第34話 貧民街(2)

 長老は少しだけ口調を変えたようにも見られた。正確に言えば、それは怒りを表現しているのかもしれなかったが、溜飲を下げているようにも見受けられた。

 それは、アンバーとの関係性を表しているようにも見える。アンバーとの関係が良好でなければ、ここで直ぐに激昂していたに違いない。もしかしたら周囲を囲まれてそのまま総攻撃を食らう可能性すら有り得たのだから。


「そこまでは言っていません。ただ、一言言っておきたいのは、このままだと貧民街にとって不味い方向性に到達してしまう可能性がある……ということです」

「不味い方向……ですか。確かにそれは有り得ますな。上の連中はどういう風にこちらを潰す理由を見つけようかが躍起になっているはず。であるならば、我々はどう生きていかねばならないのか。これは分かりきっている話ではあるのですがね」

「それは分かっているとも。私は常に上の人間の様子を窺ってきていた。出来ることなら、窺うことなんてしたくないのだがね……。何せ、奴らは何を為出かすか分かったものじゃない。だから、私は神経を集中させているのだが」

「――なかなかそうもいきません。それは分かります。俺も新聞記者の端くれ。新聞を書いている以上、情勢は人よりは把握しているつもりです。ですから、そちらに悪い情報が流れてきた時は、出来るだけ早く教えているはずですが」


 ユウトは首を傾げた。新聞記者というのは、自分の理念に基づいて動いているような気がしたが、それはあくまでも他人のことは考えていないような、そんな感じの新聞記者が多いイメージがあった。

 しかしながら、アンバーはそういう感性で動いているようではなさそうだった。少なくとも自分の理念に基づいて動いているようで、その感性は自分さえ良ければ良いという感性ではなく、間違っていることに巻き込まれようとする人間をたとえ自分の立場が危うくなろうとも助けるという理念なのだろう――ユウトはそう思った。


「悪い情報……か。それは確かに有難いことだ。こちらも大変助かっている。だが、だからこそ言いたい。おぬしの立ち位置が危うくなりはせぬか、ということについて……。一応上の世界では、貧民街は存在しない扱いをされているのだろう?」

「存在しない扱いをしているからこそ、気づかれにくいんですよ。今の状況が大変有難いですけれどね。一応、記者としてやれることはやっていますから」


 女性がアンバー達の目の前にお茶を差し出した。それらが終わった後、長老の前にも湯飲みが置かれる。


「さぁ、こんな遠くまでやって来て、喉も渇いただろう。ゆっくりと寛ぐが良い。……とはいえ、上の世界の人間の口に合うとは思わないがね」


 そう言われつつも、ユウトはお茶に口をつける。芳醇な香りが口いっぱいに広がり、普通自分が飲むお茶とは少し違ったテイストだった。

 ユウトの細かな反応も、長老は気づいていたようで、


「……ほほう。気づいたかね、珍しいお茶かもしれんのう、上の人間からしてみれば」

「何というんですか……、この芳醇な香り。まるで発酵させたような」

「貧民街は、おぬし達も気づいているやもしれないが、湿気が多い。だからこそ、致し方ないことではあるのだが……湿気を飛ばす技術でもあれば良いのだが、それがない。よって、発酵させるしかないと考えた訳じゃよ。貧民街には発酵食品が、上の比ではないぐらい存在する。おぬし達の舌にはなかなか合わないやもしれんがのう」

「いや、そんな謙遜しなくても、十分美味しいお茶ですよ? ……普通に商売としてやっていけそうなぐらいですが、そうもいかないんでしょうかね」

「無理だね」


 ユウトの言葉をアンバーが一蹴する。


「そもそも、貧民街は上の人間――つまり我々のような存在には知られていない土地だ。だからこそ、上の人間に知られたらどうなるか分かったものではない。この土地を求めて戦争を始める人間も居れば、この土地に住む人間の地位向上を求めて管理者と争う人間も出てくるだろうな。……いずれにせよ、ここはパンドラの箱、という訳だ」

「パンドラの箱?」

「開いてはならない箱のことだよ。最後に残るのは希望とも絶望とも言われている。……まぁ、いずれにせよ、それをどう捉えるかは生きている人間の使命だろうよ。管理者は、少なくともここを無闇矢鱈と知らせたくないだろうな。出来れば消滅させようとしているかもしれん。そして、熱りが冷めたころに、ここを新たな住宅地として販売する可能性も有り得る。上の人間も増えていって、土地が減っている――というのはどのシェルターでも聞く話だからな」

「……酷い話だ」


 ユウトの吐き捨てる言葉に、長老は頷く。


「本当ならば、全員が全員そう思って欲しいものだがね。現実はそう甘くはない……。だが、そういう感性の持ち主が一人でも増えてくれること。それが一番有難いことではあるのじゃよ。この貧民街が、少しでも形を保ち続けていくには、そういったことが必要なのじゃ」

「……貧民街の最近の様子は、如何ですか?」


 アンバーの言葉に、長老は外を見つめる。


「何も変わらんよ。それが一番良いことではあるというのは、重々承知していることではあるのだが……、けれどもこの安穏が不安の裏返しであることもまた事実。いつ、上の連中が襲いかかってくるか、或いはその切欠となることが起きるか、ヒヤヒヤしている。おちおち夜も眠れんよ」

 

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