第5-2話



「はぁあああああ」

 沈黙を破ったのは、ライエルの大きな大きな溜め息だった。

 ハンドルに項垂れたライエルにバレないように口元を緩める。結局の所、ライエルはノクスにとても甘い。意見も文句も垂れるものの、ノクスのやりたいことをやらせてくれる。

「納得してくれたか?」

「分かってましたよええ分かってましたとも。貴方は一回拾ったものを見捨てたりしないって」

「じゃあなんで食って掛かるんだ」

「言ったでしょ? チョロい貴方が心配なんです」

「それは悪口だな?」

「悪口ですよ。今日くらい悪口言わせてくださいよ」

「いいよ。今日だけと言わず存分に言うと良い」

「何でですか。好きな人の悪口そんなに沢山言うの嫌ですよ」

「でも八つ当たりしたいんだろ?」

「はいはいノクスさんには俺のことなんでもお見通しですね」

「なんでもは見えないよ」

「十分見えてますよ」

 やっと顔を上げたライエルは、もう一度大きく溜め息を吐いた。ジロリと向けられた金の交じる茶の瞳は恨みがましい。肩を竦めたら機嫌を損ねたようで、ますますその瞳は鋭くなった。

「何かあったら承知しませんからね」

「分かってるよ」

 頷いたのに、不服そうな息が二人の間に落ちていく。まあ確かに今までの己の行動を省みれば当然の反応だ。それだけ心配をかけている自覚もある。過去に一度不意打ちを喰らってかなり拙い状況に巻き込まれたから、余計にだろう。

「それから、ついでに一つお願いがあります」

「なんだ?」

「レオを今日から一ヶ月くらい俺に貸してください」

「……構わないが、あんまり苛めないようにな」

「苛めませんよ。人聞きの悪い」

「どうかな。すでにレオからはお前の雷が嫌だって報告を受けてる」

「あれはアイツが悪いんで、俺は謝るつもりないです」

「そんなにレオが嫌いか?」

「嫌いに決まってるじゃないですか。ノクスさんにあんな態度取ったって知ったら俺以外の連中だってアイツのことボコボコにしてますよ」

「ははっ、吹聴しないのがお前の優しさだな」

「違いますよ。俺が一人で弄り倒したいだけです」

 ツーンとそっぽを向いたライエルに、笑ってしまう。

 本当に嫌いなら、一ヶ月貸してくれ、なんて言わない。ライエルのことだ、最低限の護身術をスパルタで叩き込むのだろう。レオが今のままだと足を引っ張る可能性は、ノクスでも分かる。いつも誰かが彼の近くにいられるとは限らない。魔の手が伸びてきたとき、抵抗が出来るようにしてくれるのだと思う。後々頼もうとは思っていたから好都合だ。

 アイツのためじゃないです、と何を言っても躱されてしまうだろうから、これ以上は何も言わないけれど。

「程々にな」

「死なない程度にしてやりますよ、仕方ないので」

「ぜひそうしてくれ」

 話はこれで終わりだろう、とドアハンドルに手を掛けたところで、制止をかけられた。

「家まで送ります。ついでにレオを引き摺ってでも連れてくんで」

「………本当に、程々にな」

 首根っこを猫のように掴まれて、ライエルに引き摺られていくレオを簡単に想像出来てしまって、眉を顰める。

 キャンキャンと騒ぐレオと、ものともせずに引き摺っていくライエル。実際やりそうになったら僕が止めるべきか。

 そんな事を考えているうちに、車は緩やかに進んでいった。

「ライエル」

 流れゆく街並みを見つめながら話しかければ、はい、と律儀に返事がある。

「レオの素性が分かったらすぐに教えてくれ」

「了解です」

「それから、僕以外には誰にも言うな」

 雨音が沈黙を埋める。

 暫くして聞こえた、わかりました、は不満そうな音をしていた。 



 ***



「というわけだ」

 真顔でそう言ってきたノクスの後ろに、ヘラヘラとした男が立っていて、レオは勿論顔を歪めることになった。

 何が、というわけだ、なのか全く分からない。

 一体何がどうなってそんな話になったのだろう。

 帰ってきて早々ノクスは、これから先一か月ほどライエルの下に付け、と言ってきた。当然納得いかないのは、レオだ。何のためにだよ、と噛み付けば、ライエルが貸して欲しいと言ったから、なんて言われてしまった。

「苛めないように言っておいたから、心配しなくて良い」

「……ほんとかよ」

「レオくーん? 何か言った?」

 ぼやいた声をライエルの地獄耳は拾ったらしい。ニコニコと笑みを浮かべているのに、圧を感じる。あの顔はどう見ても、苛める気満々だ。しかし断ったら、もっと嫌な予感がする。意地でも連れて行ってやる、なんて副音声が聞こえてきそうな顔をしているのだ。

「………………、わかった」

 長い沈黙を使った末、結局レオはノクス達の提案を受け入れることにした。

 どうせ逃げられないのなら、早々に首を縦に振った方が得策だ。そう思っての了承だったのだが、ライエルに意外そうな顔をしているのが見えた。

「何だよその顔」

「いや? もっと抵抗するかと思ったから意外で」

「……抵抗される前提で話を持ちかけたのかよ」

「懸命な判断だ。もっと抵抗してたら引き摺ってでも連れて行くってライエルは言ってたからな」

「ノクスさんバラさないで下さいよ。俺の印象最悪になっちゃうじゃないですか」

 元から最悪だよ、とは口に出さない。明らかに猫なで声のライエルに、ノクスですら呆れた顔をしている。

「僕は事実を言っただけだ」

「時としてそれが問題になるんです」

「安心しろ、いつもはこんな軽率な真似はしない」

 そのノクスの言葉に、内心首を捻ってしまった。

 ホントかよ。俺にあんなに簡単に鍵渡してるのは、軽率な真似って言うんじゃないのか? あれが普通って相当危機管理拙いだろ。コイツの基準、全く分からないな。

 そう思っていたのはレオだけではなかったのか、ライエルも微妙そうな顔をしていた。

 ライエルといい、ノクスといい、この組織の人間は盤石のように見えて、抜けている所があるような気がする。それが油断させるための計算なのか、はたまた無意識なのか、未だに判断出来ずにいる。

「ま、いいや。引き摺って行く手間が省けて良かったです」

「本当に程々にしてやってくれ、ライエル」

「分かってますって。ヘロヘロにさせすぎて、追ってる奴らにそこを突かれたら、元も子もないですもん」

 相変わらず何を考えているのか分からない笑みを浮かべていたライエルだったが、レオへ手を差し出してくる。彼の手と顔を交互に見てから、渋々その手を握り締めた。思い切り力を入れられて早々に苛められるかと思ったのに、軽く振られた後直ぐさまその手は離された。ぱちりと瞬きを二度している間に、ライエルは踵を返した。

「じゃあノクスさん、コイツ借りてきますね」

「仲良くな」

「もう耳タコですよ」

 振り返ってひらりと手を振ってから、レオを見たライエルに顎で促される。大きく鼻で息を落としてから、レオもまたライエルの背中を追いかけた。



 車窓から見える街は、灰色の雲と雨の所為かどんよりと気怠げだ。

「最近どうだ?」

 窓の外をぼんやりと眺めていたら不意に声を掛けられる。

 ライエルの方をちらりと一瞥して、また窓の外に目を向けた。

「何がだよ」

「そりゃあノクスさんと上手くやってるかどうかだろ」

 上手くやってるかどうか。頭の中でその言葉を反芻する。

 すでにノクスの家に居座るようになってから、一週間は過ぎている。何でも、元々割り当てられていたあのマンションは、改修工事が必要らしい。一か月くらいは掛かる、という話をノクスから聞いた。

 マンションにいたときと相変わらず、シゴトが入れば出掛けて、彼の家に帰ってきて寝ている。別に喧嘩はしていないし、黒猫がいるお陰か気付かないうちに気が抜けている。そう考えると腹立たしさも湧き上がるが、まあ上手くやっているか否かで聞かれたら、前者だろう。

「それなりに」

「へえ、それなら安心だな」

「それ、俺の命が、って意味か?」

「まあ、俺にボコボコにされることはないだろうな」

 喉で笑われた。睨んでもその軽薄な笑みは直らないし、彼が運転する車は緩やかに進んでいく。

「それで、アンタは俺を何処に連れて行くつもりだ?」

 一か月ほど借りる、と彼は言った。捉え方によっては、命を狩る、と聞こえる言い方だったが、ノクスとライエルのやりとりを聞いていれば、その線は薄いだろう。

 否、と思う。

 もしかしてそれが彼らの目的だろうか。彼らは既に己の素性を知っていて、それなりの対応をするつもりなのだろうか。背筋がじっとりと冷えていく。

 迂闊だった。余りにもここ最近が平穏だったから、油断していた。ノクス相手には直感が宛てにならないと、知っていたのに。

 ジッとライエルを睨み付ける。

 こちらに一瞥を寄越したライエルが、鼻で笑った。

「何だよ、猫みたいに威嚇してきて」

「……俺をどうするつもりだ」

 ここまで来て、バラバラにして売り飛ばすことはないだろう。素性が分かっているのだとしたら、バラバラにするよりも別の用途に使った方が良い、とレオでも分かる。ライエルやノクスの狙いが全く分からない。

「さっき言っただろ、俺が貸して貰ったって」

「具体的に何をするつもりか聞いてる」

「逆に、お前は何をすると思ってるんだよ」

 是非聞かせてくれよ、と彼は言った。

 その声が悦を孕んでいると感じるのは、思い込みなのか直感の所為なのか、判断は出来ない。嫌な感じはしなかった。でもそれは、この男がレオを煙に巻いているからだったら、完全に後手に回っていることになる。

 お前は俺を殺そうとしているんじゃないのか。

 それを実際に口に出すことは憚られた。

 しかし、相手はライエルだ。遠回しに言っても間違いなくはぐらかされるだろう。直球で聞くしか無い。静かに息を吸った。

「俺を殺すつもりか?」

 沈黙が落ちる。ワイパーの音だけが不気味に響いていた。

 果たして、ぷっ、と吹き出したのはライエルの方だ。

「アハハッ! 何で俺がお前のことを殺すって発想になるんだよ。クク、そんなに俺って悪人面してるか?」

 揶揄う声にだんだんとしかめっ面になっていく。

 レオにしてみたら、笑い事どころか死活問題だ。だというのに、ライエルときたら、そんなことを気にする筈もなく視線を寄越さないまま言った。

「もし本当に殺す気だったら別のタイミングで殺すだろ。なんで堂々とノクスさんの前で借りるとか言うんだよ」

「…………、グルだったらあり得るだろ」

「はぁ、お前はノクスさんの何処を見てるんだ?」

 溜め息と共に呆れた声が耳を突く。

 雷が落ちそうな空気はない。ライエルは、まあ確かにあの人は一見怖そうな顔っつーか目付きはあんま良くないか、と誰ともなく納得したように呟いている。

 まだ知り合って間も無い人間の事が分かる筈がない。長い間付き合いのあった人間ですら、簡単に裏切るのに。昨日まで隣で笑っていた人間が、手の平を返す瞬間を何度も見てきた。私利私欲を満たすために、何度だって道具にされてきたのに。

 この街の人間の何処を信頼したら良いのだろう。

「……アンタはどうして、アイツをそんなに信頼出来るんだよ。裏切られるかも知れないのに」

 分からない。人が人を信頼する原理なんて、誰も教えてくれなかった。手放しで信頼した人間からは裏切られた。親切な顔をして寄ってきた人間は、金を前にして簡単にその顔を捨てる。一体何を信じれば、絶望せずにいられるのだろう。

 ははっ、と笑ったような声が聞こえる。伸びてきた片手から逃げる間も無く、髪をくしゃりと撫でられて目を見開く。

「なんつーか、お前苦労したんだなぁ」

「……馬鹿にしてんのか」

「いや? 別に?」

 軽く払った手から抜け出せば、また喉で笑われてしまった。

 結局答えは教えてくれずじまいかよ、と窓の外を見遣ったレオの耳に、穏やかな声が届く。

「裏切られたとしても俺自身が納得できる人だから、信頼してるんだ」

 勢い良くライエルの方を向いてしまった。

 何故、そんな事が言えるのか意味不明だ。裏切られても納得できるってなんだ。

 は? という声は聞こえてしまっただろう。口元に不敵な笑みを浮かべたまま、ライエルは続けた。

「ノクスさんが裏切るとは微塵も思ってない。でも万が一裏切られたとしても、それでも良いと思った人だから、信頼してる。それに足る何かがあるから信頼するんじゃない。あの人を俺が信じてるから信頼してる、それだけだ」

 その横顔には見覚えがあった。

 あの日の母も、そんな顔をしていた。

 諦めたわけではない。でも、絶望にも染まっていない。何の憂いもないと言うような、清清とした笑み。それでも良いの、と笑った母と似た笑みを浮かべていた。

「意味が分からない」

 じわじわと喉に迫り上がってきた苦みと一緒に、吐き捨てた。

 何があればそんな風に笑えるのだろう。意味が分からない、以外の言葉が見つからない。どう考えても裏切った奴が悪い。

 裏切るくらいなら、最初から突き放してくれればいいし、関わりを持たないでいたら良い。関係を持ちかけたのが双方だったとしても、片方が完全に断ってしまった結果その関係は夢幻になる。そうしたのは、裏切った本人だ。責められるべきは裏切った奴の筈だ。

 だのに何故責められずにいられるのだろう。

 どうしたら、何かに膝を折らなければならない耐え難い屈辱感を覚えないのだろう。

 分からない。理解できない事だらけだ。

 ノクスのことも、目の前のライエルのことも、遠い日の母のことも。

「分かる必要はないだろ。これは俺の感覚で、お前に当てはまるとは限らないんだから」

 あっけらかんとライエルはそう言った。

「つーか、もしもノクスさんがお前を殺す気だったら、寝込みを襲えば済むし、どっかの組織に追われてるお前を外に放り出せば、自分の手を汚さなくて済むんだ。なのに今の今までそうしない奴がいるか?」

「それは、」

 確かにライエルの言うことは正しい。

 最初から殺す気なら、いくらでも機会があった筈だ。しかし、それはレオの素性を知らないから、とも言える。素性を知って彼らがどう行動するのかは、また別の話だ。素性を知った人間は、レオという存在に利用価値があると分かるから殺しはしない。それは断言できる。

「ま、別に良いけど。ただノクスさんに舐めた態度取ったらシメるからな。それだけは覚えとけよ」

 それきりライエルは黙ってしまった。沈黙は、雨音とワイパーの音が埋めてくれる。

 膝の上で握り締めた拳がギリッと音を立てても、顔は上げられなかった。

 ライエルの正論は、いつもレオの胸の柔らかいところをチクチクと刺す。

 出来ることならそうしたい。そう思っていることをいとも簡単にやってのける彼ら。それを己と比べて、何とも表しづらい感情が渦巻く。

 それが酷く、据わりが悪かった。

 

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