6.イデア界より

⑴認知バイアスの罠

 みんなが寝静まった夜半過ぎ、葵はノートPCを起動した。低い音を立て、ディスプレイにはお決まりのスタート画面が現れた。


 葵は、ルーティンワークのようにソフトを起動する。

 インターネットを利用したコミュニケーションソフトだ。和輝はこのソフトを好んで利用するが、葵は他人との会話は必要最低限で良かった。好きでもないツールを利用して、連絡を取る相手は限られている。


 ディスプレイに、やつれた男の顔が映る。

 霖雨りんうだった。

 仕事の休憩時間なのかも知れない。時差を考えると、向こうは昼過ぎだ。とろりと微睡まどろんだ瞳には疲労が滲んでいる。


 霖雨は元々量子力学を専攻する大学院生だったが、葵のサイコパスと言うレッテルや無慈悲な強制送還、犯罪に巻き込まれ易い和輝を見て、弁護士をこころざしたという。


 葵にとっては、恩人の一人だ。葵を自由にする為に、和輝は精神科医に、霖雨は弁護士になった。彼等は凡そ四年もの月日を費やして、悲願を達成した。


 その頃、和輝は記憶喪失であったので、霖雨は四年間、孤軍奮闘を続けたことになる。


 必要最低限の報告をしようと思った。

 少なからず、霖雨には迷惑も掛けた。




「就職する」

『おめでとう。何処?』

「FBIのBAU」

『ああ、黒薙さんのところか』




 霖雨は然程さほど驚いた様子も無かった。


 かなり異例の採用らしい。そもそも、FBIが日本人を採用すること自体がまれだ。雇うのなら、本拠地をよく知る現地人である方が都合が良い。だが、突出した何かの能力を持っている人間が引き抜かれることは事実、あるらしい。くだんの黒薙も、同じだった。


 捜査能力を見込まれた黒薙とは違い、葵は特殊な出生や経歴を買われた色物である。母国でサイコパスの認定を受けたことのある葵を、犯罪行動分析課へ招いたのは、蛇の道は蛇とか、そういう訳なのだろう。


 具体的な採用時期はまだ明確ではない。

 けれど、近い未来、葵はこの地を離れて生きて行く。


 和輝が置き去りになることが、葵にとっての最大の懸念であった。




『和輝は祝福しただろう?』

「まあな」



 それが本心であるかは、葵には分からない。

 少なくとも、葵は和輝が調子を取り戻すまでは、見守ってやろうと考えていた。




「和輝がいつに無く弱っているんだ。あいつが調子を取り戻し次第、渡米するつもりだよ」




 魔法の存在は告げなかった。葵も上手く説明出来ないし、ややこしくなることは明白だったからだ。


 霖雨は曖昧な相槌を打って、呆れたように言った。




『放って置けよ』

「放って置けるかよ」




 葵は反射的に答えていた。


 霖雨は、あの闇の中で鎖に繋がれた和輝を見ていないから、そんなことを言えるのだ。




「あいつは自己肯定感の希薄な自己犠牲主義者だぞ。自己の証明を他人に依存する弱い人間だ。放って置いたら、死んでいる」




 霖雨は不思議そうに首を傾げた。そして、あっさりと、まるで当たり前のことのように葵の言葉を否定した。




『そもそも、あいつは他者評価を必要としていないだろ』




 今度は、葵が首を傾げた。


 少なくとも、葵にとっての和輝は、自己の証明を他者に依存する自己犠牲主義者だった。

 立場が違えば、見方も変わる。同じ人間に対して真逆の評価を付けるというのは、葵には興味深い。




常々つねづね、言っていただろ。他人の評価なんて下らない。自分には自分のやり方がある。誰かの為に生き方変えて、それで本当に生きている意味があるのかって』




 確かに、そうだ。

 和輝は、誰かに評価して欲しいとは言わない。けれど、事実として、彼は自己犠牲的だ。他人の為なら、自分の命すら投げ出す。そうして自己実現出来ているのなら、悩む必要すら無かった筈だ。


 ちりちりと、顳顬こめかみあぶられているかのような嫌な焦燥感を覚えた。判断基準となる基盤そのものを誤っているかのような、根底から覆されるかのような違和感。




『あの超人ぶりを見ろよ。あいつは外国でも、宇宙でも、何処でもやって行けるよ。しかも、自己評価だけで』

「俺にはそう思えない」

『それが、の恐ろしいところだ』




 共依存とは、自分と特定の相手がその関係性に過剰に依存しており、寄り掛かっていなければ生きられないかのような嗜癖状態しへきじょうたいを指す。自分にはこの相手がいなければ駄目だと、相手には自分がいなければ駄目だと互いに思い込むのだ。


 霖雨の口調は淀みなかった。それはまるで、周知の事実であるかのような自信を持った主張だった。




『和輝は悩んだり、立ち止まったりしない。そういう人間だ』

「何が言いたいんだ」




 葵が問うと、霖雨はやや身を乗り出して、怪訝けげんそうに眉を寄せた。




『あいつはだ』




 葵の中で、何かが崩れ落ちる。

 アイデンティティ、レゾンデートル、価値観。それは足元が崩れ、断崖絶壁から奈落の底へ突き落とされたかのような恐ろしさであった。




『悪い人間じゃない。良い奴だと思う。でも、普通じゃない。アクセルはあるけど、ブレーキは無い』




 あいつは、普通じゃないんだよ。

 念を押すようにして繰り返す霖雨の言葉が、過去に自分に向けられたものと重なって醜く歪む。


 けれど、葵には、それが分かる。

 頭の中で何かが警鐘を鳴らす。自分はこの事実を、知っていた筈だ。







 狂っているのは自分なのか、それとも、和輝なのか。


 霖雨の言葉を聞く度に、目が覚めて行くようだった。二年という月日は、葵の認識を歪め、共依存の関係を作り出していた。


 葵は、ふと思い出す。

 あの闇の中で、和輝は鎖に繋がれ、酷く苦しそうだった。それは葵の存在や社会的義務、常識という名の鎖だと思った。


 彼には休みが必要だと思った。自分がいてやらなければならないと思った。だが、それは共依存の関係性が生み出した認知バイアスだ。


 望むものを見せる魔法――。


 果たして、魔法に掛かっていたのは、どちらだったのだろうか。

 あれは和輝の望んだものなのか、それとも、葵の望んだものなのか。




「……霖雨、ありがとな』

『葵がお礼を言うなんて、嵐の前触れだな』




 霖雨は笑った。それが場を和ませる為のものだと、葵は知っている。


 和輝がそういう人間ではないことくらい、知っていた。問題は、其処じゃない。自分が認知バイアスにおちいったことは、今更、仕方が無い。

 問題は、この結論に至った理由だ。


 何故、和輝が狙われた?

 本当に狙われたのは、和輝だったのか?


 葵は、いつか和輝が部屋に広げたドミノ倒しを思い出していた。それは手段であって、目的ではなかった。


 望むものを見せる魔法は手段であって、目的ではなかったのだ。あの日、葵がいなければ、別の人間がそれをした。


 葵が名乗り出た時、挙手した人物がいた。

 夜空に似た藍色の瞳をした青年――。


 その結論に至ったと同時に、葵は立ち上がった。自分は、思い違いをしていたのではないか?


 後ろから霖雨の呼ぶ声がする。けれど、葵は立ち止まらなかった。









 6.イデア界より

 ⑴認知バイアスの罠








 ソファに深く腰掛けた和輝が、何か分厚い本を読みふけっている。呼吸すら感じ取れない高次元の集中力は、必要外の情報を遮断し、目の前のものに向けられる。側でそれを眺めていた昴は、いっそ吸い込まれそうだと思った。


 リビングには昴と、和輝の二人きりだった。

 和輝はマグカップに蜂蜜ミルクを注いで渡した。柔らかな湯気を立てるそれは、見た目と同じく慈愛と労りに満ちた温かな味わいだった。


 強張った心がほどかれるような温かな心地でいると、和輝が隣に腰掛けた。その手には闇色のコーヒーが満たされている。


 切りの良いところまで読み終えたのか、和輝はしおりを挟んで本を閉じた。反動で吹き出した空気が和輝の前髪を揺らした。




「何の本を読んでるの?」




 和輝は本の表紙を見せて、柔らかに笑った。




「哲学書」

「哲学って何?」

つまんで言うと、この世の凡ゆる事象を論理的に解明しようとした学問かな。人は何の為に生まれ、生きて行くのか。善とは何か、悪とは何か。そんな話」

「面白そうだね」

「そう?」




 和輝は言い出した癖に、素っ気無い返事をした。




「哲学は難しいよ。葵は大学院で哲学専攻だったらしいから、興味があるなら訊いてみろよ」

「其処までの興味は無いんだけど」




 和輝は白い歯を見せて、少年のように笑った。




「俺の患者さんが哲学好きで、よくその話するんだ。俺は詳しくないから、ちょっとでも知識付けて話し相手になってやりたくてさ」




 和輝らしい動機だ。

 昴は息を零すように、笑った。少し冷めた蜂蜜ミルクをすすっていると、和輝が思い出したように言った。




「イデア論は面白かったな」

「イデア論?」

「そう。例えばさ、頭の中に林檎りんごを想像してみて」




 言われてみて、昴は素直に林檎を思い浮かべた。

 赤くて、丸くて、掌に乗るくらい。表面はすべすべしていて、甘い匂いがする。

 其処まで考えたところで、和輝は言った。




「昴はどんな林檎を思い浮かべた?」

「丸くて、赤くて、すべすべして――……」

「何処かに虫食いの穴や、傷はあったかな」

「……いや」

「みんなが想像する林檎は、完璧な林檎なんだ。でも、実際は虫食いの穴や傷があったり、表面も凹凸おうとつがあったりする」

「まあ、確かに」

「でも、みんなが想像するのは、いつも完璧な林檎だ。――イデアっていうのは、それが何かっていうところの、正にそのもののことなんだ」




 何を言っているのか、よく分からない。けれど、みんなは林檎というキーワードを与えられると、現実のものとは異なる完璧な林檎を思い浮かべるらしい。

 この世にあるものは、イデアと呼ばれる完璧なそのものに対する偽物なのだ。




「それぞれの完璧なそのものであるイデアが存在する世界があるという。それが、イデア界」

「イデア界……」

「天上に存在するという理想世界さ」




 既に完璧を絵に描いたような和輝が、そのイデア界にどんな思いをせるのか、昴には分からない。


 その時、ぼんやりとテレビを眺めていた和輝が世間話をするみたいに、唐突に問い掛けた。




「買い物帰りに俺が倒れた時、何があったの?」




 話の急展開に、付いて行けなかった。けれど、和輝は昴の動揺も焦燥も、何も感じていないみたいな穏やかな顔をしていた。


 昴はどう答えるべきか悩んだ。だが、結局はありのままを話した。彼の前では全ての嘘は見抜かれる。嘘を見抜くなんて、それは最早、相手の心を読んでいるも同然だ。


 和輝や葵は魔法使いではないと言うけれど、理解出来ないという点に於いては、魔法と同じだった。


 和輝は昴の話を黙って聞いたかと思うと、何故か最後に、笑った。

 とても、自分の後ろ暗い過去を覗かれた人間とは思えない反応だった。




諸々もろもろ、納得出来たよ。ありがとう」




 それだけ言って、和輝は何の説明もせずに自室へ消えてしまいそうだった。昴は慌てて引き止める。和輝は既に立ち上がっていた。




「どういう意味?」

「いや、葵が急に就職するなんて言うから、何があったのかなって思っていたんだ。しかも、俺が意識不明になった直後だろ?」




 何かおかしいと思ってたんだよ。

 和輝は邪気の無い顔で、からからと笑う。




「でも、昴の話を聞いて、納得した。あの日、葵は自分と向き合ったんだな」




 意味が、分からない。

 分からないけれど、和輝は既に正解を知っている。透明感のある眼差しが、何かの確証を持ってそう言っているのだ。


 それはつまり、――あれは和輝の望んだものではなかったのだ。


 昴は問い掛けた。




「和輝が本当に望むものは何なの?」




 和輝は答えた。




「この世は冷静な天国で、祝福された地獄なんだよ。俺は、




 和輝は、夢想しない。希望的観測は持たない。理想は実現し、障害は超えるものだと考えている。


 悩みもしなければ、立ち止まりもしない。おびただしい選択肢の中から、感情論に捉われず正解を選び取ることが出来る。


 昴には、分からない。

 和輝が悪い人間だとは思わない。けれど、同じように生きられるとは、到底思えない。


 目の前にいる和輝は、本当に人間なのか?

 ロキやウンディーネのような人間を超越ちょうえつした別の何かではないのか?

 そんな疑心が、ぷつりと胸の中に芽を出す。


 日没のように、辺りが暗くなったような気がした。昴は広大な海原の真ん中で、闇に染まる世界を見ていることしか出来ない。


 和輝は俯いて、マグカップの中をじっと見詰めている。その完成された美しい横顔は、隔離された別世界、作り物のように見えた。


 ふと顔を上げた和輝が、言った。




「何処からが、だったのかな」




 何のことだ。

 和輝は吸い込まれそうな程の集中力を発揮して、何かを深く考え込んでいるようだった。




「俺が昴と出会ったのは、偶然だったのかな。それを導いた人物がいたとしたら、その意図は何だったんだろう。俺が狙われたのは何故だ。病院が襲撃されて大勢の人が亡くなった理由はなんだ?」




 矢継やつばやに和輝が口にする。昴には答える術が無かった。和輝は答えを求めていない。まるで伝染病のように、その疑心が昴の胸に広がって行く。


 和輝は、はっとしたように顔を上げた。




「これは、




 愕然がくぜんとした声が、無人のリビングに響き渡った。葵が自室の扉を蹴破る勢いで転がり出て来たのは、殆ど同時だった。




「和輝!」




 葵の呼び掛けに、和輝がゆるゆると顔を上げる。

 耳が痛くなるような静寂の後、二人は何かを確信し、同じ言葉を口にした。




調だったんだ」




 次の瞬間、その言葉がスイッチであったかのように、和輝が顳顬こめかみを押さえてうずくまった。

 咄嗟とっさに身を起こした昴は、頭蓋を貫くような鋭い痛みに襲われた。立っていることは不可能で、和輝と同様に頭を抱えた。


 葵が駆け寄って、何かを言っている。

 けれど、酷い耳鳴りが駆け抜けて、何を言っているのか聞き取ることが出来ない。

 視界は激しく点滅し、現状の把握もままならない。


 遠くで、声がする。

 それが葵の呼び掛けなのか、和輝の呻き声なのか、記憶の中にある母の声なのか、昴には最早判別出来なかった。


 そのまま、意識は坂道を転がるようにして闇の中へと消えてしまった。

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