⑵敵地

 壁に囲われた街中へ足を踏み入れた瞬間、先を阻むようにしてロキの腕が伸ばされた。昴は肩を跳ねさせた。吐き出そうとした呼気すら呑み込んで、指一本動かせない程に体が硬直していた。


 金属の擦れる冷たい音が轟いている。

 ロキは神妙な顔付きで舌を打った。外壁に身を隠し、向こうを覗き込む。ロキは不貞腐ふてくされたような顔をして、そっと言った。




「王の軍勢だよ」




 その言葉の指す意味を悟り、昴は更に言葉を失くしていた。


 王の軍勢とは、王族の常備軍の魔法使いの集団だ。昴を追って人間界まで現れ、無関係の人間を巻き込み、多くの被害をもたらした。


 昴の脳裏には、真っ白な少女のつたない微笑みが浮かび上がる。


 スピカ。

 死ぬ為に創り出された存在。彼女の哀しくも美しい姿がまぶたの裏に焼き付いて、胸が押し潰されるように苦しくなる。


 僕は、あの子を救えなかった。


 苦い後悔に苛まれ、昴は知らず目を伏せていた。ロキは暫く様子を窺っていたが、横顔だけで振り向くと、眉根を寄せた。




「どうして、こんなところにまで王の軍勢がいるんだ」




 訊かれたって、昴には答えようも無い。

 確かに、王の軍勢は昴を追い掛けて人間界までやって来た。その裏を掻くつもりで魔法界に戻ったのに、これでは意味が無い。


 他の街へ行こうか、とロキが独り言みたいに呟いた。代案も無い昴は口を噤んだまま、むっつりと頷いた。


 ロキは迷いの無い足取りで、其処此処に転がる死体や雑品をまたいですいすいと泳ぐように進んで行く。きっと、エレメントと呼ばれる彼にとっては、人間も物も大差無いのだろう。

 昴は道の端に寄って、見失わないように懸命に後を追った。


 ロキは迷いの無い足取りで、路地裏を進む。腐臭と食欲をそそる匂いの立ち込めた界隈は、まるで子供の玩具箱のように無秩序でぐちゃぐちゃだ。


 誰も死体を片付けたり、死に掛けた人を助けようとしたりしない。昴はヒーローと出会わなければ、ロキと同じように死体へ興味すら向けず、空腹を感じていたのだろう。


 腐乱した肉の塊からは骨が露出している。おざなりに掛けられたボロ布は、衣服だったのだろう。食欲は失せて、吐き気すら感じていた。


 救済を待つばかりの男、この世に絶望する子供、身を売る顔色の悪い売女ばいた。昴は牢獄にいた頃、世界はもっと美しいと信じていた。おりの外には自由で平和な美しい世界があるのだと想像することが、唯一の救いだった。


 誰が、想像しただろう。

 この世は地獄だ。祈っても縋っても、助けの手は差し出されない。誰が悪い、何を責める。其処に意味が無いと分かっていても、誰かのせいにしなければ生きて行けない。


 背後から、微かな金属の音が鳴った。

 昴が振り向くより早く、ロキが庇うように掌を広げていた。


 目の前には、白金の鎧を纏った王の軍勢が立ち並んでいた。胸に刻まれた五芒星が太陽光を反射して鈍く光っている。


 愉悦の笑みを浮かべた魔法使いが何かを口にする。腰の武器に手を伸ばした軍兵を前に、ロキの魔法陣が展開されていた。


 狭い街路を、一筋の炎が駆け抜ける。

 目の前で起こる魔法使いの交戦に、どよめく街の住人と、何も感じていないかのような伽藍堂の目をした子供。


 ロキの攻撃は軍兵の創り出した風の盾を前に四方八方へ霧散する。すぐさま、攻守が入れ替わる。複数の魔法陣から雷が雷轟と共に走り抜けた。


 既の所で焼けたロキの外套が脱げて、燃えるような真っ赤な頭髪が露わになる。その瞬間、周囲からは驚嘆とも恐怖とも付かない悲鳴と動揺がほとばしった。


 繁劇紛擾はんげきふんじょうの街路では、逃げ惑う人々と交戦する王の軍勢によって混乱を極めた。


 ロキの放つ苛烈な炎の一撃は建物を焼き払い、王の軍勢を一人、また一人と打ち倒して行く。その横顔には、舌舐めずりでもしそうな愉悦が滲んでいた。


 昴は凄まじい魔法使いの交戦を後方から見ていることしか出来ない。

 昴の魔法は犠牲を必要とする。巻き込まれるのは、逃げ惑う人々だ。ロキや王の軍勢は、彼等を無価値と考えている。まるで、取るに足らない路傍ろぼうの石であるかのように。


 ふと気が付くと、壁際に座り込んだまま固まっている少女がいた。伽藍堂だった瞳には、死を前にした覚悟と恐怖が激しく交錯し、逃げ出す気力すら失ってしまっているようだった。


 昴は交戦するロキを一瞥し、少女へ手を伸ばした。

 少女は何が起きているのかも解らないようで、焦点すら合わない。昴は構わずその手を取った。


 ロキはそれまでよりも大きな魔法陣を展開すると、口角を釣り上げて言った。




「手加減は苦手なんだ。殺しちまったら、悪いな」




 口では謝罪しながらも、其処には誠意の欠片も無い。

 王の軍勢が身構え、怯え竦んだその一瞬、ロキの真っ赤な魔法陣が発光した。途端、辺りは真っ白な光に包み込まれていた。


 逃げるぞ。

 聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で告げて、ロキは走り出した。昴も白く霞む目を擦りながら追い掛ける。後ろで王の軍勢が何かを叫んでいるが、聞き取れなかった。ただ、俄かには信じ難い魔法使いの戦闘に混乱した昴の意識を、繋いだ掌の感触だけが繋ぎ留めている。







 7.逃走劇

 ⑵敵地







 王の軍勢の追走から逃れたロキと昴は、人気ひとけの無い街路に背を預けた。懸命に酸素を取り込もうと肩で息をする昴とは対照的に、ロキは顔色一つ変えていない。

 つくづく、人間とエレメントの違いを思い知る。


 膝に手を着いて呼吸を整えようとして、昴は少女の手を掴んだままだったことを思い出す。慌てて離すが、少女は再びあの伽藍堂の瞳をしていた。


 ロキは少女を一瞥し、呆れたように目を眇めた。




「何だ、それは」




 ロキが冷たく言った。

 人間扱いすらしていない。

 少女は眉一つ動かさなかった。


 それは衝動的な行為だった。ロキの納得するような論理的な答えを返せる筈も無く、昴は口元を結んだ。

 ロキは何かを察したように、さげすむように言った。




「そいつは、魔力に恵まれなかった出来損ないだ。魔法使いが見下す無価値な肉の塊だよ」

「そんな言い方って無いだろ。あの場所にいたら、巻き込まれていたんだぞ」




 昴が言い返すと、ロキはばっさりと切り捨てるように言った。




「魔法使いにとって、こいつ等は無価値なんだよ。生きていても死んでいても構わない。この街で見ただろう。価値の無い人間は、埋葬すらされない」

「価値があるのか無いのか、それを決めるのが魔法使いだって言うのか」

「弱者は死に方も選べない」




 悔しいけれど――、ロキの言葉は、正しい。

 これが魔法界の常識なのだ。昴は人間界で、命は大切で弱者は守るものだと教えられて来た。その齟齬そごが胸の中で渦を巻き、深く淀んで行く。


 それでも、昴はその手を離せなかった。

 此処でロキに従えば、今生きているこの子の命を否定してしまうことになる。




「人に生まれは選べない。でも、生き方を選ぶ権利はある筈だ」

「それは人間界の理屈だ。その考え方は通用しない」

「何が言いたいんだ」

「人は誰しもマナの恩恵を授かっている。その能力に差異はあるが、弱者は望んで弱者になるんだ。被害者でいるのは、楽だからな」




 ロキは吐き捨てるように言った。

 真紅の瞳が苛立ちに陰る。昴は拳を握った。




「だからと言って、目の前で見なかったふりは出来ない」

「お前にそれが救えるか? いつまで、何処まで守ってやれる?」




 昴は答えられなかった。

 ロキのように制限無く魔法を使える訳じゃない。身を守る術も無い。借り物の信念を貫ける程に強くもない。


 その時、一陣の風が吹き抜けた。それはロキの赤毛を揺らし、昴の外套を払った。藍色の髪があらわになったが、気にしなかった。


 だが、その姿に過剰な程の反応をしたのは、手を繋いでいた少女だった。




「王族……!」




 途端、少女は昴の手を振り払った。

 何かに急き立てられるようにして、少女はひたいを砂地へ擦り付けた。

 深く頭を下げる少女に、昴は瞠目した。




「申し訳ございません、申し訳ございません! 私のような下賎げせんな者が、王族の方に触れる等……!」




 少女が何を言っているのか分からない。だが、壊れたように謝罪を繰り返す彼女は、昴に無礼を働いたと思ったのだろう。

 それだけで、この魔法界における王族の存在の大きさが知れてしまう。ヒエラルキーのトップに位置する魔法使いの一族。魔法界の支配者。昴は必死に頭を下げる彼女を見て、悲しい思いが込み上げた。


 そんなこと、気にしなくて良い。

 昴が顔を上げさせようとした時、その手は駆け寄った別の少年に払われた。乾いた音が木霊した。


 触るな。

 ハリネズミが針を広げて警戒するように、拒絶を込めて少年は昴を威嚇いかくする。




「あんた、王都から逃亡したって言う重罪人だろ」




 重罪人。昴はその言葉を口の中で繰り返した。

 昴は記憶が曖昧だ。あの牢獄に幽閉されていたのは、特殊な魔法構造を発現した為だと思っていた。だが、もしかすると、辺境の地にまで知れ渡る程の罪を犯していたのかも知れない。


 二の句の告げない昴の前で、少年は意志の強そうな顔付きで少女の手を取ると、路地裏の向こうへと走って行った。




「あの藍色の髪を見た?」

「指名手配中の罪人よ」

「怖いわ。あんなのがいるから、王の軍勢がやって来たんだわ」

「早く捕まえて欲しいよ」

「誰か、通報して来い」

「嫌だよ、うらみを買って報復される」




 其処此処から野次馬が顔を覗かせ、ひそひそと何かを囁き合っている。それが善意なのか悪意なのかくらい、昴にだって分かる。


 自分は、罪人なのだ。

 昴は緘黙かんもくした。


 人々が囁き合う。

 王族の落ち零れ。罪人。悪意を持った囁きは、昴の胸に痛い程に突き刺さった。

 心臓が、痛い。まるで、見えない刃で滅多刺しにされている気分だ。


 立ち止まり、二人の消えた方向を呆然と見詰める昴に、ロキは何でもないみたいな顔で言う。




「人混みの中でしか言えない文句は聞かなくて良い」




 昴は眉根をぎゅっと寄せて、背中に突き刺さる悪意を堪えようとした。


 再び外套を被ったロキに倣い、昴もその頭髪を隠す。それでも止まない人々の悪意と叱責は、容赦無く昴の胸をえぐった。




「弱者は上部で判断する。真偽を見抜くだけの能力も、判断する知性も無いからな」




 踊らされるな。乗りこなせ。

 そう言って、ロキは歩き出した。感情の無い横顔からは何も窺い知ることは出来ない。


 昴は振り払われた掌を見ていた。微かに残る手の感触と痛み。手を伸ばしたら、取ってくれるとは限らない。手を取っても、救えるとは限らない。


 その時、通りの向こうから高らかな声が響き渡った。




「見付けたぞ!」




 ロキの舌打ちが聞こえた。

 迎撃態勢を取るロキに、昴は慌ててそれを阻んだ。




「此処では人を巻き込んでしまう」




 ロキは何かを言いたげな表情だったが、後頭部を掻き、仕方が無いなと言って足元に魔法陣を浮かべた。次の瞬間、爆破による粉塵が巻き起こった。ロキと昴は駆け出して、その場を離脱した。

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