13
13
初夏の気温は感情豊かで、朝方は蒸し暑かったのに昼を過ぎる頃には肌寒くなっていた。Tシャツ一枚で外を出た私は、何度も腕を摩ることになった。
あれから一週間ほどが経っていて、授業で何度か見かけることはあったけれど、声を掛けることはしなかった。私はちゃんと放っておくことができていると思う。見かけるたび、木葉ちゃんは一人でいることが多かった。他に人がいたから声を掛けづらかった、ということじゃない。本当に、私は放っておいたのだ。
今日は久しぶりに部室で西宮先輩と会う予定があった。小説が完成したからだった。
あの小説は結局西宮先輩だけの小説ではなくなってしまった。西宮浩樹という弟の成分が入ってしまっている。それが私の求めいていた何かで、西宮先輩の断片だ。
「で、これが?」
私が小説をプリントした束を渡すと目を輝かせて先輩が受け取った。
「先輩なんかキャラ忘れてません?」
「今それを言う? いいんだよ雛ちゃんなら」
「そうですか」
そう、いいの。先輩はそう言って私の小説を読み始めた。
この時間。なんとも言えない時間。これは先輩の小説だから私は自分のオリジナル小説を読んでもらっているわけではないのに緊張する。受注した製品を顧客に渡して満足してもらえるか反応を受け取る瞬間、みたいな緊張感がある。そんな経験ないけれど。
六万字の小説だ。私は遅読だからこの場で読むには数時間かかる。自分に即して考えてしまったせいで、気が遠くなる。私は、先輩が私の文章に釘付けになっているうちにこの場から抜け出したかった。
「これ、家帰って読ませてもらってもいい?」
三ページ目というか紙束の三枚目に行ったところで、先輩がそう言った。嬉しかった。この時間から解放されたことに喜んだのではない。そんなのは些細な問題だ。
今度は私が先輩の瞳に釘付けになる番だった。吸い込まれるような、求心力のある瞳が私を一番喜ばせた。
「勿論です」
「じゃあ、早速読むから」
先輩は荷物を持ってそそくさと部室から出て行ってしまう。
誰にも干渉されずに、物語の中に閉じ込まれたい。私が秋風作品に感じることを、先輩は私の小説で感じてくれている。それがどんなに嬉しいか。確かに、書き出しはよく書けたと思う。それだけ、この小説が西宮先輩の小説であったということだ。しかしその後私は思うように書けなくなる。筆は遅々として進み、思うような文章が浮かばなくて、何度も何度も書いては消しを繰り返した。願わくは、先輩が荒れた山を通り越して私の書きたかったものに触れてほしい。そこからは弾けるように文章が書けたのだ。
いつもうるさい先輩が消えて、閑散となった部室に一人、私が残る。先輩がいなくなったから火が消えたようにしんとする。私の呼吸音だけが部室から生まれる音で、外からは風に吹かれた木の葉が揺れる音が外の音だった。
トイレに行こうと思って部室を出た。靴の音が物寂しく響いた。
さあ帰ろうかと荷物を持って部室を出る。
先輩にもらった嬉しさも時が経つにつれて薄れていき、元から私の実力だったんだと感覚が曖昧になってきた頃、私は今一番会ってはいけない人とすれ違ってしまう。
──木葉ちゃんだ。
ここの廊下は薄暗いので、もしかしたら勘違いかもしれない。けれど、確かに秋風木葉だ。もう少しですれ違う。ほっといての呪縛は未だ健在で、私はこんな至近距離になっても無視をしなきゃいけないという選択肢が脳内でブザーを鳴らしていた。しかし、私は怖い。もし気になって彼女の顔色を窺ったとき、見向きもされなかったら。平然と無視をされたら、意に介されなかったら。私は拒絶されていると感じてしまうだろう。ほっといて、はそういう意味だったと捉えてしまうだろう。
しかし逆に私が声を掛けたらどうだろうか。彼女のことだからきっと無視はしない。それだけはわかっていた。確信に近いものがあった。しかしそうすれば私はきっと彼女からの信頼を無くすだろう。
そして私が下した結論は、アイコンタクトを送ることだった。わかってるよ、無視すればいいんでしょ、と意思を送る。
睫毛の長い、二重だった。私は表情を崩さず視線を送った。私は何ともないように振る舞ってやることだけはちゃんとする。
木葉ちゃんは私の視線に気づくと、コクと頷いた。ただそれだけだった。けれどわかっているよ、ありがとうの意が含んでいたし十分満足だった。伝わった。
よく見ると彼女の顔には以前に比べマシに見えた。隈がうっすら現れていた目元も肌に近い色に戻ってきている。
そうして私達はすれ違った。
サークル棟から出ると、うろうろ迷っている女の子が目に入った。ばっちりと施したメイクに、ブランド品のバックを腕にかけている。
これは関わっちゃいけない人だ。本能が言っている。
うろうろというのは少し間違っていた。行きたい場所を探している迷子ではなくその女の人は人を探していた。人が彼女の脇を通る度、彼女は敏感にその人の事を見遣った。当然、構内から出てくる私のことも誰かを判別するように見られた。
誰を探しているか、なんとなく見当がつく。でも私は関知しない。そうならないといけない。
「あの、茶髪のこれぐらいの背の子をみませんでしたか?」
およそ木葉ちゃんの身長を手で指し示して私に声を掛けてきた。木葉ちゃんの為に私が出来ることと言えば、この人に知らないと突き放すことぐらいだった。が果たしてそこまでの優しさは必要だろうかこの人にとっても木葉ちゃんにとっても。
「いや、見てないです」
「そうですか、すみません」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます