第10話 両親の遺産

 朝食から一旦寝室に戻り、改めて自分の姿を鏡で整える。

 それから自室のリビングに戻ると湊ともうひとりの女性が待っていた。

 彼女は相葉裕美あいばゆみと言い、彼女もまた陽斗専任のメイドであるらしい。

 すめらぎ家のメイドは複数の技能を持つ者が多く、彩音が弁護士、湊は心理カウンセラーといったふうにメイドとは別に仕事を持っており、週に、或いは月に数日間、技能を維持するためにその仕事をこなしているそうだ。

 なので、陽斗がここに来た時に乗ったプライベートジェットのCAをしていた女性達も皇家のメイドと兼任しているらしい。

 そして裕美もまた看護師としての資格を持ち、週に2日ほど皇家が運営する総合病院で勤務している。

 そんな彼女が陽斗の担当となったのはひとえに長年の虐待により過剰な負担が掛かっていたであろう陽斗の体調を考えた結果である。

 

「よろしくお願いします」

 陽斗が受けた印象は明るくて優しいお姉さんといったもので、挨拶も丁寧でありながらハキハキとした取っつきやすいものだった。

「は、はい。よろしくお願いします」

 陽斗もそう返事をして頭を下げる。

 本来なら雇用する側の陽斗なので使用人に頭を下げるのはおかしいのだが、ここでの生活に慣れるまでは指摘しないことになっているので裕美も少し困ったような表情をしたものの何も言わずに笑みを見せる。

 裕美にしてみても、丁寧に、それも可愛らしい少年がはにかみながら頭を下げてくるのだから悪い気がするわけがない。

 昨日は病院での勤務があったために陽斗に会っていなかった裕美は、最初重斗の過保護っぷりに『甘やかし過ぎじゃないか』と思っていたのだが、その感情は一瞬で蒸発してしまう。

 さらにこの後で陽斗の受けてきた虐待の内容を聞き、医師による診察に立ち会って身体に刻まれた傷痕を見てからは逆に率先して甘やかそうとするようになるのだが、それはまた後日の話である。

 

 そうこうしているうちに重斗に言われた時間が近くなり、湊の案内で祖父の部屋へ。

「し、失礼します。陽斗、です」

「うむ。入りなさい」

 ノックするとすぐに返事があったのでドアを開けて中に入る。

 そこは広さは陽斗の部屋とほぼ同じくらい。というか、位置的に陽斗の部屋の真下になるのでおそらくは同じ間取りなのだろう。

 ただ、シンプルな陽斗の部屋のリビングとは異なり、アンティーク調の家具や調度品、絵画などが飾られていてヨーロッパの迎賓館のような印象を受ける。

 テレビなどの家電は少なくとも見える範囲では置いていない。

 

 祖父、重斗は中央にあるソファーセットのひとつに腰掛けて陽斗に笑いかけている。そして、その左側のソファーには彩音も座っていた。

 一瞬戸惑ったものの、別に聞かれて困るような話をするわけではないし、考えてみれば昨日一日共に過ごしていた彩音が同席しているのも話しやすくて良いかもしれないと考えて陽斗はそのまま歩み寄った。

「来たか。まぁ座りなさい」

「は、はい」

 重斗を前にするとまだ少し緊張する。

 なにしろ祖父と言われたのもつい昨日のことだし、これほどの富豪っぷりを見せつけられているのだから当然である。

 ただ、それでも重斗が陽斗を歓迎し、愛情を持って接してくれていることだけはわかるので緊張はすれど萎縮することはなかった。

 

「部屋はどうだ? 何か足りないものはないか? 欲しいものや変えたいものがあれば遠慮せずに言うと良い」

 まず重斗が穏やかにそう尋ねる。

 だが、そもそも陽斗の比較対象がアレなので不満どころか過剰すぎてどうして良いのか分からないのだが。

「陽斗から話がしたいと言われるのは嬉しいが、その時間をたっぷりと取るためにもまず儂からの話を済ませたいのだが、良いか? そのために彩音に同席させている。なに、それが終われば彩音は追い出すから安心するが良い」

「ちょ、旦那様! それではまるで私が邪魔するみたいじゃないですか!」

「邪魔に決まっておるだろうが。何故可愛い孫との語らいに貴様のような不良メイドを同席させねばならん」

 

 突然目の前で始まった漫才のような掛け合い。

 厳格な印象だった重斗が見せた別の一面に驚きながらも、少しだけ肩の力が抜ける。

「まぁ良い。とにかく要件を済ませよう。彩音」

「はぁ~、わかりました。えっと、陽斗様」

「え、あ、はい!」

 唐突に話を戻した重斗と彩音に、驚いた陽斗は上擦った声で応える。

「コホン。えっと、昨日お話ししましたが、その、陽斗様のご両親はお亡くなりになっています」

 わざわざ念を押すように言わなければならないことに気まずそうな表情をする彩音に、陽斗はわかっていますと頷いて応えた。

「それで、ひとり息子である陽斗様はその資産を相続されることになります」

「負債はないし、相続税は既に払われておる。管理が必要なものに関しては儂が所有するファンドや管理会社に委託しているから心配はいらんぞ」

 彩音に続いて重斗が捕捉する。

 

「本日現在で現金と有価証券で253億1124万円、それとは別に都内にマンションが6棟となっております」

「え? え? あの?」

 言われている内容がまったく理解できず戸惑う陽斗。

 遺産がある。そこまではなんとか理解できた。

 だが、その単位が脳の容量を完全に超えている。

 

「……驚いておられるようですね。無理もありませんが」

「まぁ、子供が持つには少々多いかもしれんな」

 少々どころではない。子供の持ちものどころか、総資産でサラリーマン数十人分の生涯年収を超えるのだ。

「旦那様の金銭感覚で判断されないほうがよろしいかと」

「だが、陽斗はいずれ儂の財産も引き継ぐのだぞ? といってもまだまだ儂は死ぬ気は無いし、陽斗の子供を抱くまでは死神を叱りとばしてでも現世にしがみつくつもりだがな。そう考えればまだ時間はあるからいずれ馴れるか」

「旦那様の資産を知ったら陽斗様の心臓が止まりかねませんから、耐性が付くまでは死んでも生き返ってください」

 コソコソとそんな会話をしながら陽斗が正気に戻るのを気長に待つ彩音と重斗。

 

「え、えっと、その、ぼ、僕、そんなの受け取れません!」

 やっぱりそうきたか、という彩音の表情。

 虐げられていた過去を考えないとしても、健全な、いや、陽斗のように善良な精神を持っている子供がいきなりこんな大金を遺産だと言われても困るだけだろう。

「そう結論を急がないでも良かろう。当面、陽斗が成人するまでは引き続き儂が管理することにしよう。金が無くて困ることは多くてもあって困ることは……無いわけではないが」

「旦那様は余計な事を言わないほうがよろしいかと。

 陽斗様、いずれにしても陽斗様が生きておられたことがわかってすぐに相続の手続きは完了しています。ご両親が陽斗様のために残すことができたたったひとつの想いの形なのです。どうか受け取ってくださいませ」

 そう言って彩音は深々と頭を下げた。

 

 そう言われると陽斗の性格上断ることはできない。

 記憶に残っていない両親といえど、憧憬に似た愛情は持っているのだ。

 それにそもそも桁が大きすぎてまったく実感が伴わないので深く考えることができず、結局頷いたのだった。

「ふむ。それでは次の話だが」

 陽斗にとってはかなり大きな話なのだが、重斗はサラッと次の話題に移る。

 実際に重斗にとっては陽斗が相続した資産などはそれほど大きな金額とは言えないのでそれも致し方ないことではあるのだが。

 

 一転して難しそうな顔をした重斗に、陽斗は居住まいを正して言葉を待つ。

「陽斗」

「は、はい」

「今日はクリスマスイブ。明日はクリスマスだ」

「え? は、は、い?」

 一瞬何のことかわからず、変な返事になる。

「非常に無念なことに、儂が陽斗のことを知ったのは10月のことだ」

 まるで苦渋の決断をするかのような表情の重斗に、陽斗は曖昧に頷く。

「それから色々と調べさせてはいたのだが、儂には陽斗が欲しがりそうな物がわからなかったのだ!」

 ドーンッ!

 効果音が響いてきそうな程の迫力でもって告白する重斗。

 だが内容はクリスマスプレゼントに何を送って良いのか分からず、困っているだけのお祖父さんである。

 

「要するに、陽斗様が欲しい物を用意したいのにそれがわからないから欲しい物を言って欲しいということです」

 身も蓋もなく彩音が解説する。

 その目は明らかに呆れを含んでいる。

 重斗の迫力に押されて言葉の意味を把握できなかった陽斗もようやく理解する。

 といっても、すでに十分すぎるほどの物を用意してもらっていると思っている陽斗にこれ以上欲しい物など思い浮かばない。

「南の島を丸ごととかプライベートジェットやクルーザーなども考えたのだが、他の者が反対するのだ。まぁ、確かにありきたりすぎてつまらないのは確かだし、かといって他に思いつく物もなくてな」

 色々と感性がずれていて付いていけない陽斗。

 反対した使用人達はグッジョブである。

 

 腕を組んで考え込んでいる重斗に、どう返事をしようか迷っていた陽斗だったが、不意にこの後で重斗に頼もうと考えていたことを思い出す。

「あの、えっと、僕、お祖父ちゃんにお願いがあるんだけど、それでも良い?」

 そう言った途端、重斗が勢い込んで身を乗り出す。

「儂に頼み? なんだ? 陽斗が望むならどんなことでも叶えてやる。言ってみなさい!」

 重斗のあまりの勢いに仰け反りながら、それでも気持ちを奮い立たせて言葉を繋ぐ。

「ぼ、僕、高校に、行きたいんです。頑張って勉強するから、高校に通わせてください」

 陽斗は立ち上がって、一気にそう言うと深く頭を下げた。

 

「………………」

 沈黙がリビングを支配する。

 しわぶきひとつ聞こえない場に、陽斗は恐る恐る頭を上げる。

(ダメ、だったのかな、僕はまた、失敗したのか……)

 そう思いながら、それでも言ったこと自体は後悔しないと強く自分に言いきかせ、固く瞑っていた目を開ける。

 そこで陽斗が見たのは、呆気にとられたかのような、つまりはポッカーンとした顔の重斗と彩音だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る