第90話 魔王様の誘惑



【毒を解放します】



 表示されたウィンドウの文字に、思考が停止した。

 それがどういう意味を成すのか正しく理解する間もなく、私の全身が発火するかのように熱くなる。

 次の瞬間、燃えるような熱が一気に私の体から抜けていき、真っ暗な闇の塊となって眼前に迫っていた魔族を飲みこんだ。



「ガ……ッ!?」



 突然現れた闇の塊は、魔族の中に吸い込まれるようにして消えた、ように見えた。

 直後、魔族がぐるんと白目を剥き、地面に崩れ落ちる。痙攣し喉を掻きむしる魔族は、悶え苦しんでいた。



「ニンゲン、ガ……ナゼ、ドクヲ……!」



 毒。やはり毒なのか。

 私が毒で、魔族を攻撃した。状況から見て、そうとしか思えない。


(でも、一体なぜいきなり?)


 泡を吹き始めた魔族の姿にぼう然としていると、ノアたちが駆け寄ってきた。



「オリヴィア! 一体何が?」


「わ、わかりません。わかりませんが……」



 自分の手の平を見下ろす。

 小刻みに震える手。普通の、どちらかというと細く小さな少女の手。きっとセレナや親衛隊の子たちとそう変わらない手だ。それなのに、私はどんどん普通ではなくなっていく。人間と言う定義から遠ざかっていっている。


(仕方ないのよね。前世持ちな上、人生二度目な時点で普通じゃないもの)


 それになんと言っても、ベースが悪役令嬢だ。普通で平穏な人生とはほど遠く、自らそれを選んだとも言えるのだから。

 私は深呼吸をして、ノアを見上げた。



「私が……何かしたようです。突然、体が熱くなって」



 さすがに気味悪がられるかもしれない。魔族ではと疑われるかもしれない。

 そう思ったのは一瞬で、ノアはすぐに理解したような顔になりうなずいた。



「つまり、創造神によりもたらされた、新たな力というわけだね」


「え……」



 そういうことになるのだろうか。

 創造神というより、システムによって与えられた感が否めないのだが。

 いや、それよりこんなにも簡単に受け入れられたことにびっくりだ。一瞬たりとも私を疑うことなどない。ノアの態度はそう言っているようで、じわじわと愛しさが溢れてくる。



「神子様の力は進化される類のものなのですか。興味深いですね」


 ユージーンまで真顔でそんなことを言う。


「オリヴィア様が無事であればそれで」


 ヴィンセントもたいした問題ではない、とばかりにうなずく。


「更なる創造神の祝福を得られたのは素晴らしいことだが……頼むから、無茶はしないでくれ。僕の身が持たない」


 困ったように微笑むノアに手を握られる。

 その温もりを感じた瞬間、私の震えはぴたりと止まった。



「……はい、ノア様」



 素直に私も微笑み返し頷く。


(まあ、せっかく戦える力が手に入ったのなら使える時には使いますけども)


 などという本音はおくびにも出さず、しおらしくしておく。

 燃費の悪いシロに頼りきりでいるには不安があったが、これでようやく解消されるかもしれないのだ。内心では狂喜乱舞である。

 私の喜びには気づかない様子で、ノアは満足そうにうなずくと、悶え苦しんでいる魔族に向き直った。



「魔族。以前、貴族と契約したと言っていたな。いまもそうなのだろう。誰と契約している。目的は何だ」


「コノ、ワタシガ、クチヲワルトデモ……」


「吐けば命だけは助けてやらないこともない」



 魔族を虫けらのように見下ろしながら、ノアは冷たく言い放つ。種族の違いなど関係なく、すべての生命を支配するような為政者の顔である。

 かと思えば、今度は優しげに微笑んだ。



「魔族も痛みや苦しみを感じるものなんだろう? 死が恐ろしいだろう?」


 優しく同情するように、甘く誘惑するようにノアは語りかける。


「契約者について吐けばいい。そうすれば楽になれる」



 まるで悪魔の囁きだった。

 聞いているこちらはゾッとしたけれど、魔族は明らかな迷いを見せた。

 助けてやらないこともない。楽になれる。どちらも、殺しはしないとは言っていないということに、いままさに死にかけている魔族は気づいていないようだ。



「ワタシハ……チョクセツ、ケイヤクシテイナイ」


 とうとう、魔族は息も絶え絶えにそう口にした。


「何だと? 人間と関わっていないということか?」


「ワタシハ、カカワッテイナイ。ダガ……ワタシヲシハイスルカタガ」


「支配?」



 契約ではなく、支配とはいったいどういうことだろう。

 思わず声に出した私に、ユージーンが「もしかしたら」と答えた。



「魔族の序列のことでしょうか。魔族の世界は完全な実力主義で、弱き者は強き者に絶対服従だとか」



 人間社会は血筋で身分が決まるが、魔族社会は力の強さのみで決まるということか。

 だとしたら、ノアたちを手こずらせた目の前の魔族は、どんな身分なのだろう。そしてこの魔族を支配する魔族とはどれほどの存在なのか。



「お前を支配する魔族が、人間と契約しているんだな」


「その魔族の名は?」



 ノアとユージーンに詰め寄られ、魔族は先ほどよりもガクガクと大きく震え始めた。

 毒のせいではなく、何かに異様に怯えているように見える。



「イ、 イエナイ……」


「では、契約している人間は一体誰だ」


「ケイヤクシャハーー」



 魔族が一瞬、赤い瞳でノアを見た。

 そして口を開こうとした時、突然空から降ってきた大剣が、魔族の体を貫き地面に深く突き刺さった。



「ガハ……ッ」


 魔族の体から口から、血が飛び散る。


「なっ!?」


「上だ!」



 全員が夜空を見上げると、私たちの頭上に男が立っていた。

 飛んでいる、とか宙に浮いている、という表現は似合わない。ただ平然と、そこに足場があるかのように立っている。

 貴族のような衣服にマントを肩にかけた男は、長い髪をなびかせこちらを見下ろした。



「無様だな、ゼアロ」



 じわりと、耳の奥を侵すような甘く低い声だった。

 その声を聴いた途端、魔族が血の涙を流しながらはくはくと口を開く。



「タ、タイコウ、サマ……オタスケ、ヲ」


「敗者に許されるのは死のみだ」



 男が呟いた直後、その姿が私たちの視界から消える。

 次の瞬間、魔族の傍らに男が現れ、大剣を無遠慮に引き抜いた。



「アアアアアアアアア―――ッ!!」



 断末魔の悲鳴に顔色ひとつ変えず、男は魔族の角を容赦なく切り落とした。

 宙を舞う角を男が掴んだと同時に、魔族は塵となり跡形もなく消えていった。



「我が契約者の悲願を叶える糧となれ。光栄だろう」



 魔族をあっけなく殺した男は、次に私たちを見た。

 怪しく輝く真っ赤な瞳と目が合った瞬間、全身を恐ろしい何かが駆け抜けていった。



「魔族……!」


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