第170話 閑話 優しい巨人の決意

 高い天井と無骨な板張りの床、50畳近い広さの空間は、真冬だというのに汗ばむほどの熱気で霞んで見えるほどだ。

 白い道着姿で鍛錬に励む十数人の若い男女の中で、一際大柄な、おそらく2m近い身長とがっしりとした体型の男が、それよりはほんの少し背の低い相手に向かって拳を振り下ろす。

 野太い風切り音と力強さのそれは、もし当たりでもすれば一撃で吹き飛ばされるほどの迫力のあるものだが、相手は高速で繰り出された拳の横を叩いて軌道を逸らすと、さらに踏み込んでプロテクターに覆われた肘を大柄な男の鳩尾に叩き込む。


「ぐぅっ?!」

 体重差があるとはいえ、急所に打ち込まれた男が一瞬息を詰まらせて痛みを堪える。

 そして次の瞬間、襟をつかまれると同時に両足を高々と払われて床に背中から叩きつけられた。

「うわぁ! 痛ぅ!」

「力任せすぎる。パワーがあるなら逆に構えと動きは最小限で良い」

 普通の競技場と違って板張りの床で投げられればかなりのダメージを負う。

 何とか受け身は取れたもののしばらくは呼吸困難と痛みに悶えることになった巨漢の男は呼吸を整えてからようやく立ち上がり頭を下げた。


「武藤先輩、ありがとうございました」

 下げられた方、武藤賢弥はわずかに口元をほころばせて小さく頷く。

「突然で驚いたが、どうするんだ? 指導を受けるのか?」

「はい。自分は筋トレはしてましたけど、実際に格闘技とか経験ないんで」

「その身長タッパと体格があれば十分だとは思うがな。競技格闘技を習いたいわけじゃないんだろう?」

 賢弥の問いに、男、大隈巌はしっかりと首を縦に振る。


 冬休みが終わり、始業式の翌日、生徒会の手伝いで顔を出した賢弥に巌は彼が通っているという道場への紹介を頼まれた。

 賢弥は中等部の頃から全国でも上位の空手選手だということは学園内でも知られている。

 その彼の通っているという道場は、古武術を基本として空手だけでなく合気道も教えており、県警の武術指南も行っていると巌がセラから聞いたらしい。


「その、人を守るにはデカくて力が強いだけじゃ駄目だと思って」

「……随分入れ込んだものだ。だが、簡単なことじゃないぞ」

 決意のこもった目を向けられ、賢弥が苦笑気味にそう返す。

 まるで守りたい相手が誰なのかを知っているかのような態度だが、それも織り込み済みなのだろう。

「先輩には家族を救ってもらいましたから、そのくらいで返せるとは思ってないですけど」

「相変わらずの人誑しだな。まぁ、別に無駄になるわけじゃないだろうし、師範は要人警護も教えてるからな。練習は厳しいが」

「望むところっす」

 賢弥の言葉に巌はそう応じると、道場の奥で練習生たちを見守っている初老の男に向かって歩き出した。



「ただいま」

「お兄ちゃん、おかえり~!」

 巌が自宅マンションの玄関を開けると、小さな少女が喜色満面で飛びついてくる。

「明梨、学校はどうだ? 日焼けを揶揄われたりしなかったか?」

「うん! すっごいうらやましがられたよ! 見てみて、おっきな皮がめくれたの!」

 その言葉どおり、ご丁寧に見せるために取っておいたのだろう、10cm四方ほどの半透明の膜を掲げる。抱きついた拍子にか、ちょっと破れかけているが。


 そんな妹の頭を優しく撫でてから片手で抱き上げ、リビングに入る。

「お帰りなさい。遅かったわね」

「お帰り。疲れてそうだが大丈夫か?」

「伯父さん、来てたんだ」

 キッチンから聞こえてきた母の声に答え、そしてリビングのソファーから身体を捻って顔を見せた伯父を見てはにかんだように微笑む。


「ようやく会社も安定してきたからな。人員の入れ替えも一段落したし、少しは休みも取れそうだ」

「だったら皇さんの別荘も来れば良かったのに」

「さすがに1週間は休めないさ。年末年始の4日間だけはゆっくりさせてもらったよ」

「今度はオジさんもいっしょに行こうよ!」

 巌の腕から降りた明梨は、今度は伯父の毅の膝の上だ。

 もう小学校も高学年なのだが、母親の身体が弱くあまり甘えられなかった反動か、今ではまるで父親のように伯父を慕って甘えまくっている。


「しかし、私が参加したらきっと緊張しすぎて早く帰りたいと思っただろうから、むしろ行けなくて良かったよ」

 巌は華音の両親がたびたび緊張のあまり具合が悪そうにしていたのを見ていたのでその言葉に苦笑いするしかない。

 といっても巌たちの立場は華音家族よりもむしろ光輝の家族に近い。

 彼らの場合は幼少期の陽斗を助けた縁で苦境を助けてもらったらしい。


「私たちの受けた恩はどうやって返したらいいのかわからないほどのものだから、巌君が身体を鍛えてボディーガードする。本当にそれで良いのか?」

 大隈家が陽斗と重斗に受けた恩は大きい。

 なにしろ巌の母親と妹をあの身勝手な暴君の家から救い出し、畳むしかないと思っていた会社を支援して経営が回復するまでサポートしてくれたのだ。

 だがそれでもまだ高校生でしかない巌にこれから先の人生を滅私奉公で削らせるとなれば応とは言えない。

 大昔ならともかく、今はそんな時代じゃないのだ。

 そんなことをさせるくらいなら当初の予定どおり会社を潰した方がマシだ。

 母親である紗江も息子を犠牲にしてまで安楽な暮らしなど望まないだろう。


 だが巌はそんな心配をする毅に向かって笑みを見せながら首を振った。

「先輩や先輩のお祖父さんには感謝してるけど、別に恩を返そうとかそんなことを思って決めたわけじゃないよ」

 確かに何らかの形で恩返しはしたいと思ってはいる。

 ただ、巌が武術を習ってまで陽斗を守りたいと思った理由はもっと単純なものだ。

 それは、あの純粋で、心優しく、強くて、厳しい陽斗のことが好きだから。

 自分とは比べものにならないくらい辛い経験をして、それでもなお他人のために力を尽くせる小さくて大きな先輩に憧れ、少しでも力になりたいと思っていた。


「先輩の周りって凄い人ばかりだし、俺はそこまで頭が良くないから。多分先輩は将来お祖父さんの跡を継いで会社経営とかするんだろうけど、そっち方面の力にはなれそうにないよ。けど、先輩を外見で馬鹿にするような相手からの盾くらいならなれるかなって」

「そうか」

 決意が伝わったのか、毅は眩しそうな目を巌に向ける。

 人間の狡さ、世の中の理不尽さ、人生のままならなさを散々味わってきた中年男の目には陽斗の優しさも、巌の純粋さも羨ましく嫉妬すら憶えるほどだ。

 遠い過去に置いてきてしまった、もう絶対に手に入らないもの。

 ならば、せめてその心が折れることのないよう見守り、陰ながら手助けをする。それが大人として自分たちができることだろう。

 そしてそれを巌たちが知る必要はない。

 若者たちが自由な翼を広げ羽ばたいていく礎になることこそ喜びとなる。


「えっと、明梨は陽斗お兄ちゃんのおヨメさんになって支えるの!」

「それはぁ、ちょっと無理じゃないかな?」

「ぶぅ! お兄ちゃん、ヒドい! キライ」

 じゃれ合うように喧嘩する兄弟を見ながら、大人になってしまった兄妹は顔を見合わせて微笑んだのだった。



「だぁ~! だから付いてくんなって! 俺はこれから行くとこあるんだから」

「別に良いじゃない。通学はバイクじゃないんでしょ? 送ってあげるわよ」

 放課後になって光輝が校門を出た途端に纏わり付いてきたジャネットを鬱陶しそうに振り払う。

 同じく下校をはじめていた同級生たちからは「またか」という視線が注がれる。

 そんな目を向けられるくらいには恒例のやり取りとなっていた。


「っつか、いい加減アメリカ戻んなくても良いのかよ。俺たちに合わせてまた日本に来やがって」

「ステイツに帰るのはもう少し先よ。プリンスたちの訪問に合わせて、というかエスコートするのも私の仕事だから」

 塩対応としか表現のしようのない光輝の態度を気にする様子もなくジャネットが笑う。

 光輝は口調は荒いし遠慮なしの態度を見せているが、絶対に人を悪く言ったり乱暴な動きをしない。

 心優しくてやんちゃな子供がそのまま大きくなったような性格なのをとっくに理解しているのでジャネットはいくら邪険にされてもほとんど気にしていないのだ。


「それで、これからどこに行くの?」

 当たり前のように隣に並んで歩き出したジャネットがそう訊ねると、珍しく光輝が口ごもる。

「あれぇ? ひょっとして人には言えない場所?」

「ちげぇよ! なに想像してんだ。ったく、ジムだよ、ボクシングジム!」

「BOXING! 危ないわよ、どうして急に?」

 さらなる質問に、拗ねたように唇を尖らせて顔を背ける光輝。


「ひょっとしてプリンスのため? でもそれならMr.スメラギがちゃんとボディーガード用意してるわよね」

「それはそうだけど、巌の奴が、南の島向こうで俺たちといっしょに居たスッゲえデカい奴居ただろ?」

「ええ、憶えてるわ。あれだけ大きい人はステイツでもそんなに居ないから」

「ソイツがアメリカ行くときにたっちゃんのボディーガードするって言ってたから」

「? それがどうしてコーキがボクシングするのに繋がるの?」


「だって、アイツ、身体はデカいし、筋肉すげぇし、力も半端ねぇんだよ。なんか、悔しいじゃん」

 要するに陽斗を守るという大役を、光輝からすればポッと出の後輩にかっ攫われるのが面白くないということ。

「……プッ、アハハハ、コ、コーキ、可愛い!」

 案の定、その子供っぽい発想にジャネットが爆笑する。

「う、うるせぇ! ってか、そういうことだから、じゃあな!」

「あっ、待ってよ! ゴメンナサイ、謝るからぁ!」

 その反応に、顔を赤くしながら肩を怒らせ、足を速めた光輝を慌ててジャネットが追いかけたのだった。

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