第49話 スパイダーマン

「と、とにかく確認してみる」

 ウサコは、よろよろと暗幕の裏側に回った。

 わたしはTシャツを急いで着る。

 その際、案山子を横目で伺うも、こっちが申し訳ない気持ちになるくらい、終始無表情だ。


「なに?」

 案山子が口を開いた。

「いや……あっ、そうだ。さっきはアドリブで助けてくれてありがとう。コメちゃん、結構やるね」

「ああ。ちょっと良いところを見せようかなって」


 コメちゃんは口の端を少し上げ、遠い目で客席の方を見た。わたしには暗幕しか目に入らないが、彼の目には客席後方で照明操作をしている七海さんの姿がはっきりと見えているんだろう。


 ……とにかく、わたしもウサコの後に続いた。

 暗転のその先にある窓は、年代もので建て付けが悪い。わたしとウサコは、力を合わせて音が出ないように慎重に、窓を開けた。


 外の世界と繋がるのは、随分と久しぶりのような気がする。辺りは、もうすっかり暗くなり、眼下に見える街灯にも明かりが点いていた。


「あの雨どいをつたって行けば……」

 ウサコはそう呟いて、黒の下着から伸びる長い足を窓枠にのせた。

「ちょっ、待った待った。とりあえず下を履いて」

 ウサコは盛大に不服そうな顔をして(何でよ!? アンタは露出狂女かよ!?)、バタバタとジャージのズボンを履いた。


「でも、いくら2階だからって、その……もしも頭から落ちちゃったら……やっぱり、ダメだよっ。危ないよ」

 わたしは、最悪の場面を想像していまい、勝手に涙が溢れ出してきた。


「本当にバカだね、カメは。あたしを誰だと思ってるの? 物語の主役はね、そんなヘマはしたくてもできないもんなんだよ」

 ウサコは、指先でわたしの涙を優しく拭った。

「ううっ……」

 さっき、お呼びじゃない場面で出演してたくせに。


 ウサコは窓の外に勢いよく飛び出して、雨どいにしがみついた。

「もう戻って来なくて良いからね」

 わたしの言葉に、ウサコは下を向いたまま笑った。


「金髪のお姉ちゃーん、何してんのー?」

 --あ。

 いつものようにクロを連れたハットリが、下からぶんぶんと手を振っていた。事情を知らないハットリからすれば、ウサコがスパイダーマンごっこでもしているようにしか見えないだろう。


 ハットリとクロが、窓から顔を出しているわたしに気付き、

「あっ、カメー! お芝居、明日観に行くから!」

 やっぱり、明日もケツバットは確定か……て、もうそれどころじゃない! ほ、本番中なんだから大声を出さないで! ムダ吠えをするな、バカ犬!


 そんなことをしている間にも、ウサコは器用にスルスルと下りて--、

「ひっ」

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。ウサコの身体がゆっくりと後ろへ傾いたかと思ったら、そのまま真下にある植え込みに落下した。葉っぱが激しく揺れ、バキバキと派手に枝が折れる音がした。


 わたしは血の気が失せる。

 だが、ウサコは何事もなかったかのように、すぐに立ち上がり、ハットリと何か喋っているようだった。


「分かった、約束だよ! じゃ、今日はもう帰るよ」

 ハットリの元気の良い声が響く。

 人の気も知らないで。あのバカウサギは、一体何の約束をしたんだ……?

 ウサコはハットリを見送ると、忍者のような素早い動きでトイレを目指して消えてしまった。


 わたしは、音を立てないように慎重に窓を閉める。外界との接続が、再び遮断された。

 一息つく間も無く舞台袖まで移動して、物語の進行状況を確認する。


 良かった。ラストの転換までは、まだ時間がありそうだ。さっきはウサコに、戻って来なくて良い、なんてカッコつけちゃったけど……。


 転換ズの仕事は残すところ、ラストシーンへの転換、及び仕掛け。リーダー不在でそれらを行うことは考えるまでもなく、厳しい。

「……どうする? コメちゃん」

 わたしは、暗闇と同化しかかっていり仲間に尋ねた。


「何が?」

「いや、だからウサコ抜きでラストの転換をどうするかってこと」

「完璧にやるのは無理。だって、そんなの練習してないし」

「それじゃあ、わたし達、皆んな坊主じゃない」

「そうだね」


 コメちゃんは、まるで他人事のように言う。

 --もうダメだ。いや、すでに三回くらいダメになっているような気もするが……。

 わたしも窓から逃げちゃおっか? ハイハイ、わかってますよ。わたしには雨どいをつたって一階まで下りるなんて芸当はできっこない。ていうか、普通の女子高生はそんなこと考えもしない。


 わたしは、恨めしい気持ちで窓の方を見やった。

 --トン、トン、トン……。

 ガラスを叩く小さな音。

 わたしは、即座に暗幕の裏側へと回る。

 窓の外には、金色の髪をなびかせたスパイダーマンが張り付いていた。


 わたしは窓を静かに開ける。

「戻って来なくて良いって言ったのに」

「カメやコメちゃんだけに任せられるわけないじゃん。おちおちトイレも行ってられないってーの」

 全部、アンタのせいだってーの。


 ウサコは軽やかな足取りで着地する。わたし達は、協力して再び窓を閉めた。

「はあー、スッキリしたー。死ぬかと思ったよ」

 ウサコが、ふにゃっとだらしなく笑う。

「落ちた時じゃなくて、そっちかい。ほら、まだ葉っぱがついてる」


 ウサコの髪の毛やTシャツに、ところどころ土や葉っぱが付いていた。わたしが取ってやろうとすると、ウサコは犬のようにブルブルと身体全体を震わせた。


「わっ、汚い!」

「汚くなんかない。失礼なことを言うな」

 そして、ウサコは、いつになく真剣な表情になる。

「よし。次でラストだけど気を抜くんじゃないよ、カメ」

 --アンタにだけは言われたくないよ。

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