8-5「村のとんま」
梓が作ってきてくれた濃いめのジンジャーエールを一息で飲み干したわたしは、沢本の死に関する資料を脇に避けて作ったスペースに、ハンマーキラーの事件に関する資料を広げることにした。
優先順位が違うことに気がついたのだ。
警察は沢本の死を自殺だと断定した。高校生にイキって悦に入るような連中だが、わたしよりもずっと多くの情報を集めた上で出した結論だということは間違いない。
わたしもわたしなりに調べはしたが、沢本がまだ未成年だったこともあってか、マスコミ報道で追える情報には限りがあった。直接の死因や死亡推定時刻すらも公表されていないのだ。この状況で沢本の死について調べていても、警察に自殺説を撤回させることは困難だと言わざるをえない。だが――。
「情報がないならないなりに、戦い方ってものがあるんじゃないか?」
わたしはかつて妹に言った言葉を少々アレンジして呟くと、自分が保有する武器について、考えを巡らすことにする。
わたしが沢本と最後に会ったあの日、別れ際に沢本が息を呑んだことがあった。
――まだこれから出かける予定があるのか?
――今のところないけど、まだ明るいし。
何故息を呑んだのか、本人もよくわからなかったらしく、心配するわたしに対して沢本が『何でもない、と思う』と返したのを覚えている。
今にして思えば、あれこそが沢本の言う『外せない用事』の発端だったのだろう。すなわち、沢本はわたしとのあのやり取りの際に感じた違和感の源を探っていくうちに、何かとても重要なことに気づいてしまったのだ。結果、沢本は何かをなそうとして、命を落とした。
沢本が気づいた重要事とは何か。決まっている。沢本はわたしに先駆けて、ハンマーキラー事件の真相を解き明かしたのだ。そうして早速のこと犯人との接触を試みたものの、返り討ちにあって殺されてしまったのだ。
どうしてわたしに相談してくれなかったのかとか、どうして危険を冒してまで犯人と自宅マンションの屋上で会おうとしたのかとか、細かな疑問は残るが、沢本の死が自殺でないとするなら――すなわち、沢本が誰かに殺されたとするなら、理由として考えられるのはそれしかない。
であれば今わたしが取り組むべきは、沢本の死について調べることではない。一刻も早く沢本の違和感の正体を突き止め、それを糸口にハンマーキラー事件の真相を解き明かすことだ。
あの連続殺人事件に関してもわたしが持っている情報はそう多くないが、一方でわたしだけが目撃した光景があり、わたしだけが共有した後日談があり、わたしだけが聞いた推理があった。
「戦える。これだけの武器があれば、きっとわたしは戦える」
声に出してそう言うと、わたしはハンマーキラー事件の資料を手に取った。
読む。読む。読み進める。切って、貼って、塗って、書いて、そしてまた読む。今はバカみたいに資料を読み込んで、事件の理解度を高めていくことだ。そう自分に言い聞かせて、何度も読み返した。
「あれ? 雪乃さんが働いていたのって、藤見原のお店じゃないんだ」
しばらくして、わたしはとある全国紙の地方面を読みつつ、そんな声を上げた。
紙面には三年前の十一月に書かれた雪乃さんの事件に関する記事が載っていた。大まかな内容は駿遠新聞の記事と一緒だが、『
志度市というのは藤見原市のすぐ隣に位置する市で、中町は確か駅周辺の地名だったはずだ。電車なら二駅先だから、ご近所と言えばご近所だ。
「……まぁでも休みの日にお客とばったり会う可能性を考えたら、勤務先と同じ市内に住むのは嫌だよな」
林堂さんの話では沢本に自分の化粧のやり方を教えるのを嫌がるほどだったそうだし、多分そういうことなのだろう。
それからわたしは他の被害者の勤務先が気になり出したので、少し調べてみることにする。
わたしは「ふぁ」と短めのあくびをしてから壁の時計を見上げた。調査を始めてはや二時間。頭が少し疲れてきている。ついでに床に正座をしていたので足がかなりしびれてきている。
とりあえずコーヒーでも淹れてこよう。そう思って、立ち上がろうとしたところでしびれた足がもつれて転びそうになった。
「つっ」
チェストに手を突いてなんとか耐える。その代わりに、チェストの上に置きっぱなしにしていたフォーマルバッグがあらぬ方向に吹っ飛んでいき、中から口紅が転がり落ちる。林堂さんから『大事にして欲しい』と手渡されたあの口紅だ。
すいませんすいません。わたしは心の中で林堂さんにわびつつ、床を這うように歩き、口紅を拾い上げた。
そのときだった。
どくん。
わたしの中でなにが動いたような気がした。
どくん、どくん。
鼓動。鼓動だ。鼓動がいつになく激しくなっている。
どくん、どくん、どくん。
しかし、わたしはまだその理由を知らずにいる。
何だ。何が起きている? わたしは今、何に気がついた?
自問自答を繰り返すうち、わたしはふと、旧友のことを思い出していた。
あの日、彼はわたしに何と言ったか。それに対してわたしは何を思ったのか。
「ああ、そうか。そうなんだ」
そう呟いて、わたしは心音の理由を理解する。
「あの人があんなことをするなんて本来ありえない話だったんだ」
そこから先は、一本道だった。ハンマーキラーの正体がわたしの推理したとおりだとするなら、全てのつじつまが合う。
わたしは図書館で調達した捜査資料を全て片付け、最後に床の上に残ったものを手に取って、読むべき箇所を読む。やはりそうだ。そういう意味だったんだ。
――あたしの考えでは、ハンマーキラーが殺意を抱いていたのは五人の内のただ一人。あたしのお母さんも含めて、他の四人の犠牲者は、真の標的を覆い隠すための
わたしは沢本が言ったことを思い返して、かぶりを振った。あのときは有力な仮説だと思ったけれど、残念ながら、あの仮説には前提部分に大きな見落としがあった。
「問題は――」
わたしは天井を見上げて呟く。問題は、わたしの推理が正しいことを明かし立てる証拠が充分ではないということだった。
「罠だ。罠が必要になる」
だが、どうやって? どんな罠でつり出す? どんな罠なら打ち取ることができる?
自らが立てた設問に対する答えを出すのに、さほど時間はかからなかった。つまるところ沢本と同じようなことをすれば良いだけの話だということに気がついたのだ。
わたしはだから、スマートフォンを手に取って、電話をかける。
「もうすぐだ。もうすぐあんたの背中に追いついてやるぞ、ハンマーキラー」
コール音がなる間に、わたしは誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
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