第26話 少女二人 その1


「特に異常は見当たらなかったよ。問題ないね」



 土曜の昼、桐島医院の診察室で、柚希と早苗が明雄からCT検査の結果を聞いていた。


「見た所、傷の治りも順調の様だ。まだどこか痛む所はあるかね?」


「いえ、大丈夫です。食欲も戻りましたし」


「それはよかった。今夜も晴美くんが腕によりをかけるらしいからね、しっかり食べていってくれたまえ」


「はい、ありがとうございます」


「よかったね柚希。先生、色々とありがとうございました。これからも不肖の弟を、どうかよろしくお願いします」


「はははっ、柚希くんは早苗くんの弟になったのか。そりゃぞんざいには出来ないね」


「はい」


 早苗が笑顔で答えた。


「じゃあ、そろそろ家に行くとしようか」




「何これ……すっごい……」


 屋敷の中に入り、早苗がそうつぶやいた。


 柚希から話は聞いていたが、ここまでとは思わなかった。


 映画のワンシーンにも十分使えそうな大広間だった。


「すごいお屋敷だとは思ってたけど、中に入ると本当、別世界に来たって感じだよね、柚希」


「だろ?僕も最初に来た時、びっくりしたんだ」


「柚希さん!」


 柚希が声の方向に目をやると、真紅のドレスを身に纏った紅音が立っていた。


 紅音は柚希と目が合うと、両手を口元にやり、瞳を潤ませながら言った。


「お久し……ぶりです……」


 そして柚希の元に駆け寄ると、そのまま柚希に抱きついてきた。


「ずっとお会いしたかったです、柚希さん……」


「紅音……さん……」


 紅音が柚希を抱擁する。

 その甘く優しい感触に、柚希の手も、無意識に紅音を抱きしめようとした。


 しかし次の瞬間、柚希は言いようのない身の危険を感じた。


 紅音にとっては自然な行為で、その行為を柚希は受け入れていた。

 しかし今、隣には早苗がいる。

 その状況を今更ながらに思い出した柚希が、両手を固まらせたまま、ゆっくりと早苗を見た。


「ふっふっふっ」


 早苗が満面の笑みで柚希を見ていた。

 しかしどう見ても、目が笑っていないのは流石の柚希にも分かった。

「笑顔」の早苗の「笑っていない瞳」からは殺気が感じられた。


「いやあのその……さ、早苗ちゃん……」


「この……色情魔あああああっ!」


 早苗は柚希の背後から、チョークスリーパーをかけた。

 いつもよりずっと本気の、チョークスリーパーだった。


 突然乱入してきた早苗の存在に紅音は驚いた。

 そして見ると、目の前の柚希が首を絞められている。



 紅音は咄嗟に左手を伸ばして、柚希の首に巻かれている早苗の腕に触れた。



 早苗の腕に、これまでに感じたことのない倦怠感と違和感が現れた。


 早苗が小さく「きゃっ」そううなり、柚希から離れた。


「大丈夫、早苗ちゃん」


 柚希が、床に尻餅をついた早苗に駆け寄った。


「あいたたたた……何、今の……」


 差し出された柚希の手を掴み、早苗がそう言った。


「あの……その……」


 左手で早苗に触れたことで、何が起こったのかを紅音が理解した。


 立ち上がった早苗が、


「あははははっ、大丈夫大丈夫」


 と笑顔で答えて見上げた紅音の顔には、深い陰りがあった。


 明雄が近付こうとするより早く、柚希が動いていた。


 柚希は真剣な面持ちで、


「早苗ちゃん、ちょっとだけ許してね」


 そう言って紅音に近付くと、紅音を両手で優しく抱擁した。




「あ……」


 目の前で柚希が、自分と違う女性を抱きしめている。


 それもさっきとは違う、柚希の意思で。


 その光景を目の当たりにした早苗は動揺した。


「大丈夫、大丈夫だよ、紅音さん……」


 柚希が紅音に優しく囁く。


 その凛々しく優しい姿は、今の早苗が手に入れたくても入れられない物だった。


 そう思うと胸が苦しくなった。


「柚希くん」


 しかし、明雄の問いかけに小さくうなずいた柚希を見た時、その動揺が違う何かに変わっていくのを感じた。


 先日感じたあの信頼関係は見間違いじゃなかった。


 桐島先生は今、目の前で娘を抱きしめている柚希に対して、絶対的な信頼を寄せている、そう思った。


 早苗の中で、疑問と嫉妬、そして寂しさが絡み合っていた。




「……柚希さん、ありがとうございます……大丈夫です……」


 か細い声で紅音はそう言い、柚希から手渡されたハンカチで涙を拭いた。


「落ち着いた?」


「はい……」


 涙を拭った紅音が、笑顔でそう答えた。


 その時、柚希と明雄から発せられていた、ただならぬ緊張感が消えていくのを、早苗は感じた。


「あの……ごめんなさい、大丈夫でしたか」


 紅音は早苗に近付き、そう言って頭を下げた。


「ごめんなさい、私つい、柚希さんがいじめられていると思って……」


「え……あ、ああ大丈夫、大丈夫です、あはははっ」


 状況をよく把握できていない早苗が、わざとらしく笑った。


「それでその……柚希さん、こちらの方は」


「そうだね。紹介するよ。紅音さん、こちらは早苗さん、小倉早苗さん。隣に住んでいて、僕がこっちに来てからお世話になっている人です。早苗ちゃん、こちらが前に話した桐島紅音さん」


「よろしくお願いします、小倉さん」


「あ、こちらこそはじめまして。桐島……さん」


 二人がそう言って、ぎこちなく頭を下げ合った。


「あの……さ、二人共、名前で呼び合わない?僕は二人のことを名前で呼んでる訳だし、二人も僕のこと、名前で呼んでくれてるじゃない?二人もそうした方が、自然な感じがしないかな」


「あ……そうですね、柚希さん」


「うん、そうだね。私もその方がいい……かな」


「じゃあ……早苗……さん……」


「……紅音さん」


 そう呼び合い、二人は顔を見合わせて笑った。


 ようやく和んだ場の空気に、柚希がほっと胸を撫で下ろした。


「じゃあ、自己紹介も終わったことだし、みんなでお茶でも飲まないかね」


「はい、いただきます」


 明雄の提案に三人がうなずいた。




 前を柚希が紅音と歩き、早苗は後ろから明雄と歩いていた。


 柚希に話しかけ、時折小さく笑う紅音を見て、早苗は思っていた。


(やっぱり綺麗だな、紅音さん……それに優しそうで女らしくて、私とは正反対、だな……)


「早苗くん」


「あ、はい、何でしょう」


「さっきの紅音と柚希くんとのやり取り……少し不審に思ったこともあったと思うが、すまなかったね」


「いえいえ、不審だなんてそんな」


「それから、あの場の雰囲気を感じて、君は一歩ひいてくれた。しかも紅音に対しても普通に対応してくれた。ありがとう」


「先生、本当やめてください。体がむずむずしちゃうじゃないですか」


「柚希くんから色々と聞いていると思うが、後で私からも説明はさせてもらうよ。だから……変に感じることもあると思うが、出来れば君には、いつものままで紅音と接してもらいたいんだ」


「いつもの……あははははっ、大丈夫ですって先生。私はいつもこんな感じですから」


 そう言って視線を前に向ける。


 紅音は笑顔で嬉しそうに柚希を見ている。


 そして柚希もまた、紅音に話しかけながら嬉しそうに笑っている。



(柚希……あんな顔、するんだ……初めて見たな……)

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