどのフレヤのセリフにそれを察する。なぜなら今は戦時中なのだとローレルは思い出した。


 クヴァストは向きを変えるよりも先に流れるように動きだす。初体験の連続に、そうするとローレルはつい考えてしまう。


(ホバリングに後進……こんなことができる生き物は……)


 そしてフレヤは目をしかめる。


「考えていないと死んじゃうの?あなた…脳が回遊魚女子なの?あなた……」


「い?いやややや…っ、知らない言葉だけどよく分かります。ついクセで、自分でもままならないというか、コレが通常モードというか……」


「別にいいんだけどね。あなた自身が大変そうね……」


 おしゃべりをしている間にもクヴァストは自らの意志で勝手に飛んでいるかのように飛び続ける。フレヤにとって飛ぶこととは人が歩くことと同じなのだとローレルは懲りずに考えていた。


(あ……風が)


 徐々にスピードが上がっているのか頬を撫でる大気の存在に気がつきはじめる。高さと景色の広大さにまるで速度は分からないが、全身をなめていく清涼な風はローレルの思考を剥ぎとっていった。


「スピードは変えないから手を緩めてもいいわよ」


 フレヤに言われてゆっくりと手の力を抜いてみる。たしかに身体に当たる風は強めな扇風機ほど、体を飛ばされるほどではない。そしてさわさわと鳥肌を感じながらそのまま手をクヴァストから離した。


「あ……」


 その瞬間にローレルの身体は完全に自由になった。座っているようでいて実際にはクヴァストにはどこも触れていないのだから本当に身ひとつで浮かんでいる。そして飛んでいる。あまりにも特異な体験をいやがうえにも身体に刻まれていく。


 乾く目をしばつかせながら前を見ると世界はゆっくりゆっくりと流れている、やはり自分を中心にして。


 森が流れて行く。丘も流れて行く。高さが上がるにつれて小さく遠くなっていく。そして星が輝きを増していく。


 自然とローレルはつぶやいた。


「こんな世界、知らなかった……」


「こんな見方を知らなかった、じゃない?地上に縛られているだけじゃあ、空は存在はしても意識なんてできない。でもこれも、これは間違いなくあなたが暮らしている世界よ?」


「見方か……『後ろ姿を見ただけで、全てを見たつもりになってはいけない』何処かで読んだかも……」


 ローレルが見つめるとフレヤは肩をすくめた。


「街からは大分離れたわ、そろそろユーターンしましょうか?」


 同時にまた、クヴァストはゆっくりと向きを変え始めた。


「今はどこを飛んでいるの?」


「あそこに見える街灯りがノリッジよ」


 指を指されて東を見るとわずかな灯りが見えてローレルは驚いた。


「!?、ノリッジ?50キロもっ?だってまだ、10分も経ってない……時速にすれば300キロ以上……っ?」


「このまま行くと海峡に出ちゃうから、進路変更よ」


「嘘でしょっ?そんなスピードの風圧じゃ無いし…そもそもナゼ、普通に会話出来ていたの?」


 驚いた勢いでローレルはクヴァストを握りしめた。また見つめられたフレヤはまた肩をすくめる。


「ナイショ。そこは『速いのね!』くらいでちょうどいいわよ?」


「え…いえ、だって……」


 ちなみに単純に無風の大気に時速300キロメートルでぶつかって行けば秒速約83メートル。そのまま風速として体に受けるのならとても人が耐えられる風ではないのである。


「こ、高度…高さは?!どれくらい昇っていたんですかっ?」


「ええ?そんなの分からないわよ。1000メートルか2000メートルくらい?」


「おおざっぱっ!!とは言っても地平線も見えないから距離も角度も分からない……じゃあ体感気温から…もアテにならないかな……」


「そうそう、ムダムダ!本当はもっと寒い筈だし?」


「やっぱりっ?!」


 何らかのフレヤの力が周りの温度にも影響している、とは予想していたが、肯定されるとやはりローレルは驚いた。でも好奇心にまかせて根掘り葉掘り聞いてもフレヤが答えてくれないことにも確信がある。


(だいいち…教えてもらっても好奇心が満たされるだけだもんねー)


 あきらめて天を仰いだローレルにフレヤが言う。


「ちょっと動くからちゃんと握ってて」


「は?はいっ」


「せっかくだから飛んでいることも実感したいでしょ?」


「え?なんかちょっと…不安な……」


 方向を変えていたクヴァストはゆっくりと下りはじめる。心なしか風の当たりかたも強くなって、リラックスしていたローレルも緊張気味に固くなっていく。


「あの…フレヤさん?」


「ほら、緊張しない!何も心配は要らないって言ったでしょう?帰りは低めに飛ぶけどスピードも落とすから」


 そう言って笑いかけるが、その笑みがちょっと怖いのは気のせいだろうか?ローレルはそんなことを思って顔をこわばらせた。


 たしかに降下もゆっくりと一定だし、自由に落ちていると言うよりはちゃんとコントロールされている感覚もある。


(でも何だか…高度が下がるをつれて速度も上がっているような……地面が近づいているからそう感じるだけかな……?)


 ローレルは生唾を飲み込んだ。


(まだ下がるの?大分下りてきたけれど?)


 正直なところちゃんと高度を知ることが出来ないことがローレルには不安で仕方がない。まだ林の高木よりは何倍もの高さがあるが……


(ええと、ええと…前の森を差し渡し200メートルと推定!1…2…3っ?!3秒ちょっとっ?それから降下角度を加えると…ざっくり時速300キロっ?!さっきと変わらない!!)


 それこそローレルのざっくりな推定だが、この時代、こんなスピードを体感している人は滅多にいない。殆どいない。


(……て、高度がもうっ100メートル切ってるよねっ!)


 思わず手に力がこもる。


「ちょっフレヤさん!プルアップっプルアップ!!」


「ん?何か言った……?」


「地面!地面ーーっ!」


「もー……」


 フレヤが呆れた途端にローレルが沈み込んでクヴァストがゆるく上を向いた。


「ひ……っ!」


 地面を睨んで青ざめる。体が重みを感じて背筋が伸びる。クヴァストは余裕をもって地面を舐めるように水平飛行に移った。


「速いっはやいーーっ!」


「え?フツーじゃない?」


 高度10メートル、時速300キロで飛び去る景色はすさまじい。訓練もしていない者がこの速度域で視界に入ったものを見極めることは不可能だ。


「フツーの意味が分からない!!速すぎてよく分からないーぃっ!怖いのかも分からないー!パニックでーすっ!」


「まったくもー、コレでよくあの飛行機を造ったわね?」


 すると前のめりに加重が掛かりローレルは後ろの手に力を入れた。ようやくフレヤがスピードを落としたようだ。


「せ、戦闘機は私が操縦するわけじゃ無いので……それにこんな高度でこんな速度はあり得ない…あ、まあ、一部のヒトを除いて……」


 ローレルが思い浮かべたのは当然アトキンズの顔だ。


「ふむ、あの自由の効かない機械じゃたしかに危ないかも?私はミリレベルでコントロール出来るけどね」


「み、ミリレベル……少佐の言う通り、これは規格外だ……何にしても速度を落としてくれてドーモ、ようやく落ち着いて……」


 スピードは半分くらいに落ちて、これならローレルの目もついていけそう……


「あ…あれ?何か、さっきより怖い……?」


 景色がちゃんと見えるようになると恐怖の姿も赤裸々になる。高さと一緒である。フレヤはわざとらしく困惑した顔をして言う。


「ええ?じゃあやっぱり……」


「いえっ、このくらいでいいです!ちょっとスリリングなコレでお願いしますっ、慣れると思います!」


「そうなの…?つまらなくない?」


 ちょっとフレヤは白々しくて不満気だ。


(みんな大体この位なのよねえ……)


「ええ、私はこの位でせいいっぱいです!」


「あら?読まれた……?」


「一目瞭然で……」


 フレヤはふっと息を吐くと…


「イケナイ…気が緩んじゃった……」


「!」


 などと人の心をくすぐるような事を言う。


「仕方ないから気持ち良く、初心者モードで行こうか」


 ふたりを乗せたクヴァストはなめらかに曲線を描きながらゆったりと舞い始める。

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