よく死にかける人が死について考える話

雷之電

久々に死にたくなったのでダルいなりにそれを分析してみる

今すっごい死にたい。死線をくぐってきた人が生のありがたみを痛感し尊ぶというのは、半分ウソだった。辛ければ死にたがる。


僕の死生観も影響しているだろうけど、この世界に産み落とされた生者が自身の存在を確認するために、生者が生を尊ぶのだろうと思う。ほら、虐げられた人々が選民思想の表れとしてユダヤ教を作ったように。終わりの見えない苦しみを目の当たりにしたとき、心のダメージを最小限にするため、自分(たち)は幸せだと思い込もうとする。


生が尊く喜ばしい、死が悲しいなんて生者の傲慢だ。死が悲しいのではなく、別れが悲しい。死後のことなんて誰も知らず、自分がどこへ行くのか、はたまた死後が存在するかどうかもわからない不安。死そのものにはないはずの悲しみと不安の根源が、死とすり替わって解釈されている。


と書いてみたが、僕だって生者だ。本能としては死にたくない。ではどうして突発的に死にたいなどと思うのか。


単純な話、(人生という長いスパンの中では)刹那的な苦しみから一番手っ取り早く、かつ確実に逃れられる方法として誰もが知っているものだからだと思う。他に方法はないなんて、監禁でもされない限り(監禁されている方はごめんなさい。意外といます。)ほぼありえないはずだ。ある人のせいで相当な苦しみを受けていて、どうしようもなくなってしまったら、殺してしまえばいい話。いや大真面目に。そこで死ぬ、あるいは殺されるくらいなら、殺したあと長くても十数年の刑期を全うして、泥水でもすすって生きたほうが、生者としては何倍も健全だとは思わないかね。あくまで生者として生に執着するならの話だが。そして殺す必要があるほどのことになる前に、だいたいうまく公的機関を頼れば解決できる。殺害は人生を賭けた、最後の最後に残しておくべき奥の手である。


あともう一つ、厄介なものとして、希死念慮がある。鬱など心が異常をきたしたときにでる、漠然とした「今めっちゃ死にたい」である。他人の手を借りないとこれを脱するのは大変に難しい。措置入院でも引きこもりでもなんでもいいが、とにかく無責任に生きられる場所をつくってやる必要がある。希死念慮からの措置入院中はなかなかひどい扱いを受けるそうなのでおすすめはしないが。あと、社会の義務から解き放ち、社会復帰を強迫しないというのが最も大切だ。


変な話を長々と書いたが、一言にすると、「どうでもいいけど生きたいならモラル捨てて選択肢持とうね」だ。


またこんど!

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