水の戯れ②
「座って見張るほど、大事な水瓶なの?」
娘は目を見開いて、背筋を伸ばして前のめり、その重要性を必死になって訴えた。
「それはもう! この町に欠かせない水瓶よ!」
広げた手を後ろにやったから、中華街にとって大事なもの、ということらしい。物盗りに遭ったにも関わらず娘は焦る様子もなく「ちょっと聞いてよ!」と水瓶の来歴を語りだした。
「お義母さまったら、私が苦労して汲んできた水を好き放題に使ったの。毎日毎日何度も何度も、遠くの水場から重たい水を運んでいたの」
中華街から山手の水場までは近いから、中国にいた頃の話だろう。姑から嫁いじめに遭っていたとは不憫だが、この様子だと聞いてもらうそうな相手には、誰彼構わず話してそうだ。
「そんなある日、仙人から木の枝を貰ったのよ。それを瓶に入れて水を少し入れると、いっぱいになったの! 何度汲んでも水が湧いて、ちっとも減らないのよ!」
日々の努力を仙人が報いてくれたのだろう。
そして水源もなく水売りをすると言った禄郎と話がつながった。そうだとしたら人の、しかも仙人から賜ったものを盗むなど、とんでもない。
すぐ禄郎のところへ行かなければ、と思ったが娘の話に熱がこもり、腰を折るような隙がない。
「今までは村で水を配っていたんだけど、横浜は水が足りないって言うでしょう? だから困っている人に、水を配りに来たのよ」
何と優しい娘だろう、きっと旦那は幸せ者だ。
「君も偉いけど、着いてきた旦那さんも偉いね」
「とっくの昔に死んじゃったわよ、もう何千年になるかしら」
不思議だったのは水瓶だけではなかった。娘は神か、それに近いあやかしだろう。
「君の名前は?」
「私は
「にゃんにゃん?」
コンコがあざとい、リュウは閉口した。
神の持ち物を盗むとは、とんでもない。きっと天罰が下るに違いない。
「水瓶の目星はついておる。見つかったら返す、待っておれ」
水母娘娘はパァッと明るい顔になった。やはり焦っている様子はない。
「でも、こんなにのんびりしていて、いいの? すぐ取り返したいんじゃないのかな?」
「いいのよ。今、盗っ人を懲らしめているから」
水母娘娘は、ニッコリ笑った。その笑顔が恐ろしく、コンコとリュウは顔を引きつらせた。一体何をしたというのか。
盗みを働くなどとんでもない、と思っていたのはどこへやら。今は禄郎にどんな天罰が下っているかが気になって仕方ない。
家まで行って絶句した。
玄関から大量の水が流れ出ていて、路地は川のようになっていた。
リュウは着流し、コンコはズボンの裾を上げ、水を掻き分け中へと入ると、瓶から吹き出す水に右往左往する禄郎がいた。
家中の器という器に汲み上げたが、あっという間に使い切り、今は水よ止まれと祈るばかりだ。
「助けてくれ! 水が止まらん!」
許さぬと言わんばかりに水の勢いが増し、家財道具を次々と流しはじめた。
「馬鹿、神の持ち物を盗むからだ」
「か、神!? そんな馬鹿な話……」
神の怒りを買ったのか、更に勢いが増し水柱が立った。これでは町が沈んでしまうと禄郎は、瓶に覆い被さった。
人間ごときが神に敵うはずもなく、水柱に押し上げられた禄郎は天井を破り、屋根を突き抜け、2階の高さで宙を舞った。安普請のお陰で、怪我はしていないようだ。
「水瓶を返すか? 禄郎!」
「返す返す! だから助けてくれ!」
水瓶が見つかったことをコンコに伝えに行ってもらうと、水柱はピタッと止まって禄郎はリュウの上へと落っこちた。
「盗品で商いなどするな、馬鹿が」
「すまん、もう二度とやらないよ」
「一度だってやるな! それと早く降りろ!」
禄郎はびしょ濡れの畳に正座して、痛む身体をさすっているリュウを正面に見据えた。
「金が目当てで商いをはじめようとしたが、お前に会って考えが変わった。俺はお前を、表舞台に連れ戻す。そのために商いをする」
口をへの字に曲げて「余計なことを」の一言をこらえるリュウに、禄郎は拳ひとつ近寄って必死になって懇願した。
「世間を見ろ! 元彰義隊士でも活躍している者もいる! 箱館戦争を率いた榎本武揚様などは、今や新政府側の人間だぞ!? だからお前も……」
リュウは腫れ物に触れられたように顔を歪め、スッと立ち上がって禄郎に背中を向けた。
「お前が今すべきは、俺を誘うことではない。水瓶を返し、誠心誠意謝ることだ」
禄郎は水母娘娘にこっぴどく叱られた。怒ると手がつけられないらしく、早口でキィキィまくし立てる説教の終わりが見えない。
コンコとリュウは、用件は済んだということにして帰路についた。
「にゃんにゃん、怒ると怖いんだね」
「説教で済むなら、よい方だ。放っておいたら、どうなっていたことか」
「そうだよ、水って怖いんだね! たくさんあると、あんなふうになっちゃうんだ!」
確かに平らな埋立地で水不足の横浜にいると、水害の恐ろしさには気付きにくい。少ない被害で教えてくれた水母娘娘には、感謝しなければいけない。
リュウは夕暮れ空の遥か彼方を見つめた。
「水も怖いが、俺には人が一番怖い」
禄郎の言葉を反芻すると、見つめる先に一番星が瞬いた。チカチカとする小さな光に、俺を惑わさないでくれ、とリュウはポツリつぶやいた。
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