キスの実験台。それだけのはずだった

チェシャ猫亭

第1話 キスってどんなもの?

 厳しい父だった。

 その日も、北斗ほくとが玄関に向かうと、

「どこへ行くんだ」

 追いかけてきて、詰問きつもんする。

 日曜くらい自由にさせてくれよ、と思いつつ、振り返り、

「青木くんちで、テスト勉強」

「そうか、しっかりやってこい」

 父はようやく満足し、居間の方に消えていく。

 青木じょうが、成績優秀であることは、父も知っている。だから、彼の名を出せば、北斗はこうして無罪放免されるのだった。


 中学一年の秋。八月生まれの北斗は、十三歳になっていた。

 内向的で友だちは少ない、ルックスも成績も、平凡としか言いようのない北斗に、何故か丈は、親し気に近づいてきた。

 

 大人っぽく、成績がよく、人目をひく整った顔立ち。クールかと思えば、人懐こい一面もあり、クラスで」目立つ存在だった。

 そんな丈と北斗がつるんでいると、

「丈の召使めしつかいなんだろ」

「嬉しそうにパシリしてんじゃね」

 北斗には、そんな声も聞こえてきた。が、丈は命令したり用事を言いつけたり、はなく、友人として扱ってくれると感じていた。

 自分でも、どうして丈が仲良くしてくれるのか、わからない。でも、家に呼んでくれるのは自分だけと知り、素直に嬉しく、誇らしかった。


「父さんは、家が貧しくて、大学へ行けなかった。だから給料も安く、出世もできず、苦労してきたんだ。

 おまえは大学へ行け、それも一流大学だ。まずはS高に入らないとな」

 それが父の口癖。うんざりするほと聞かれている。

 本当に、大学に行けば将来、安泰なのか。学校の成績と。社会に出てからの成功はイコールなのか。北斗には、わからない。


 自分もS高に入れなかったくせに、息子に夢を押し付けるな!

 ムリだよ、S高なんて。丈なら楽勝だろうけど。


 妹の由衣ゆいの方が、成績がいいのに、父は、女は短大でいい、と、小学生の今から、由衣の進路を決めている。


 勝手すぎるよ、父さん。


 だが、その勝手な父親に、北斗は逆らう勇気がないのだ。



 静かだ。

 北斗は、テーブルで、丈と向かい合っていた。

 ダイニングキッチンには、シャーペンのカリカリという音だけ。

 丈の母は看護師で、日曜出勤していて留守。兄弟はなく、父は幼いころに他界したと聞いている。


 苦手な英語を、北斗は丈に教えてもらい、問題集に取り組んでいた。

 文法を理解できたら、類似の問題をたくさんこなして、頭に叩き込むといいよ、と丈がアドバイスしてくれた。

 丈も、高度な問題を解いていたが、ふぃに顔を上げ、

「北斗。キスしたことある?」

「え」

 何を言われたのか、北斗は理解できなかった。

「キスだよ。経験ないよな。僕も、なんだ。なあ。キスって、どんなもんだと思う?」

「さあ」

 北斗は、首をかしげる。

 突然、何を言い出すのだろう、丈は。

「実験してみようよ」

 いたずらっぽく、丈が言う。

「なに?」

「だから、キスの実験」

 つまり、丈と自分がキスをする、キスがどんなものか体験してみる。そういうことなのだ、と、北斗は、やっと気づいた。


 どう答えるべきだったのだろう。

 気づいたら、丈は立ち上がり、北斗の横に来ていた。肩をつかんで立たせる。

 近づいてくる唇を、避けるべきだったのか。

 北斗は金縛りにあったように、動けなかった。


 唇に、信じられないくらい、やわらかいものが触れた。

 温かく湿ったそれは、桃の花の匂いがした。

 ふしぎな感触。なにかヤバいものが、体の奥底から引きすり出されるような。

 ようやく、唇が離された。

 呼吸が荒くなっている。

 二度目のキス。

 丈が、北斗の肩を強くつかむ。

 ヤバいものが、暴れ出そうとしているのを実感する。

 ダメだ、このままじゃ。


 強引に丈から離れ、

「帰る!」

 北斗は、問題集その他をリュックに突っ込み、逃げるように丈の家を出た。


宮嶋みやじま」の表札のかかった門の前で、北斗はぞっと震えた。

 もし、あんなことが、父にばれたら。

 丈とキスしたなんて、知られてしまったら。

 有り得ない妄想なのに、自宅の門の前で、足が、すくむ。


 思い切って、玄関のドアを開けた。

「行け、行けーっ!」

 父の興奮した声が、玄関先まで響いてきた。テレビの競馬中継に、父は夢中なのだった。


 助かった。


 北斗は、そっとスニーカーを脱ぎ、音をたてないように階段を上がり、二階の自分の部屋に入った。


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