第47話 幼馴染・小百合 その1


「小鳥―っ、がんばれーっ!」


「ちょっと悠人、声大きいって。恥ずかしいよ」


「何言ってるんだ小百合、お前もしっかり声を出せ。いいか、こう言うのは親の気合が大事なんだぞ」


「もぉ……」


 真っ青に透き通った秋の空。

 この日は保育園の運動会。悠人は小百合と共にやってきたのだった。





 あの夕暮れの公園で、小百合と再会した日。小百合から聞いた話は、悠人の人生を一変させた。

 柴田和樹と付き合い、半年後に妊娠した小百合は、和樹の卒業に合わせて大学を中退し結婚、新しい生活をスタートさせた。

 会社経営の父を持つ和樹との結婚は、経済的にも恵まれており、周りから見ても絵に書いたような幸せな物だった。

 しかし新生活が始まってすぐ、和樹の様子がおかしくなった。

 和樹は浮気をしていた。

 そのことに小百合が気付き、口論となった。小百合が感情をあらわにし、泣きながら和樹に叫んだその時、陣痛が始まった。


 救急車で運ばれ、陣痛の苦しみに耐えていたその時、小百合の脳裏に悠人の顔が浮かんだ。

 いつも自分を大切にしてくれた悠人。優しかった悠人。悠人のことを思うと、涙が溢れてきた。

 そして、和樹の子供を産もうとしているこの瞬間に、悠人のことを考えている自分もまた、和樹と変わらないのではないか、そんな罪悪感を感じた。小百合は頭を振り、今この世界に生まれようとしている我が子のことだけを考えた。


 生まれてきた小鳥を抱いた小百合は、手と足の指を一本一本数えた。そして元気な声で泣く我が子を抱きしめ、共に泣いた。

 子供が生まれたことで、夫婦関係は持ち直した。和樹は小百合に頭を下げ、二度とその女性とは会わない、そう約束した。小百合はその言葉を信じ、そしてまた自分も、和樹と小鳥のために頑張っていこう、そう改めて誓ったのだった。


 しかしその二年後、和樹は小百合に離婚届けを突きつけてきた。理由はこうだった。

 あの女性との関係はまだ続いている、そして彼女との間に子供が出来た。俺はお前ではなく、あの女性と、そしてこれから生まれてくる子供と共に人生を歩みたい。そして最後にこう言った。「お前と小鳥に対して、もう愛情はない」と。

 どこでボタンを掛け違えたのだろうか、そう思い小百合は泣いた。

 しかし自分はともかく、小鳥に対しても愛情がなくなったと言うこの人と、共に生きていくことは出来ない。何より小鳥が不幸になる。今の私にとって小鳥は全てだ、小鳥の幸せのためにも、この結婚に終止符を打とう、そう決意した。

 僅かばかりの慰謝料と、小鳥に二度と会わないことを条件に、小百合は離婚を承諾した。そして再び、実家へと戻ってきたのだった。





 あの日、公園で悠人の胸に飛び込んでいきたい衝動にかられた。しかし小百合はそれを抑えた。

 この気持ちは甘えだ。悠人は都合のいい男ではない。結婚駄目でした、また私を見て下さい、などと言うのは余りにも不義だ、そう思った。

 離婚に至るまでの話をしていく内に、悠人がこれまで見たことのないような顔をしているのを感じた。


「ちょっと悠人、どうしたのよ。顔、怖いよ」


「当たり前だっ!」


 悠人の大声に、小百合がビクリとした。その小百合に気付いた悠人が、


「ごめん……」


 そう言って頭を下げた。その時、目の前で砂遊びをしていた小鳥が、悠人に近付いてきた。


「いーちゃん、いーちゃん」


 悠人の膝に手を当てて笑う。


「なかなかの大物だな、お前」


「そうよ、小百合の子供なんだから」


「ごめんな小鳥ちゃん、大声出して」


 そう言って頭を撫でると、小鳥は嬉しそうに笑った。


「……小百合、お前これからどうするんだ?また実家で暮らすのか」


「うん……当分はね。女一人で子育てってなると何かと大変だし、実家だったらパートも出来るし」


「養育費はもらわないのか」


「うん。あっちも子供が出来るみたいだし、それに養育費をもらっていたら、それがあの人との絆みたいになっちゃうでしょ」


「養育費なしか……喜んでただろ」


「かもね、ふふっ……」


「何はともあれ……小百合」


「え?」


「おかえり」


 立ち上がった悠人が小百合に手を差し出した。


「よく帰ってきたな。変な言い方になるけど……また会えて嬉しいよ」


「悠人……」


 小百合がうつむき、肩を震わせながら悠人の手を握った。


「ただいま、悠人……」




 考えてみれば、これまで充実してると思っていた自分の生活は、失恋の痛みから逃げる為に、ごまかしていただけだったと悠人は思った。

 それなりに楽しい日々だった。自らを高める為にしてきたこと。読書や運動、アニメにゲーム、全てに価値はあった。しかし小百合が戻ってからの悠人は、自分一人では到底作り出すことの出来ない充実感を感じていた。


 何より、小鳥のことが可愛くて仕方がなかった。これまで子供に特別な興味も示さなかった悠人だったが、小鳥に対する愛情は、小百合の両親が笑ってしまうほどに大きいものだった。そして小鳥もまた、悠人のことを慕い懐いた。

 悠人の中に、小百合と付き合いたいといった思いがないと言えば嘘になる。しかしその思いよりも悠人は、今のこの関係を大切に守りたい、そう思っていた。

 それに今、自分の思いを告げてしまうことは、離婚の傷心覚めやらぬ小百合の気持ちを利用したよこしまなものになってしまう、そう思っていた。

 小百合との関係がどうなっていくのか、それは自分にも分からない。ただ悠人は今、この穏やかな時間を大切にしていきたい、そう思っていた。

 小鳥はかわいい。小百合もよく笑うようになった。それが悠人にとって全てだった。





「行けーっ、小鳥―っ!」


 同い年の子供たちの中、小鳥一人がしっかりとした足取りでゴールに向かって走っていく。


「小鳥―っ、がんばれーっ!」


 途中で座り込んで泣き出す子供、あさっての方向に歩いていく子供たちを尻目に、小鳥が一番でテープをきった。


「やったあああああっ!」


 悠人が拳を握り締めて、大声をあげる。そして興奮冷めやらず、隣にいる小百合に抱きついた。


「やったぞ小百合、一番!一番だ!」


「ちょ……ちょっと悠人」


「お前も喜べ、一番だぞ!さすがお前の娘だ」


「悠人、恥ずかしいって……」


 興奮する悠人の腕の中、久しぶりに感じる悠人の温もりに小百合が赤くなった。


「まったく……親バカなんだから……あ、違ったか、あれは私の娘だった。そしてこいつは……弟?だったっけ、ふふっ」




 昼になり、三人で弁当を囲んだ。


「こんな所で弁当食べるなんて、何年ぶりだろうな」


「小学校以来かな?」


「たまにはいいもんだな。ほら小鳥、ご飯粒ついてるぞ」


 そう言って、小鳥の頬についたご飯粒をつまんで口に運ぶ。


「悠人もほら、こっち向いて」


「え?」


 悠人の頬についたご飯粒を取り、小百合がそれを食べる。


「悠人も子供だね、相変わらず」


「ははっ」


「ほら悠人、しっかり食べてよ。昼から保護者の100メートル走なんだから、元気つけとかないと」


「ああ。小鳥、悠兄ちゃん頑張るからな」


「がぁーんばー」


「……でも小百合、おじさんの具合どうなんだ?あんなに初孫の運動会楽しみにしてたのに、朝になって調子が悪いって」


「うん、たいしたことはないって言ってたけど……ちょっと心配」


「後でお見舞いに行っていいかな」


「喜ぶよきっと。また将棋でもしてあげてよ」


「またカモにされるのか……」




 昼食が済み、保護者参加の100メートル走が始まった。


「悠人―っ、がんばれーっ!」


「ゆーいーちゃーん!」


 小百合と小鳥が手を振る。小百合が作ったはちまきをした悠人が、二人に手を振って答える。


「小鳥、見とけよ。悠兄ちゃん、一等取るからな」


「いちについて、よーい」


 パンッ!


「うおおおおおおっ!」





「悠人、重くない?」


「え?あ、ああ大丈夫だ。それより、ててっ……」


「大丈夫?膝、まだ痛いでしょ」


「まあな……でも痛いのは、膝じゃなくて……」


「心?」


「その通り……」


「ふふっ……」


 運動会を終えた悠人たちが、いつもの道を歩いている。考えて見れば、昔はいつもこうして小百合とこの道を歩いていた。

 小百合が去り、一人でこの道を歩いた時、寂しさを覚えたものだった。失った時に初めて気付いた、ささやかな幸せ。しかし今その道を、こうしてまた一緒に歩いている。今度はこの幸せをなくしたくない、大切にしたい……疲れて眠っている小鳥を背負いながら、悠人はそう思っていた。


「でも悠人、やっぱ私の期待を裏切らないよね」


「ううっ……」


「どこに出しても恥ずかしくない鈍足王子が、かけっこで初めての一等賞……と思いきや、ゴール目前でまさかの大転倒」


「はぁ……黒歴史が、また一つ増えたな」


「小鳥もあんなに喜んでたのに、悠人がこけた途端に大泣きしちゃって」


「夢をつぶしちまった。悪いことしたよな」


「ううん。運動音痴で、こんなこと絶対しなかった悠人が頑張ってくれた。嬉しかったよ」


「もうちょっとで一番取れたのにな。なんか俺って、いっつもこうだよな。肝心な所で駄目になってしまう……せめて今日は小鳥のために、一番取りたかったのにな」


「でも本当、小鳥は悠人のことが好きだよね」


「そうか?」


「そうだよ。この子人見知りが激しくて、和樹にもそんなに懐かなかったんだから。いっつも私のそばから離れなくて。だからびっくりしたんだ。初めて悠人と会った時、自分から悠人に近付いていって」


「ははっ……精神年齢が低いから、友達に見えたのかな」


「かもね」


「そこは否定してくれよ」


「あははっ……悠人、ありがとね」


「なんだ急に」


「こっちに帰ってきて、正直不安でいっぱいだったんだ。それに、悠人と会うのも怖かった。別れ方も酷かったし……どんな顔をして悠人に会えばいいのか、すっごく不安だった」


「俺はいつでも、このまんまだよ」


「そう……悠人はいつもの悠人だった。いつもの笑顔で私たちを迎えてくれた。小鳥のことも、こんなに大切にしてくれる。この子も悠人のことを、あの人よりも身近に感じている。私たち親子、本当に悠人に甘えてるよね」


「んなこと気にしなくていいよ。俺はただ、今が楽しくて幸せなんだ。それだけだよ」


「ありがとう、悠人……」




 しかし、悠人のその幸せな時間は、またしても長く続かなかったのだった。

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