一一話:嗤い顔

 神在市、某所。


 「ハッ、ハアッ、ハッ、ッゲホ、ッハァハァ」


 住宅街の外れにある小道を一人のスーツ姿の中年の男が息も絶え絶えに駆け抜けていく。


 時刻は午前〇時を少し回ったところで、周囲からは虫の鳴き声一つ聞えない。世界そのものが眠っているかの様な静寂の中において、男の荒い呼吸音と足音だけはよく響いている。


 現在男は尽きぬ疑問と恐怖、そして焦りに支配されていた。何故こんなことになっているのか、どうして自分がこんな目に遭っているのか分からない。

 少し前まではいつもと何も変わらない日常だったはずだ。そう、いつも通りの、いつも通りのはずだった。


**********


 いつも通りに仕事を終え。

 いつも通りの面子で居酒屋へと足を運び上司や仕事の愚痴を言いながら酒を飲み。

 いつも通りの時間に仲間と解散し家へと向かう

 いつも通りの公園横の道を歩いているとき、不意に誰かとぶつかった。


 きっとここが運命の分かれ道だったのだろう。


 「おっと~、ごめん、ごめん~。きみ~だいじょうぶかあ?」

 「……………」

 「あ~どっか打ったぁ?ごめんね~おじさんちょっと酔ってて~うまく歩けてなかったかもしれないんだよ~」

 「……………」


 ぶつかった相手は自分と同じスーツ姿の男だった。

 痛がっているのか俯いているため顔がよく見えず、その上自分もアルコールのせいで視線が定まっていなかったためハッキリと相手の顔を認識することが出来なかった。


 「ほんとうに大丈夫か?なあいい加減何か喋ったらどーなんだ?」

 「……………」


 何度か喋りかけても返答が無い、それどころか動く気配すら感じられない。


 ぶつかられた腹いせに自分を困らせているのだろうか、そう思い少しイラついた男は相手の男の肩をつかもうとした。

 だがその手が肩を掴むことは無く、逆に伸ばした腕をつかまれてしまった。


 何だよ、と言いかけた時。相手の男が顔を上げた。


 「―――ヒィッ!?」


 その顔を見た時、男はつい悲鳴を上げてしまった。何故なら―――相手の顔が酷い有様だったのだから。


 執拗に何度も殴られた様に腫れ上がった青痣まみれの顔面。

 何カ所も切れている唇の隙間から覗くボロボロで血塗られた歯と、潰れた鼻。

 ドロドロに煮込んだ様な濁りきった眼球。


 拷問を受けたと言われても納得できるであろう悲惨な状態の顔が、目の前にあった。


 常識的に考えて重傷と呼ばれる状態だ。そんな顔を見て一瞬にして酔いが醒めた男はあることに気が付く。


 ―――今自分の腕をつかんでいる手がとても冷たい事に。

 ―――まるで血が通っていない死人の様に冷たい手が自分の腕をつかんでいる事に。


 そして男が気付いたと同時に初めて傷だらけの男が喋った。


 「うう゛ぉおおおおぎぁああああああっ!!」


 喋ったというよりは叫んだというのが正しいだろう。どちらにしろ普通の人間なら発することの無い類いの叫び声だ。


 突発的に自身の理解の及ばぬ自体が発生した時、殆どの場合人間は『逃避』という選択をする。その上恐怖も感じるとなれば、なおさらに。


 「ッヒ、ヒィァアアアアッ!」


 だから男も自身の腕をつかんでいる手を全力で振りほどき、悲鳴を上げながら逃げた。



**********



 普段あまり運動をしていないからか、はたまた恐怖からか、足が思うように前に進まない。それでも男は必死に逃げた。どれだけ不格好でも走り続けた。


 振り向く余裕などないが、いまだに後ろから追いかけられている気配を感じる。


 (ま、まさか、あ、あ、の噂は本当だったのか?)


 数日前に同僚達との会話で話題になった連続失踪事件の真相と言われる、ある噂。男はその噂をまったく信じていなかった。


 そんなモノいるわけが無いと、あり得ないと笑い飛ばした噂話。


 「ハッ、ッゲホ、あり得ないっ、ゾンビ・・・が存在するなんてぇ!!」


 だが男は見てしまった、感じてしまった。それは今も自分を追い続けている。


 それはつまり―――


 (い、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、ゾンビになんてなりたくなぃいいいい)


 ―――自分が獲物として狙われているということに他ならない。


 「ハッ、ハッ、ハァッ。っうぐぁ!!」


 肉体の限界だったのだろうか。足がもつれて転倒してしまった。急いで立ち上がろうとした時、自分を追う気配が無いことに気が付いた。


 「ぶはっ、はぁはぁはぁはぁ。痛たたた。もう、諦めた、のか?」


 倒れながら後ろの道路を見ても、もう誰もいなかった。


 「はぁ~~、よかったあ~~、何だったんだよぉ。っくそぅ、それに……ここはどこ、なんだ?」


 道など気にせず、とにかく必死に逃げてきたためいつの間にか町外れまできてしまったのだろう。

 震える足に何とか力を込めて立ち上がり周囲を確認すると、数メートル先に外灯に照らされた古ぼけた鳥居が見えた。たしか、町外れに神社があったはずだ。


 いつの間にかなりの距離を走ったようだ。普段なら絶対に走れない距離だ、こういうのを火事場の馬鹿力と言うのだろうか。


 安心したとたん急に喉が渇いてきた。ちょうど鳥居のすぐ横に自動販売機が見えたので水でも買おうとゆっくりと歩き始める。


 スーツの内ポケットから小銭入れを取り出し水を購入すると一気に飲み干す。


 灯りの下で自分の姿を確認してみると汚れは少ないが、転んだ拍子に擦ったであろうほつれや破れが所々に存在していた。


 (……酔って転んだことにしよう。アイツもそれで納得してくれるだろう)


 「―――ちょっと、よろしいですか?」

 「うぉっ!?」


 服の状態をどう妻に説明しようか考えていたら不意に後ろから声がかかる。安心しきっていたからか周囲への注意が疎かになっていたようだ、まったく人の気配を感じなかった。

 しかも先程までの恐怖体験もあり普段以上に驚いてしまった。


 「すいません、驚かせてしまったようですね」

 「い、いえいえ。私もちょっと考え事をしていて、周りを見ていなかったものですから。気にしないで下さい」


 声をかけてきたのは背が高く、真面目そうな二〇代ぐらいの若い男だ。

 服装は柄入りの白い半袖ティーシャツにジーンズ、白いスニーカー。

 特徴を挙げるとするなら、短く切揃えられたられた黒髪と鍛えていることが一目で分かる体躯だろうか。


 (大学生、か?珍しいな夜遅くにこんな場所で)

 「それで、何か聞きたい事でも?悪いけどあまり時間は取れないんだ」


 今更ながら腕時計を確認してみると既に午前一時近くだ。早く家に帰りたくなってきた男は手短にすませようと先を促す。


 「いえ、あまり時間は掛かりませんよ」


 若い男は自身の前方、男の立っている場所の少し後ろに向け指をさす。


 「ソレに、見覚えはありますか?」


 はて、自分の後ろに何かあっただろうか。そんな事を考えながら振り返ってみると―――


 「っうぁあああ!?」


 ―――公園横から追いかけてきた顔が傷だらけの男が立っていた。


 驚きのあまり今度は腰が抜けてしまった男はその場で尻餅をつく様に倒れてしまう。


 「ッヒィ、き、君、たす、助けてくれぇっ!」


 逃げる事が出来ないと理解した男は咄嗟に自身の後ろにいる若い男に助けを求める。


 だが、若い男は驚いても焦ってもおらず、目の前の尻餅をついた男をじっと眺めているだけで動こうとしない。


 「ん~。もう少しかな?」


 少ししてから若い男は恐怖で顔が歪んでいる男に一歩近づき右手で服を掴む。そして鳥居の内側へ軽々放り投げた・・・・・・・


 放り投げられた男は鳥居をくぐり、神社の境内に存在する石畳の上を二回、三回と転がり何かに背をぶつけるようにして止まった。


 「おめでとうございます。アナタは栄えある一〇五人目の糧として選ばれました」


 今しがた自分を投げ飛ばした若い男がゆっくりと歩み寄ってくる。その後ろには傷だらけの顔の男が付き従う様に同じペースで歩いている。


 状況に理解がまったく追いつかない。


 「ですが、まだ足りないんですよ。もう少し染まってもらわないと」


  何が何だか分からない。


 「だから君達・・後は任せますから、ほどほどにやって下さい。―――絶対に殺してはダメですからね?」


 若い男が何か喋っているようだが意味が分からなかった。


 (こ、ころ、?一体な、な、にを)


 若い男が喋り終えた瞬間、横たわっていた男の体が突如として強引に引き起こされる。


 ―――目の前に顔をズタズタに切り刻まれた女の顔があった。

 ―――その横には上半身が焼け爛れている状態の男の姿があった。


 「……ぁ……ぅあ……」


 男は、理解してしまった。

 逃げることも出来ない、助けを求めることも出来ない、完全なる詰みの状態であるという事に。


 下半身が濡れていくのを感じた直後、目の前の女が男の鼻を喰い千切った。

 それを皮切りに男へ飛びかかる影がが二つ。それから男の体が次々に破壊されていく。


 神社の境内に一人の男の絶叫が響き渡る。


 「ああ、いつ見てもイイですねぇ、人の魂が絶望に染まっていく光景は」


 男が最期に見たのは、笑顔。


 ―――酷く歪んだ。黒い、とても黒い嗤い顔だった。

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