⑶幸福のかたち

 葵が職場復帰するまでに掛かった期間は凡そ一年。世間の逆風をもろに受けながら、不特定多数の他人の白い目に晒されて、それでも戻って来られたのは、ひとえにチームのお蔭だった。


 独りで腐っていた葵を辛抱強く説得し、損なわれた名誉を回復させるまでにどれ程尽力したのか分からない。通常の殺人的な業務のかたわらで、彼等は寝る間も惜しんで奔走ほんそうし、権力者に頭を下げ、世間に胡麻ごまりながら葵を社会へ認めさせた。


 自分にそれだけの価値があるとは思えなかったが、彼等は笑って出迎えてくれた。


 他人へ感謝するという初めての経験に戸惑いながら、葵は以前と同じように働き始めた。その頃には正式な職員としての肩書きも与えられ、学生時代に貼られたサイコパスというレッテルは跡形も無く消え失せていた。







 8.オリジン

 ⑶幸福のかたち








 療養の為に自宅に戻っているというヒーローから、双子の誕生会に招かれた。葵はキャリーケースをごろごろと転がして、人の波間を縫うようにして歩調を早めた。


 空港は年末年始に備えた利用客が押し寄せて、被災地のような混乱に包まれている。


 クリスマスを前に浮き足立つ人々の中で、葵を知覚する者は一人もいない。通り過ぎ様に衝突して行った若い夫婦は振り返ったが、きつねつままれたような顔をして、早足に去って行った。


 アメリカのバージニア州、ノーフォーク国際空港から飛行機で二時間半、到着した先はジョン・F・ケネデイ国際空港のあるニューヨークシティだ。高層ビルは天を衝く程に高く、時差ボケなのか頭がくらくらした。


 昔に比べて格段に治安は良くなったらしいが、夜間に一人で出歩くのは売女ばいたか薬漬けの売人、浮浪者などのアンダーグラウンドな人種ばかりだった。金品を狙って旅行者を襲う馬鹿な人種がいるが、近年は区画整備が行われ、住民の生活と収入は安定していた。


 搭乗手続を済ませた葵は、指定席に深く腰を下ろして窓の外を眺めていた。


 等間隔に点滅する誘導灯。探照光が束になって旋回し、死んだように眠る機体は鈍色に光り、嵌め込まれた窓は鏡のように反射し輝いていた。


 滑らかな稜線をなぞる旅客機には、あまり良い思い出は無い。だが、職業柄、移動手段がジェット機であったことも幸いして、昔のようにフラッシュバックに襲われることも無くなった。人間は思うよりもずっと図太く出来ているらしい。


 時期が時期なだけに、エコノミークラスのチケットしか取れなかった。他人と同席になるなんてぞっとするけれど、透明人間である自分を知覚する者などいない。


 葵はヒーローの息子が産まれた日のことや、緊急搬送された彼の姿を思い出しながら、流れ出す機窓の風景をぼんやり眺めていた。


 和輝は現在、ニューヨークのマンハッタンに住居を構えて、家族で暮らしている。同地区で救命救急医の非常勤をこなしつつ、中東の紛争地を行ったり来たりしてMSFの活動を続けているらしい。


 商業地区からタクシーで三十分程走らせると、辺りは長閑な田園風景となった。緑の絨毯じゅうたんには薄っすらと雪が降り積もり、砂利道が蛇行しながら何処までも続いている。


 時折擦れ違う人々は田舎独特の穏やかな雰囲気を漂わせ、タクシーが珍しいのか不思議そうに振り返っていた。


 蜂谷家の住居は、自然に調和した赤い屋根の一戸建てだった。学生時代からの貯蓄で建てられた家は、クリスマスのイルミネーションに彩られている。


 玄関先に置かれたサンタとトナカイのオーナメントは、あわてんぼうのサンタクロースの童謡を模してコミカルに鎮座している。軒先には寒さに強いパンジーやビオラが鉢植えの中でこんもりと花を咲かせ、白い景色の中でよく映えていた。


 界隈に比べると控えめであるのは、此処に暮らす彼等の性格故だろう。貞淑謙虚ていしゅくけんきょが日本人の美徳だとのたまう和輝は、母国を離れて五年経っても変わりない。それが何となく嬉しかった。


 葵は双子へのプレゼントを詰めたキャリーケースを引き摺って、呼び鈴を鳴らした。かじかむ指先を擦り合わせ、白い息を吐き出す。幾ばくも待たず、家の中からばたばたと走る音が聞こえた。


 あの双子はもう六歳だ。

 出産に立ち会って以来、ろくに顔も見ていない。漸くと思ったら、和輝が緊急搬送されたという非常事態だったので、感動的な再会とは行かなかった。


 彼等はどんな風に成長したのだろう。

 期待に胸を躍らせて待っていると、扉は勢いよく開け放たれた。其処に立つ小さな少年に、葵は息を呑んだ。


 柔和な笑顔、短く切り揃えた栗色の髪、奇妙な虹彩の色。葵は其処に、見たことも無い筈のヒーローの子供時代を想起させた。


 美しく微笑む少年は、正に和輝の生き写しだったのだ。葵が言葉を失っていると、少年は白い歯を見せて笑った。




「葵くんだよね?」




 母国の言葉だった。

 透明人間と呼ばれる自分を一瞬で見付け、万人が羨むような整った顔で、少年が得意げに胸を張る。葵は頷いた。


 待っていたよ、と少年が家内へ促す。

 広い玄関には女物のスニーカーと、お揃いの子供用のスニーカーが定規で測ったようにきっちりと並べられていた。


 彼等に倣って靴を並べていると、少年は銅像のように微動だにせず其処で待っていた。葵はヒーローそっくりの少年を見て、問い掛けた。




「お前はどっちだ?」




 彼が和輝の息子であることは間違いないだろうが、葵には双子の判別が付かなかった。

 少年は客用のスリッパを並べながら、やはりヒーローそっくりの輝くような笑みを浮かべた。




みなとだよ」




 蜂谷湊。

 蜂谷家の長男だ。

 和輝が緊急搬送された時に、縋るように葵へ電話を掛けて来たのも彼だ。


 客人を招き入れる様は精錬され、春の陽だまりみたいな穏やかな物腰は、最早幼児とは思えない。


 タイムスリップでも起こしたような心地で、落ち着かない。湊は気にも留めず、葵をリビングへ促した。


 扉が開け放たれると、新鮮な温かい風が吹き抜けた。大きな窓から外の光が取り入れられ、木目調の壁と床はぴかぴかに磨かれていた。吹き抜けの天井にはシーリングファンライトが回っている。壁に据え付けられた大きな暖炉だんろにはオレンジ色の炎が灯り、人々の憧れる平和な理想生活が其処にあった。


 暖炉の前に、ロッキングチェアが置かれていた。湊は歩み寄ると、其処に座る男の膝を叩いた。


 ロッキングチェアが揺れ、暖炉の炎を遮る影が踊っているように見える。立ち上がった家主は平均身長を下回る小柄な体格だった。更に小さな湊と、立派な暖炉との対比で、葵は自分が小人の家にでも来たかのような奇妙な錯覚さっかくを抱いた。


 和輝は寝惚け眼を擦りながら、葵の来訪に微笑んだ。




「待っていたよ」




 花が咲くような満面の笑みは、学生時代から変わらない。彼の周囲だけ春がやって来たかのように明るく見える。


 和輝は膝に掛けていたブランケットを丁寧に畳み、側に立つ湊へ何かを言い付けた。素直に快活な返事をした湊が鉄砲玉のように二階へ駆けて行く。

 和輝は猫のように背伸びの後、大欠伸おおあくびをした。




「あいつ等に迎えに行かせようかと思ってたんだけど、大丈夫だったね」

「お前と一緒にするなよ」




 葵は、方向音痴の和輝を揶揄やゆして口角を釣り上げた。


 先日、病院で会った時には嫌な別れ方をした。和輝は終わったことを引き摺る性質ではないが、変わらぬ元気そうな姿に安心した。


 和輝は冬眠明けの熊みたいに、のそのそとキッチンへ向かう。葵が促されるままダイニングの椅子に掛けると、和輝は湯気の昇るマグカップを二つ持って来た。


 ダイニングテーブルにブラックコーヒーを置き、和輝は葵の前に座った。先日に比べると顔色は戻り、怪我の後遺症も見られない。とは言え、あれからまだ一ヶ月と経っていない。深達度Ⅲ度の熱傷が簡単に治癒する筈も無かった。


 懐かしいコーヒーを啜り、葵は怪我の具合を問い掛けた。




「調子は?」

「まあまあかな。背中の神経は焼けちゃったから痛みは無いんだ。ただ、皮が引きる感じで気持ち悪い」




 和輝はさらりと口にするけれど、本来は入院しているべき状態だ。

 葵が苦い顔をすると、和輝は軽快に笑って、コーヒーを啜った。


 一頻ひとしきり笑うと、和輝は波が引くように笑顔を消して、問い掛けた。




「俺が搬送された時、湊が電話しただろ」

「ああ」

「お前、俺の搬送先教えただろ。あいつ等、母親に黙って家を飛び出して、二人だけで病院まで来たんだぞ」

「はあ?」

「俺が搬送されたことは秘密にしてもらっていたのに」




 空いた口の塞がらない葵を、和輝はじとりと睨め付けた。


 あの日、湊は和輝の搬送先を尋ねた。電話の後、経路を調べ、五歳の子供は二人だけで二時間以上掛かる距離を越えて来たのだ。




「あいつ等が黙って病院まで来るもんだから、警察まで巻き込んで大騒ぎだったんだ。お蔭で、呑気に入院なんてしていられなくなったんだ。黙ってて心配掛けた俺が悪かったんだけどさ」




 あの時は、生きた心地がしなかったなあ。

 和輝は呑気にそんなことを言った。




「あの年で、生きてるとか死んでるとか分かると思うか? もしも俺が天国にいるなんて聞いたら、後を追って来るかも知れない」

「そんな訳無いだろ」

「あの時は、本当にそう思った。呑気に入院もしていられないし、おちおち死んでいられない。生きてなきゃ駄目だって、思い知った」

「そりゃ、良い心掛けだな」




 葵は笑った。

 確かに二人の行動力は恐ろしいが、この男には良い薬になっただろう。


 その時、二階から小さな足音が二つ聞こえた。

 階段を駆け下りて来た湊の後ろに、もう一人の少年がいる。


 意志の強そうな眉、大きな瞳は猫のように釣り上がり、触れなば切れんと言った調子の警戒が全身から滲んでいる。薄く日焼けした湊に比べると色白で何処か儚く見える。美少年と言ってしまえばそれまでなのだが、湊が可愛らしい子犬ならば、もう一人の少年は孤高の肉食獣のようであった。


 二卵性の双子と聞いているが、和輝の面影を残しつつも、湊とは似ていない。




「似てないな」




 葵がつい零すと、湊と和輝が可笑しそうに顔を見合わせた。わたるは不機嫌そうに口を尖らせたまま、にこりともしない。


 二人が席に着くと、入れ違いに和輝は立ち上がった。背中が引き攣るのか妙な歩き方で、キッチンへ向かって行く。


 食事の用意をするらしい。家庭を空けがちな和輝は、帰宅している間、一切の家事を引き受けているそうだ。一体、いつ休んでいるのだろう。

 和輝の妻で、双子の母である奈々は出掛けているらしかった。


 調理を始めた和輝が黙ると、リビングは自然と静かになった。すると、沈黙を避けるようにして湊が口を開く。




「葵くんはどんな仕事をしてるの?」




 邪気の無い笑顔を浮かべながら、湊が問い掛ける。

 宙に浮いた両足が忙しなくぱたぱたと揺れるので、まるで子犬が尻尾を振っているようで可笑しかった。




「警察だよ。悪い人を捕まえる仕事」

「悪い人って?」

「みんなで決めた約束を守れない人だよ」




 ふうん、と湊は曖昧に頷いた。

 葵は子供が嫌いだが、目の前の少年は、文句の付けようも無いくらいに可愛らしかった。黒目がちの瞳と長い睫毛を瞬かせて、身を乗り出す。




「約束はどうやって決めるの?」

「相談と多数決かな」




 多数決、と湊は復唱した。




「お母さんは家の中を走ってはいけませんって言うけど、俺と航と親父が良いって言ったら、それは良いことになるの?」

「多数決をする前には、まず話し合いをするんだよ。走るとどうなるのか、困る人はいないか、みんなで話してから、改めて多数決を取る」

「そうしたら、お母さんの勝ちになっちゃうよ」




 親父は大体、お母さんの味方なんだから。

 湊は大袈裟に肩を竦めて言った。


 このくらいの年齢の子供がどんな話をするのか分からないが、湊は変わった子供だった。


 興味を持つ幅が尋常でなく広い上に、納得するまで調べないと気が済まないらしい。普段から両親を「なんで?」と質問責めにして、適当にはぐらかすとへそを曲げる。

 逆に「どうしてだと思う?」と尋ねられると、独自の見解を語り、正誤を求める。


 和輝が搬送された時に、その病院までの道程を調べたのは湊だった。必要と判断したことに対して努力を惜しまないというか、全力を尽くすことに躊躇いが無いところが和輝そっくりだった。


 葵が何かを問わずとも、湊は人懐こく話し掛けて来た。和輝の万人受けする人柄の良さは、湊が受け継いだらしい。


 一方で、航はむっつりと黙り、そっぽを向いていることが多かった。小さな体で刺々しい態度を取る様は見ていて微笑ましくもあるが、一体何と戦っているのかと問い掛けたくなる程だった。湊は兎も角、航がどういう人間なのか葵には全く分からなかった。


 だが、まるで正反対の二人だが、時々思い出したように全く同じ言葉を言ったり、同じ動作をする。四六時中一緒にいる為か、二人は積極的にコミュニケーションを取ろうとしない。その癖、和輝が二人に話し掛けると競うように我先にと答えようとする。雛鳥が親鳥から餌を求めてさえずるようで、何となく見ていて面白かった。


 その内に母親が帰って来て、家の中は一層賑やかになった。


 和輝の妻である奈々は非常に気が強く、双子のしつけの一切を担っているみたいに厳しかった。


 どちらかが屁理屈を捏ねると真っ向から論理的にじ伏せて、反論させない。芯の強いしっかりとした母親だ。


 叱られて言い返せずに泣き出す二人を前に、毅然きぜんとした態度で接している。かと言って常に厳しい訳ではなく、褒める時には全力で褒める。彼女なりに息子の為を思って向き合っているのだろう。


 幸せな家族だ。

 和輝は、家族以上に優先するものは無いと言った。その意味が分かるような気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る