11.くるみ

⑴二人のヒーロー

 満天の星が、地表を覆っている。青白く澄んだ空気が肺の中を満たし、まるで、此処から何かが始まるのではないかと言う予感のような、奇妙な活力が静かに染み出していた。


 精霊界から戻った昴は、地表の上をぐるぐると廻る夜空の下で、野営を行った。ウンディーネの森は不気味な程に静かだった。

 オレンジ色の焚火たきびが時折、乾いた音を立てる。昴は、炎を見詰め、其処にヒーローと過ごした日々を映し、愛おしむように振り返っていた。


 


 確証は無いが、恐らく、事実なのだろう。実感は湧かないし、納得出来る日も来ないと思う。けれど、その経緯を聞いて、彼らしいな、と思った。

 理不尽な死だ。非業の死だ。だが、和輝はきっと、その死の瞬間まで汚れない美しい魂で、信念を貫いたのだと思う。後悔なんて塵一つ残さない完璧主義者だ。最善を尽くした結果なのだろう。


 世界はイデアで繋がっている。きっと、死んだ彼もイデア界と呼ばれる楽園に行き着いたはずだ。昴の夢に現れた彼が本物だったのか、都合の良い妄想だったのかは分からない。今は、信じることしか出来ない。


 彼はヒーローだった。

 今も昔も未来も、ずっとヒーローだ。


 それでも、願ってしまう。

 それが彼を否定することになったとしても、願わずにはいられない。

 ヒーローになんてならなくても良いから、生きていて欲しかった。


 あの裏表の無い少年のような笑顔に会いたい。

 笑って、叱って、励まして、導いて欲しかった。

 こんなことを言えば、彼はきっと笑っただろう。そして、当たり前みたいに背を押してくれたのだろう。


 ぱちり、とたきぎが爆ぜた。

 ルーティンワークのようにナイフの手入れをしていたウルが、顔も上げずに言った。




「お前の尊敬するヒーローがどんな奴なのか、会ってみたいと思ってた」




 独り言みたいな、静かな声だった。

 白い面は炎な照らされ、言いようのない寂寞に包まれている。ウルはナイフをさやに戻した。




「凄い奴だったんだろうな。上部の情報とか、その場の感情に流されないで、本当に大切なものを選べる人だ」




 そういう人は少ないよ。

 ウルが言った。




「信念を貫くって、言葉にする程、簡単じゃねぇよ。でも、それが出来る人だ」

「うん……」




 昴は目を伏せた。

 後ろでは、二人の少年がまゆのように丸まって眠っている。ヒーローの魂を受け継いだ希望の使者だ。昴は、そう思う。


 彼等は泣かないし、立ち止まらない。それが正しいことなのかは、分からない。ただ、助けてやりたいと強く思う。彼等の選ぶ道にある一つの石ころさえ、取り除いてやりたい。


 自分に出来ることは何だろう。彼等の為ならば、命を落としても構わないと思う。

 そんな昴の読み取ったかのように、ウルが言った。




「命を懸けるってことは、死んでもいいってことじゃねーぞ。多分、そのヒーローは、命よりも大切なものを知っていただけだ」




 そうなんだろう。

 和輝は本当に大切なものを守る為に、決断出来る人だった。




「僕、和輝に何も返せなかった。沢山助けてもらって、沢山教えてもらったのに、何も出来なかった……」




 残す方と残される方、どちらが辛いのだろう。

 きっと、答えは出ない。家族を遺して逝かなければならないと思った時の和輝の胸中を想像すると、遣り切れなくて、死にたくなる。


 ウルは寝静まった二人の少年を伺って、声をひそめた。




「昴に出来ることがあるとするのなら、それは、そいつ等にしてやるしかない」




 二人の子供は、まるで気配を殺すように、寝息一つ立てず、身を守るように丸まっている。

 湊も航も、正直、昴より立派な人間だ。自分の意思で選び、その責任を負う覚悟がある。彼等は本当に大切なものを知っている。


 けれど、ウルは言った。




「そいつ等は、危うい。命を懸けることに躊躇ためらいが無い。ヒーローがどうだったのかは知らないが、少なくとも、世間知らずのガキが目指していい生き方じゃねえ」




 分かるような気がする。

 和輝の生き方は憧れても、目指すものじゃない。彼はきっと信念に従って道を選んだのだろうが、結果だけを見れば自己満足の自己犠牲だ。湊や航のような子供が目指すには、重過ぎる。




「ちゃんと見ていてやろうぜ」




 そうだね。

 昴は頷いて、空を見上げた。青白い彗星が、尾を引いて落ちて行く。天体は地表を中心に回転し、星の住処へ帰る。其処が楽園であることを祈り、昴は涙を堪えた。







 11.くるみ

 ⑴二人のヒーロー








 木々を薙ぎ倒す轟音が鳴り響いたのは、突然だった。

 昴が咄嗟に身構えた時、闇の奥に腐った泥沼のような深緑の眼球が見えた。爆風が焚火を吹き飛ばし、鼻を摘みたくなるような異臭が漂う。獣の荒い息遣いが地を這うように広がり、静寂の森は一瞬にして恐怖の闇に支配された。




「――な、何だ?!」




 闇の中に、何かがいる。

 冷たい汗が背筋を駆け抜け、昴は腰に差したナイフを引き抜いていた。


 月明かりの下で、濛々もうもうと粉塵が上がる。僅かにくすぶる薪がやがて熱を失い、炭と化す。昴には、それが遠い世界のことのように見えた。




「ミノタウルスだ」




 ウルが、噛み締めるように言った。


 見上げる程に大きな体躯は、人間と同じ二足歩行である。けれど、その表面は針のような黒い剛毛に覆われ、頭は雄牛そのものであった。深緑の瞳は狂気に濁り、天を突くように生えた二つの角は傷だらけで、歴戦の猛者であることを示唆している。


 筋骨隆々たる腕には、鈍色に輝く戦斧が握られていた。返り血に染まるその姿は、正に怪物と呼ぶに相応しかった。


 ミノタウルスは唸るように低くいななき、地響きと共に蹄を地表へ踏み出した。耳元まで裂けた口から、肉の腐った臭いがする。


 昴とウルは、小さなナイフを構えながら、じりじりと出方を窺うしか無かった。


 殺気が充満して行く。魔法陣を展開する隙が無い。昴が魔法界へ来て学んだことだが、魔法とは先手必勝なのだ。どんなに大きな魔力があっても、展開する時間が無ければ殺される。そして、今の状況は大きな遅れを取ったことを意味していた。


 昴は、魔法が使えない。

 犠牲を必要とする魔法だ。その対象を選べない現時点では、自殺行為だった。

 そして、出遅れた今、戦闘に向かないウルの魔法は無力も同然だ。


 死ぬかも知れない。

 そんな予感が身体中を駆け抜ける。最中さなか、昴は守るべき存在を思い出した。


 湊と航。

 昴の後ろで寝ていた小さな少年。魔法はもちろん、自衛の手段すら無い。殺されるだけの弱者だ。それは、これまで足手纏いでしか無かった昴よりも、ずっと弱く脆い存在だ。――その、はずだった。


 視界の端で、何かが光った。

 月光を反射する刃が、閃光のように怪物へ襲い掛かっていた。




「――航!」




 ナイフを持った小さな少年が、自分より遥かに大きな怪物を倒そうとその手を振り上げる。瞬間移動でもしたような、瞬く間も無い刹那だった。その刃は怪物の濁った目玉を刺し貫いた。


 この世のものとは思えない、悍ましい悲鳴が森の中に木霊する。月明かりに照らされた航は、怪物の返り血を浴びて真っ赤に染まっていた。


 怪物が斧を振り上げる。

 それが振り下ろされ、航を一刀両断にする、その時、明後日の方向から何かが投げられた。


 小石だ。

 淡い光の中で、湊が片手に小石を弄び、笑っていた。




「こっちだ、化物」




 昴は、その姿に、在りし日のヒーローと透明人間を重ね見た。


 返り血を浴びた航が、再びナイフを構える。片目を失った怪物は狂ったように哭き叫び、見境無しに凶器を振り下ろした。

 航は木の葉のように躱しながら、ナイフをハーケン代わりに打ち込んで、怪物の顔面に飛び掛かる。援護する湊が、精錬された美しい投球姿勢で小石を投げ、撹乱する。


 航のナイフが、怪物の残された眼球を潰した。

 その時、昴の隣で魔法陣が白く発光した。ウルだ。掌から放たれた凄まじい風圧は、倒れた木々と怪物諸共を吹き飛ばしていた。


 持ち主を失った戦斧が、空中を掻き混ぜるように回転し、地面を穿った。一瞬の静寂。片目を閉じたウルが、窺うように「やったか?」と呟いた。


 叫んだのは、湊だった。




「まだだ!」




 それが合図であったかのように、闇の奥から猛り狂った怪物の雄叫びが響き渡った。ウルの放った暴風等、毛程も効いていない。


 草木を踏み付け、地面を抉り、巨牛のひづめが一行へ迫る。ウルは苦々しく口元を歪めながら、魔法陣を広げた。


 視力を失った筈の猛牛が、真っ直ぐ航の元を目指す。

 航は猫のように身を低く構えている。彼は教えられる必要も無く、知っている。その一挙一動が生死に直結することを。だから、迷わないし、情けも掛けない。


 生きる術を、知っている。




「貸して」




 芯のある声が、微風そよかぜのように鼓膜を揺らした。

 湊は昴の手からナイフを奪い取った。


 航へ狙いを定めた怪物が、その痩躯を踏み潰そうと蹄を鳴らす。だが、昴の目には、闇の中、刃のように鋭い航の眼光が見えた。


 笑っている。


 圧倒的劣勢、絶対的窮地。己の命を失うかも知れないその瞬間に、彼は不敵に笑っている。

 この笑みを知っている。覚えている。絶体絶命の瞬間にも、起死回生の一手を探す不屈の精神。


 それは正に、ヒーローだった。


 昴からナイフを奪い取った湊が、前線へ躍り出る。

 恐怖を感じていないのか、興奮状態なのか。湊は好戦的な笑みを浮かべて、ナイフを振り上げた。

 真正面からの馬鹿正直な襲撃だ。――だが、怪物に視力は無い。加えて、草食動物の特性として、正面は死角になっている。


 武器は無い。視力も無い。冷静さを失った怪物は、目の前から飛び掛かる小さな獣に反応すら出来なかった。

 湊は掠めるように、怪物の首筋を切り付けた。


 鮮血が噴水のように噴き出し、辺り一帯を真っ赤に染め上げる。返り血を浴びた二人の獣は、氷のような冷たい眼差しでその様を眺めていた。


 怪物は血を噴き出しながら、狂ったように暴れている。湊と航は一定の距離を保った。失血し、動きを止める最期の瞬間まで見詰めていた。


 とどめを、刺さない。

 否、近付くリスクの高さを理解している。


 それは強者と弱者の逆転だった。昴は暴れ狂う猛牛を憐れにすら思った。


 怪物の断末魔が響き渡った。がくりと膝を突き、怪物は前方に傾き、ゆっくりと地面へ沈んで行った。


 湊は足音を殺して近付いた。その死体が動かないことを確認し、片手を軽く上げる。

 途端、昴は緊張感の糸が切れ、その場に尻餅を着いてしまった。


 耳元に心臓があるように、拍動が激しい。

 全く何もしていないのに、指先がじんじんと痺れていた。


 航は湊の隣に並び、何事も無かったかのように、平然と死骸の検証を始めた。昴は頼もしさと同時に、恐ろしさを覚えた。

 初めて遭遇した時もそうであったが、彼等は常人ならざる力がある。と言っても、それは魔法ではないし、精神力とも違う。


 昴は、航に首元を締められた時を思い出す。子供の筋力では考えられない程の怪力だった。そして、今、彼等は数々の修羅場を超えて来た戦士のように、勇敢に戦った。

 ヒーローの息子ならば、身体能力は群を抜いているだろう。けれど、彼等のそれは、常識の範疇はんちゅうから逸脱している。


 ウルは感嘆の息を漏らし、崩れ落ちるようにその場へしゃがみ込んだ。




って訳だ」




 能力の優劣や才能の有無ではない。彼等には、エレメントに特異点と称されるだけの何かがある。


 観察を終えた二人は、頭から獣の血を被った酷い姿だった。揃って「臭い」と眉をひそめる仕草ばかりが子供らしく、ちぐはぐな印象を受けた。


 ウルは鞄の中からボロ布を二枚投げ渡した。

 湊と航は顔を拭っている。恐怖を後から感じるなんてことも、無さそうだ。


 お気に入りの服が駄目になったと、航が憤っている。湊はリュックサックから着替えを取り出していた。




「お前等、怖くないの?」




 ウルが尋ねた。率直な疑問だったのだろう。

 弟と顔を見合わせ、湊が答えた。




「怖いよ」




 湊は汚れた服を脱ぎ、ビニール袋に押し込んだ。小さく畳まれた着替えを取り出し、丁寧にしわを伸ばしながら、何でもないことみたいに続けた。




「でも、何も出来ずに死ぬ方が怖い」




 ああ、そうか。

 その答えを聞いて、昴は悲しくなった。

 彼等の心には傷がある。尊敬する父を失い、そのことに納得していない。


 着替えを終えた湊は、何故かわざわざビニール袋の中を嗅いで、大袈裟に顔を顰めた。うへえ、と間の抜けた声を上げ、ビニール袋を厳重に密閉する。


 湊は溜息を吐いて、怪物の死骸を指差した。




「見たこともない化物なら困るけど、あれは二足歩行になっただけの大きな牛だった」

「武器を持っていただろ」

「俺なら、寝静まった頃に襲う。そういう策を巡らせることも出来ない、知性の低い衝動だけの怪物だ」




 殺すのは、容易い。

 淡々と、湊が言う。航も同意見なのか、何も言わなかった。


 だが、こんな小さな子供が、殺すなんて言葉を使う姿は見たくなかった。殺され掛けた手前、命の大切さを説くことも出来ないが。




「勉強になったよ。この世界には、こういう怪物が徘徊してる。今回みたいな奴は魔法が使えなくても倒せる。でも、そうじゃない時が来る」




 現状に胡座あぐらを掻かず、次を見据えて対抗手段を講じる。そういうところも、ヒーローそっくりだった。




「ナイフだけじゃ、心許無いね。俺も魔法が使えたら良いのに」

「……魔力は、血筋に宿る」

「才能って訳か」




 吐き捨てるように、航が言った。

 湊は魔法界の大枠を捉えたかのように頷いた。




「俺たちは逆立ちしても魔法は使えないってことだ。対策を考えないと、このままじゃ危ない」

「燃えるだろ?」




 にしし、と白い歯を見せて航が笑った。

 それは昴が初めて見る、彼等の年相応の純粋な笑みだった。


 湊は何処か大人びた苦笑を零し、ウルへ目を向けた。




「ウルさんは、魔法が使えるんだね。何か条件や制限があるの?」




 教えて?

 可憐な少女のように、湊が小首を傾げる。其処に他意は無いのだろうが、その幼い動作は庇護欲を掻き立てる。


 何なんだろう、この二人は。

 昴は空を仰いだ。溢れんばかりの星が地上を見下ろし、まるで嘲るような白々しさで輝いている。零れそうになる溜息は、騒々しい二人の質問責めによって、消えてしまった。

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