秘跡の人②

「メデゥーサ!!」

 神父が叫ぶと、コンコとリュウは小部屋を飛び出した。告解室の扉に手を掛けると、神父が血相を変えてその手をしかと掴み、凍りついた顔を横に振った。

「メデゥーサと目が合うと、石にされマス」

 リュウは奥歯をギリッと噛み鳴らした。

 人を殺めるあやかしならば、問答無用で封じるべきだろうが、迂闊に扉を開けるのは危険極まりない。何か策をと考えていた、そのときだ。


「メデゥーサさんは、どうして教会に来たの?」

 コンコである。

 投げかけられた素朴な疑問に、救いの手を掴み取るような思いで自身のことを語りはじめた。

「不義のせいとはいえ、このような姿にされた私の心は恨みで埋め尽くされました。ついには討ち取られ、首を盾にされるという恥辱を味わい、世を呪っていたとき、こんな私を不憫に思い救ってくださった方がいたのです」


「それがキリスト教のお坊さんだったのかな?」 「愛を持って赦すと仰ってくださいました。私は再び身体を得たのです。それから心を入れ替え、ヤハウェに帰依することを誓いました」

 天使ルシファーが堕落して魔王サタンになった話は有名だが、神に救われる悪魔はありえない。そんな話は嘘に決まっていると、神父は眉をひそめている。


 語られた奇跡を受け入れられない神父は、声を荒らげた。

「メデゥーサは洗礼を受けてナイ、告解の赦しは無効デス!」

 ついにこのときが来たかと、メデゥーサは覚悟を決めて、神に祈りを捧げた。最後の瞬間まで、信仰を捨てるつもりはないようだ。

 神父が聖書を開き十字架を掲げると、コンコが扉の前に立ちはだかった。

「待ってよ、神父さん。メデゥーサさんは、何で洗礼を受けていないのさ」

「悪魔に洗礼するなんて、アリエナイ!」

「そうです!!」

 悲痛な叫びを上げたのはメデゥーサ自身だ。


「悪魔に洗礼を受けさせる教会は、ありません。私のことを知らない教会なら、洗礼を受けられると思い、日本に来たのです」

 3年前にキリスト教が解禁されたばかりの日本なら、コンコやリュウのようにメデゥーサを知らない者はたくさんいる。しかも長らく貿易をしていた長崎とは違って、新しい町の横浜だ。好機を見出したのも理解できる。


 しかし神父は、厳しい態度を崩さない。相手は悪魔だ、良からぬ企みがあるに違いない。教会に来ることが神への冒涜、許し難いことなのだ。

「教会は悪魔に洗礼シナイ!!」

「やればいいではないか」

と軽く言い放ったのはリュウだ。

 神父は耳を疑った。メデゥーサがどれだけ恐ろしい悪魔なのか、わからないのかと。


 それでもリュウは態度を変えず、洗礼の手順を思い出していた。

「頭から聖水を掛けるのだろう? 信心が足りていれば生き残り、足りなければ死ぬ。違うか?」

「そうだよ! メデゥーサさんの運命は、そっちの神様に決めてもらった方がいいよ!」

 コンコとリュウの説得に、神父は唇を噛んだ。だが返す言葉が見つからず、ついに折れて洗礼の準備をはじめた。


 石になってしまわぬよう、告解室のメデゥーサに目隠しを渡して着けさせた。

 扉を開けると、頭に生えた蛇が一斉に威嚇してきたが、メデゥーサは神妙な面持ちで蛇を諭そうとしている。

 小柄だから、蛇に噛まれることもないからと、子供の身体を持つコンコが手を引いた。


 こんな急ごしらえな洗礼など正しくないと不満を露わにする神父を、悪魔祓いだと思ってくれとリュウがなだめた。

 そのせいか、聞いた洗礼式に沿った手順で進めてくれている。メデゥーサを祭壇に上げ、諸聖人の連願を唱え、悪霊の拒否、信仰宣言をさせる。

 メデゥーサが悪霊を拒否するとは……。

 神父は疑念を晴らせずにいるが、メデゥーサは粛々と洗礼式の手順をこなす。


 いよいよ、聖水を浴びせるときだ。

 跪くメデゥーサの頭に、鋭く息を吐き牙を剥く蛇に怯えながら、神父が聖水を注ぐ。

 たちまち頭から煙が立ち上がった。蛇の吐息のような焼ける音がして、メデゥーサの頭はあっという間に白煙に包まれ、見えなくなった。

 拷問に耐えるような、いや悪魔のメデゥーサにとっては拷問だ、耐え難い苦痛に歪む顔だけは、はっきりとわかる。


 聖水を注ぎ終えても、煙は音を伴い立ち上っていた。激痛も続いているようで、メデゥーサの顔が険しくなっている。

 痛みのあまり気を失って、力なく倒れて祭壇に横たわった。

 リュウが駆け寄って抱き起こすと、煙が弱まり徐々に晴れてきた。

 これで悪魔祓いが終わったと、神父が十字架と聖書を取り出した。


 そこから神父は、一歩も動けなくなった。

 目隠し越しに、まぶたが微かに動き、ゆっくりと目が開かれたことに気が付いた。

 そして煙が晴れた頭には、みどり色に輝く豊かな髪が艶めいていた。

 リュウがメデゥーサの正面へと回り、目隠しを取り外した。

 動揺を隠しきれない瞳を、いつまでも見つめることが出来た。


「…Miracle…」

 悪魔を祓ったのか、呪いが解けたのかはわからないが、ともかくメデゥーサの信仰心が神に認められ、生き残ることが叶ったのだ。

 神父は奇跡を目にして、目を見開いたまま呆然と立ち尽くしていた。

 神父と目を合わせたメデゥーサは、歓喜の涙を流してその胸に飛び込んでいった。

「Thank you……father」

 信徒として迎え入れない理由がないではないかと、神父は肩をそっと抱いた。


「信心は本物だったようだな」

「神様はちゃんとわかっているのさ!」

 稲荷狐の神様コンコが自信たっぷりに言うのだから、間違いなさそうだ。

「おサムライさん、おイナリさん、手伝ってクダサイ! まだ儀式、終わってナイ!」

 頬に伝った涙にを拭い、メデゥーサは誰に導かれることもなく、祭壇で跪いた。

 神父はその正面に立ち、メデゥーサの額に聖香油で十字をしるすと、ふたりは祝福の微笑みを贈り合った。

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