第6-4話



 すぐに否定してしまえば良かった。

 だのに、出来なかった。

 閉まった喉に言葉のすべてが邪魔されたように、嘘を紡ぐことも、ただの噂話だとも言えなかった。

 それが事実に他ならなかったから。

 レオ、と名乗ったが、それは本名ではなかった。

 母親に付けられたのは、レオナルド、という名前だった。

 その名前を、ノクスを始めとするテミスの人間には告げていない。

 一生それを言うつもりもなかった。

 しかし永遠に隠し続けることは出来ないこともまた、レオは知っていた。

「嗚呼、安心していいよ。ノクスさんたちにはまだ言ってない」

「…………、一体何が目的だ」

 それを引き合いに出してくるということは、レオがレミエルの望むことをしなければバラす、と暗に言いたいのだろう。睨みつけても、あ~こわ、と肩を竦めるだけのレミエルが、肩を揺らして笑う。

「話が早くて助かるよ。別に大した要求じゃない。これを、ノクスさんに渡してくれれば良い」

 そう言って懐から出したのは、蝋で閉じられた白い封筒。その蝋の紋章には見覚えがあるのに、何処のものだったか思い出せない。

 ひらひらと目の前で揺れる白がやけに目に刺さるようだった。

「それを明日ノクスさんに渡して」

「それだけなのか」

「うん。それだけ。じゃあよろしく」

 こちらに寄ってきたレミエルは、ダボ付いたレオのズボンのポケットに無理やりその封筒を突っ込んだ。わざとらしく、ポンポン、とポケットを叩いたレミエルを、ただ睨みつけることしか出来ない。

「これをあそこまで運んだら、帰ってくれていいよ。ありがとう、俺の救世主」

 レミエルは指を差してそう言うと、レオを待たずに荷車を引いて行ってしまった。

 荷車の持ち手を握りしめた手が、ギリッと音を立てる。

 怒りを何処かにぶつけたくても、自業自得だということを自分が一番わかっているレオには、どうすることも出来なかった。



 ***



 コンコン、と扉が叩かれて窓の外を眺めていた恰幅のいい男は振り返る。

「ボス、『ネズミ』がお目通り願いたいと」

 痩せ型の男が言うと、ラグーナのボスであるガーマンは、にんまりと口角を釣り上げた。

「通せ」

「御意」

 一度扉が閉まり、もう一度開かれたその場に立っていたのは、金髪の小柄な男――レミエルだった。

「久しぶりだな、レミエール」

「ええ。ご機嫌はいかがですか?」

「お前のお陰ですこぶる良い」

 腹の底から笑えてしまえるほど、本当に気分が良い。

 忌々しいテミスの人間を一網打尽にできる上に、モルテに揺さぶりを掛けられるかもしれない『金の卵』も手に入る。これが気分が良いと言わずに何と言うのだろう。

 それもこれも、長年テミスに忍び込ませていた、今目の前にいる男のお陰だ。

 大金をかけた上に、人質を取った甲斐がある。

「よくやってくれた」

「では、約束は守って頂けるんでしょうか?」

「勿論だ。お前を幹部の座に着かせ、妹は返すよ」

 ホッとしたような笑みを浮かべた『ネズミ』にニンマリと笑みを浮かべる。


 但し生きたままとは限らないがな、という心の声は聞こえまい。


 彼の妹は既にこの世の者ではない。

 かわいがってやろうと思ったのに、抵抗をしてきたせいで誤って殺してしまったのだ。

 渡すのは、モノ。

 勿論『ネズミ』には言ってない。当然だ、使い物にならなくなったら、拾った意味がない。むしろ感謝されたいくらいだ。街で今にも息絶えそうだった二人を兄妹揃って拾ってやったのだから。

「それで、儂からの招待状は渡したのかね?」

「はい。ガーマン様の指示通り、彼に渡させました」

「よしよし。では、あとは向こうが網に入ってくるのを待つだけだな」

 こんなに愉快なことはない。

 やはりこの世で勝つのは、力を持ち権力を振りかざすことのできる強者だけなのだ。

 目の前の『ネズミ』は、妹だったモノを渡した時一体どんな反応をしてくれるだろう。

 絶望するだろうか。それとも怒り狂うだろうか。

 勝利の盃を片手に、そんな余興を楽しむのも悪くはない。嗚呼、本当に楽しみだ。

 ほくそ笑んで、湧き上がってくる笑い声を部屋に放つ。勝ち誇ったような笑い声が、いつまでも響いていた。



 ***



 今にも雨が降り出しそうな鈍色の雲の下。

 前を往くノクスの背中を見つめる。彼の背は決して折れることはなく、いつ見ても真っ直ぐに伸びている。絶望とは無縁だと言うような背中が、レオの瞳にはいつも眩しく映る。



 昨日レミエルから渡された封筒を渡したのは、数時間前のことだ。


 その封蝋印の紋章を見るなり、ノクスは僅かに眉を顰めた。

 すぐさま開封して目を通したのち、レオを真っ直ぐに射抜いて来たノクスに、身じろぎせずにはいられなかった。

 何と言われるのか、分からなかった。

 今すぐに此処を出ていけ、だろうか。

 それとも裏切り者はお前か、だろうか。

「レオ、一つ聞きたい」

 しかし紡がれた言葉は、そのどれでもなかった。

「お前は、僕を信じてくれるか?」

 目を瞬くレオを、ノクスはずっと見つめて答えを待っていた。

 何を信じてほしいと言うのか解らない。解らないけれど、考えるよりも先に口が動く。

「アンタを、信じたい」

 何を言っているのか、ともうひとりの自分が頭の片隅で言った。どの口が言うんだ、と言う自分もいた。

 でもレオの本心は、此処だ。

 信じたい。彼を。

 全てはまだ無理だ。だとしても、今まで見てきたノクスの姿は、レオが知っているギャングとは似ても似つかない。権力だけに縋っている者でも、金だけのために動く者でも、ボスという立場にふんぞり返っている者でもない。

 信じるなんて言葉に、もう飽き飽きしていた。どうせ誰も彼も裏切るのなら信じても無駄だと思っていた。でも、目の前のこの男なら。この男だからこそ。

 もう一度、信じたいと思うのだ。

「上出来だ」

 ノクスは小さく笑って言った。

「お前にはこれからある場所に、僕と一緒に行って貰う。ただ、」

 上から下まで目を走らせて少しだけ気難しそうな顔をしたノクスが、レオを指差してくる。

「その格好のままでは拙いな」

 その言葉に改めて、自分を見返す。

 伸びて縒れた長袖のシャツ。だぼついたズボン。

 自分の格好なんて気にしてきたことがなかったが、ノクスと比べれば随分と見窄らしい格好をしている。

「でもこれ以外持ってない」

 今まで格好を気にしない性格が祟るとは思っていなかった。

 動きやすい服以外は持っていないし、服に気を遣う事なんてしてこなかった。そもそもその為の金がなかったのだ。

 服はレオにとって贅沢品だった。

 服に金をかけるくらいなら、食に金をかけた方が自分に返ってくるメリットが大きい。

 それに加えて服に金を使うことが、自分の父親を思い出すようで嫌だったのもある。

 モルテのボスの父は、毎日のように宝石を身につけていた。街の人々が死に物狂いで工面した金を湯水のように使い、中身は醜悪のくせに外見を煌びやかにし尽くす。そんな父親のようになりたくないと思えば思う程、装飾品に手は伸びなくなった。

「じゃあ僕のを貸そう」

「いや、でもアンタの方が背高いだろ」

 どんなに良い服でもサイズの合わない服は、逆にだらしなく見えてしまう可能性がある。だからこそそう言ったのに、大丈夫だよ、とノクスは言った。

「レオと同じくらいの体格の時のが確か残ってる筈だ」

 少し待ってろ、と寝室に消えたノクスは、数分足らずでスーツ一式を片手に戻ってきた。

「ヴィンテージものだが手入れはしてあるから、問題なく着られるはずだ。ワイシャツは僕が着ているのしかないから、そこは我慢してくれ」

「あ、ありがとう」

 受け取ってはみるものの、スーツなんて着たことがない。スラックスとベスト、ジャケットは難なく身につけられたが、ネクタイに苦戦することになった。そもそも結んだ事が一回も無いのに、いきなりやれと言われても無理な話だ。

「貸してみろ」

 それを見かねたのかスルリとネクタイを奪い取ったノクスが、ネクタイを結び始めた。あれほどレオの手の中でぐちゃぐちゃになっていたネクタイは、あっという間に綺麗に形を整えていく。


「これから向かう先で何があっても、お前は口も手も出すな」


 手を動かしながらノクスがぽつりと言った。

「どういう意味だよ」

「僕が何をされてもお前は何もするな、という意味だよ」

 その言葉が指すことを追及するためにノクスと目を合わせても、彼の瞳は凪いでいた。

 感情を波打たせることもなく、あまりにも平然としている。

 それなのに、言葉には不穏さが混じっている。

 ノクスは他人をよく見ている男だ。こんな忠告をしてくると言うことは、何か胸糞悪いことが起こるに違いない。それは分かる。しかし、レオが出せる答えは一つだけだ。そう言わなければいけないことを、よく解っていた。

「わかったよ。でも何処に行くかくらい教えてくれ」

 ぽん、と襟元を叩かれてやっとネクタイが結び終わったことを知る。

 伏せ気味だった瞼がゆっくりと持ち上がって、真っ直ぐに見据えられる。

 ノクスの答えに、大きく目を見開くことになった。

「ラグーナの本拠地だ」




 結局こうしてノクスのあとに続いて、敵の本拠地に向かっている。

 仲間に一切の連絡をせず、端末も置いていけ、と言われてしまった。敵に対抗する為の武器も、一切持ってきていない。これではラグーナに、殺して下さい、と言わんばかりだ。

 だとしても、文句を言う事は許されていない。

 一体何を考えてノクスは敵陣に向かっているのか、全く読めない。

 負け戦をするような男ではないと思う。簡単に喧嘩を吹っ掛けることもないと聞いている。

 勝算があるのかも分からない。

 だというのに、どうしてだか不思議と恐怖はない。

 彼の怖じ気づく様子のない背中を見ているからだろうか。

 漠然と、きっと大丈夫なはずだ、と思っている自分がいる。


 ノクスが足を止めたのは、ある酒場の前。

 その店の前には、いかにも柄の悪そうな男達が数名屯していた。

 ノクス達に気付いた男達が下卑た笑みを浮かべる。

「ようやくお出ましか、テミスのボスさんよォ」

 そういうやいなや、男が振り上げたのは鉄パイプ。それを見ても、ノクスは一切の動揺を見せることはない。

「そんな物騒なモノを出さなくても、ちゃんと僕たちは来ただろう?」

「ハッ! バカが! 丸腰かどうか確かめさせて貰う為に、お前達にはオネンネしてもらうんだよッ!」

「ッ、ノクス!」

 鉄パイプが勢い良く振り下ろされる。

 あのまま頭に直撃したらタダではすまない。瞬時にそれを理解して、ノクスの前に出ようとしたレオを止めたのは、他ならないノクスだった。

「レオ、お前は動くな」

 たった一言、平然とそう言った。

 振り下ろされる鉄パイプ。

 ガキン! と大きな音が辺りに響き渡った。

 完全に頭に直撃したと思ったのに、どういうわけか、ノクスはそれを腕で受け止めている。

「身体検査をしたいなら止めないが、殴られる謂われはない。無闇に暴力を振るう必要なんてないだろう」

 目の前の男達も目を白黒とさせていて、何が起こっているのか理解できていないようだった。

 よくよく見れば、彼は腕時計で鉄パイプを受け止めている。あの様子だと時計はもうダメだろう。しかし、鉄パイプの着地点を瞬時に判断出来るノクスに、驚きを隠せない。それは男達も同じのようで、かなり動揺しているのが見て取れた。

「それとも君たちは、脊髄反射で敵に攻撃するほど単細胞なのか? それとも僕たちが君たちを殺すと怖じ気づいているのか?」

 完全に挑発しているように聞こえるが、ノクスの本心なのだろう。付き合いがある程度ないと彼の言葉が挑発でもなんでもないことは分かるまい。

「ッテメエ!」

「黙って聞いてりゃいい気になりやがって!」

「お前達、騒がしいぞ」

 もう一度鉄パイプを振り上げた柄の悪い男達の奥から、声が飛んだ。店からぬっと姿を現わしたのは、目の前の男達とはにても似つかない、痩せた男。

「アカテスさん、この連中が生意気な口をッ」

「彼らは客人だろう。丁重に扱え」

「しかしっ」

 口答えするな、と部下達を一掃したアカテスと呼ばれた痩せた男は、こちらへと歩み寄るとノクスに僅かに頭を下げた。

「ボスが貴方がたをお待ちだ」

 こちらへ、と促されるまま店内に入っていく。

 ぶわりと香ってくる鼻を突く臭い。ピリピリと粘膜を刺すようなそれ。とても嫌な予感がする。

 ノクスに小声をかけようとしたのと、足元がぐらついたのはほぼ同時だった。

「流石、”犬”は鼻が利くな」

 朦朧とする意識の中でアカテスの声が響く。目の前の今にも閉じてしまいそうな瞼の向こうで、いつの間にかガスマスクをしたアカテスが喉で笑っていた。

「なにを、したッ!」

 膝を床に付いて喚く。ノクスは既に意識がないのか、床に伏せていた。もう意識を保っているのも限界だ。

「心配するな。ただ一時的に体の自由を奪うだけだ。此処で死んで貰っちゃ困るからな」


 その声を最後に、プツリと意識が途切れた。


 

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