二十、
佑樹はそれから何度もマユミちゃんの家にトオルを説得しに行ったそうだ。僕を怖い顔で追い返したトオルも佑樹には多少心を開き、家に他人が来ることを受け入れるようになった。それから、飲み屋で客として知り合ったという看護師、さらにそこから紹介してもらった市の職員に、利用できる行政サービスを調べてもらい、ヘルパーや訪問看護師も呼べることがわかった。
佑樹はちょうど、仕事と結婚生活をいっぺんに失った時期だった。配属されたチームが激務でしばらく家を空けていたら、嫁さんが浮気をしていた。相手は佑樹が家で何度も一緒に飲んでいた大学時代の先輩で、今は佑樹の会社の取引先に勤めており、「あっちの方が稼ぎがいいから」というのが乗り換えられた理由だった。確かにその会社は大切な顧客で、しかも彼は重役についていたため、この不倫事件は社内でもなかったことにされてしまった。相手の男が多額の慰謝料も払ってくれるというので、会社に勤め続けるのがバカバカしくなってしまったのだという。
「何それ、ふざけてんな」と僕が言うと、佑樹は無言で僕の顔を見て、「最初は『あの女、ブッ殺す』って思ったけどさ」と呟いた後、くぐもった声で
「……俺も辰起みたいに頭がよければ、もう少しましな結果になってたのかな、って気もしてきた。」
僕は佑樹が心の底から傷ついたことを察し、何か気の利いたことは言えないかと考えを巡らせていると、佑樹は「まあいい」と自分で話を切り上げた。
「俺、他人についてあれこれ考える神経が抜けてるんだ。バカはバカで神様もうまく作ったもんだな。やっぱり誰かとつるむしか俺には能がないんだよ。やれることをやるしか、ね。」
佑樹がそんなことを考えていたなんて、僕は初めて知った。
佑樹はそれからも、足繁くマユミちゃんの家に通っていた。ある夜、トオルと二人で居間に座って、カップ酒を飲んでいる写真がメッセージで送られてきた。トオルの表情は相変わらず硬いが、僕が行った時より室内が片付いているようだった。十代の頃の楽しい思い出が詰まったその家で、二人はどんな思いで過ごしていたのだろうと、今になって僕は思う。
ある週末、僕は佑樹について行くことにした。いつもマユミちゃんの世話を任せているのが何となく後ろめたかったのだが、甘い認識を吹っ飛ばされた。
まず、家に着くと、引き戸の鍵が開いていたのだが、トオルの気配がない。部屋の中から排泄物の臭いがきつく漂っていて、僕たちは慌てて中に入った。
マユミちゃんはしばらく放っておかれた後であったらしく、ベッドの上でだいぶしていた。佑樹はとっさに「あいつ……」と言葉を詰まらせたが、すぐ僕の方を振り向いて、シーツを替えるから一旦ベッド脇のポータブル便器に座らせておくように言った。僕はこんな状態になったマユミちゃんを見るだけでも忍びないのに、痩せて粗相までした体を抱えるなんてとても、と泣きそうになっていたら、早くしろと佑樹に怒られた。
マユミちゃんは僕が両脇を抱えると、意外とまだ体に力があった。僕は手に排泄物がつかないか心配しながら、ポータブル便器に座らせ、手を手すりに乗せた。
佑樹はさらに汚れたシーツを僕の方に投げて寄越して、「風呂場に持ってけ」と言った。「今日はヘルパーさんが来る。運がよかったな」。僕はこれも排泄物がつかないよう恐る恐る内側にシーツを丸めて、風呂場のタイルの上に投げておいた。そして、これからどうしようか迷っていたら、引き戸が叩かれる音と「ごめんください」という中年女性の声がした。毎週来るヘルパーさんだった。
佑樹はヘルパーさんと二人がかりで、マユミちゃんの粗相の後始末をしていた。僕の視線を配慮してか、襖が閉められた(いつの間にかなくなった襖が嵌め直され、しかもきれいになっていた)。僕はふと、座卓の上にマユミちゃん名義の銀行通帳と一万円札が一枚置かれているのに気がついた。通帳を見てみると、前の日の日付で五万円が入金されており、それもすぐに引き出されていた。トオルは一枚だけ残していってくれたらしい。
佑樹によれば、トオルと最後に会ったのは先週、カップ酒を飲み交わした夜だったそうだ。その時は思い出話に花が咲き……そしてトオルは泣き出した。佑樹はその時、酒が回ったせいだろうと軽く考えていた。
だがこの時トオルはすでに携帯電話も通じず、LINEもブロックされたのか既読がつかなくなっていた。佑樹は黙ってスマホを睨みつけ、すぐに僕の父に連絡して、その日のうちに鍵を新しいものに交換してしまった。何を思っていたかはわからないが、僕を帰らせると翌日には嫁さんと暮らしていたマンションから荷物を運び込み、生活の拠点を移していたようだ。「古いけどだいたい何でも揃ってるから、初期投資の要らない引越し先でよかったよ」と後でメッセージが来た。この日を境に、佑樹は腹が据わったのだろうか、何かが変わった。
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