22 「――リタ? ちょっと良い?」
***
それから暫く、平和な日が続いた。引ったくりの事、デヴィッドの事は気になるが、今は特段動けそうになかった。新聞では警察が阿片を取り締まり始めたと書かれており、主人はこっちの動きに期待しているようだった。
ウェズリーは基本的に小説を書いているか、資料を求めて屋敷の中をうろつくか、飲食をするか、くらいしか動かない。祖父のデヴィッドはあちこちに行き屋敷に居てもリタに話し相手を請うくらいだったので、楽と言えば楽だ。
本を読んで暇を潰すのは嬉しそうに許してくれた。離れでハーブを育てる事も「マメだね」とぶつぶつ言いながら頷いてくれた。何だかんだこの人は、距離感を図れば良い主人だと思う。強いて言えば二階――寝室の掃除をさせてくれない事だけが不満だっだ。
ガチャガチャッ! と扉がけたたましく鳴り、チャイムの音が響いた。一瞬ビクッとしたが、「はーいっ!」と返事をして扉に向かう。
「どちら様でしょうか?」
「あっ、リタちゃん? カッレなんだけど、開けてくれる?」
「カッレ様!?」
扉の向こうから、聞き覚えのある気怠そうな男性の声が聞こえハッとする。慌てて扉を開け、茶髪の男性を見上げた。三十過ぎの男性は今日も顎髭を生やし、姿勢が悪い。
「や〜何時からこの家は鍵を閉めるようになったんだ……初めてこの家のチャイムを鳴らしたよ」
「カッレ様こんにちは、施錠はこの前から始めました。ところで今日はどうされました?」
「こんにちはリタちゃん、今日も可愛いね。いやさ、海岸通りに来たからウェズでも冷やかそうと思って。っと、失礼」
煤を払ってから玄関に上がった編集者の背中を見て思う。主人とこの編集者は歳が離れているが、気が合うのだろう。以前駅前で会った時も親しそうだった。
「ウェズ、おーい。遊びに来たぞ~?」
居間に上がるなりカッレが冗談めいた口調で主人に話し掛ける。が、主人は執筆に集中しているようで、目の前に人が居る事すら気付いてなさそうだ。
「相変わらずだねえこいつは。リタちゃんさ、こいつの相手疲れない?」
「このような時間が多いのである意味デヴィッド様よりも楽ですよ、本が読めるくらいです。それに結構優しいですし」
カッレに続いて居間に入り、ふふっと笑いながら首を横に振る。カッレは自分の表情を見てにぃっと笑みを深め己の顎髭を触る。
「ん~、確かにこいつは自分が認めた人間には優しい方だな。自分が認めた人間には! あっ、俺にも偶には優しいぞ?」
大事な部分だ、とでも言いたげにカッレが繰り返し言ってくるので、何だか無性に気恥ずかしくなってしまった。慌てて体の向きを変えカッレに背を向ける。
「そ、そうだカッレ様! 私レモネードシロップを作ったんです。良かったらレモネード、飲んで行きませんか?」
「おっ? なにリタちゃん、そんなもの作るの? いやあ本当に俺の奥さんに見習わせたい素晴らしさだ。勿論頂くよ、光栄だな」
「そう言って下さり私も嬉しいです。では少々お待ち下さい」
言い、いそいそと台所へ姿を消す。シロップの瓶とティーカップを二つ用意し、一つ一つ丁寧に希釈する。
「ウェズーーーっ! 気付けーーーっ!」
「っわ!?!? カッレ!? なんで!?」
居間と台所の間には仕切りがあるが、まるでその壁が無いかのようにハッキリと二人のやり取りが聞こえてくる。驚いた主人の声は普段よりもずっと幼い。
「海岸通りに来る用があったからただ寄っただけだ。お前のメイドが上げてくれたんだよ、俺にもレモネード淹れてくれるってさ、嬉しいねぇ」
「だから雇ってないよ。ってかなに? 編集者って人の家で休憩できる程暇な生き物だったっけ? 帰ったら? 大好きな奥さんに会うの遅くなるんじゃないの」
「それが今日奥さん仕事で帰って来なくてさ……暇なのよ俺」
不機嫌極まりないと言った調子で唸る主人の声を耳にしながら、ティースプーンでカップの中を軽く掻き回す。湯気に乗ってレモンの爽やかな匂いが漂ってくるのが心地良い。レモネードを作り終えたので、トレイの上にカップを二つ乗せ居間に向かう。
「お待たせ致しました……お茶菓子が無くて申し訳ありません、今度買っておきます」
「良いって良いって。この年になると間食はちょっと複雑でなぁ、好きだけどさ。無い方がホッとする時も多いんだ」
トレイを持って近寄り、主人に温めのレモネードを渡しカッレにもカップを渡した。早速カッレはカップに口を付け、ゴクリと喉を鳴らす。「美味いっ!」と舌鼓を打つカッレの隣、主人は黙々とカップを傾けていた。味については言及しなかったものの、すぐにトレイに戻された空のカップが嬉しい。
「さぁて……先生に迷惑そうにされたし、俺は仕事に戻るか。ご馳走様、リタちゃん。美味しかったよ」
一度伸びをしてからこちらを見て軽く頭を下げたカッレに、「一言多いよ」と主人がボソリと言う。
「そう言って下さり有り難うございます。また遊びに来て下さいね」
「次は仕事で来るかな、その時は宜しく。あ、でも会うのは週末のゲネプロのが早いか。ゲネプロ、リタちゃんも勿論来るだろ?」
「はい。人に会う約束もしておりますので、ウェズリー様が来るなと言っても行きます」
そっかそっか、とカッレは嬉しそうに笑った後、改めて屋敷を出て行った。カッレの姿が見えなくなるまで見送り、リタは鍵を閉めて屋敷の中に戻っていった。居間に戻ると、主人は万年筆を手にして原稿用紙に視線を落としていた。
カッレに言った通り、こうなると雨が降った日の釣り堀屋のように手持無沙汰になるので、台所に行って食器を洗いピクルスの漬かり具合を見た後、椅子に座って本を読む事にした。
ウェズリーから借りた小説は、今手に持っている冒険小説を読み終えれば全て読破した事になる。そうしたら主人に本を貸して欲しいと頼もうと決め、リタは栞を挟んだページを開いた。
親友である精霊の故郷を焼き滅ぼした竜を海の向こうまで追い掛け、時には親友と喧嘩をしながら最後には竜を討つ……そんな物語だった。
【……きみはいつでも僕の傍に居てくれるね。それだけで嬉しいよ】
物語終盤。月灯りの下、親友が涙を浮かべながら言うので、貰い泣きしかけてしまった、その時。
「――リタ? ちょっと良い?」
「……あっ、はい……なんでしょうか?」
何時ものように呼び掛けてくれたウェズリーの声に、普段のようにきびきびきと反応出来なかった。もしかしたら少し涙目だったかもしれない。未だ椅子から立ち上がれない自分の瞳を見て、ふっと主人が笑った。
「ごめん、良いところだったみたいだね」
いえ、と首を横に振り、目に浮かんだ涙を誤魔化すように何回か瞬く。気が付けば窓から覗く空の色はもう橙色に染まっていた。
「少々お待ち下さい、今コーヒーを淹れますね」
「いや、それは良いよ。そうじゃなくてさ、……僕の寝室、一緒に片付けてくれる?」
どこか気まずそうに目を逸し、主人は何時もよりも小さな声で言う。最初、主人が何を言っているか理解出来なかった。寝室の掃除はウェズリーが一番拒んでいた事だ。この人の口から提案されるとは思わなかったのだ。
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