十八、

 隣の部屋との間にあった襖が、穴だらけの、しかも一枚だけになっていた。襖の敷居を越えてすぐのところに、「トオル」さんのものと思われる布団が敷いてあった。掛け布団の上にフリースの上着が無造作に脱ぎ捨てられ、汚れたリュックサックからスマホまですべてが枕元に集められ、まるで彼がマユミちゃんの世話をするために築いた巣みたいだった。

 僕はその中に、「イケダマユミ」名義の銀行通帳を目ざとく見つけてしまった。なぜか動悸がした。震える指で拾い上げ、素早くページをめくった。

 毎月、父の名義で数万円入金されているのが確認できた。カスミ叔母さんの名義も、二、三箇所見つけた。だが、どちらもその日のうちにATMからほぼ全額引き下ろされていた。残額は、三日前に記帳されたものが最後で243円。

 マユミちゃんの排泄を介助していたトオルが、僕の動きに気がついた。彼は僕の手をバシッと払うと、一撃で通帳を取り戻してしまった。

「勝手に人の通帳見ないでもらえる?」

 僕は思わず「すみません」と言って、それから「……でも、ここ確か僕の父の名義になってる家なんですよ、あなたどうして」と情けなく付け加えた。

 急に権利意識を振りかざした僕を、男はしらっと見つめ、それから「マユミがこの家に入れてくれたんだよ」と言った。

「……じゃ、」僕は声を絞って言った、「これからあなたが、この叔母……マユミの面倒を、ずっと見てくれるんですね!?」

 トオルは一瞬狼狽し、それから「うっせーな」と僕にティッシュの箱をぶつけてきた。僕は彼を一層怒らせたようだ。僕はマユミちゃんの方をちらりと見た。一瞬不安そうに眉をひそめたが、また消え入りそうな、だがしっかりした声で「トオル」と呼んだ。僕はそれで、この二人の力関係を理解した。焦点が合わなくなった目でそれでもしっかりこちらを見ようとしたマユミちゃんに、これ以上むごたらしい光景を見せるのが忍びなくて、僕は廊下を這って慌てて退散した。しばらく掃除がされていなかったのだろう、ねっとりした汚れが手のひらにつき、古い床板のささくれが人差し指に刺さった。しかし僕はそんなことに構っているどころではなく、そのまま外に出て車のキーを解除し、ハンドルを取った。涙がこぼれた。

 僕はそのまま車を走らせ、ホームセンターに行って慈の欲しがっていた本棚を探した。LINEで写真を送ったら、病院に行っていた慈はもう少し背が高いのがいいと返信してきた。僕は慈の毎月買っている声優雑誌、それにたくさんあるキャラクターのぬいぐるみの一つを持って、ちゃんと収納できるサイズの本棚を探し回った。

 家に帰り、僕はふと、父はマユミちゃんの現状をどこまで知っているのだろうかと思った。もし知らないのであれば、僕が今日見聞きしてきたことを聞いて、ショックを受けるのではないか。

 僕は延々悩んだ。そしてこんな時に頼れるのは他にいないと思って、佑樹に電話した。

 何度かの呼び出し音の後、佑樹は「辰起ぃ?」と少し酔っ払ったような声で出て、笑い声の中から静かなところに移動する気配がした。今夜もどこかの飲食店で飲んでいるらしい。

「そうか、もうそんなに進んじゃったのか」、僕の話を聞いた佑樹はしみじみそう言った。

「俺の結婚式の頃から体調を崩していたんだ、それに変な男が一緒に住んでるって伯父ちゃんから聞いてたしな……だけどまさか……」

「父さんは知ってたんだ……どうしよう、今日俺が見てきたことを言っておいた方がいいかな?」

「やめとけ、余計に心配させるだけだ。伯父ちゃんはマユミちゃんのことについて今まで誰にも助けを求めなかったんだから。」

 僕は急に泣きたくなって、情けなく「どうしよう」と佑樹にすがった。そんなことをするのは初めてだった。すると佑樹は「俺は最近伯父ちゃんとよく飲んでるんだ」とこんな時なのに何だか楽しそうに言った。

「今度の土曜にこっちに出てくるそうだから、その時に話しておくよ。それに、俺も手伝えることがあるかも知れない。これから時間も自由になるし。」

「……え、自由?」

「あー、俺、会社辞めることにしたわ。」

 僕は絶句した。せっかく入った商社を?だが僕の反応はお構いなしに、佑樹は「その話は後で。今は今後のための大事な時なんだ、じゃ、切るぞ」と話を切り上げてしまった。

 僕は呆気にとられて携帯電話を握りしめ、そして佑樹に伝えそびれてしまったことにようやく気がついた。

「俺、子供ができたんだ」と。

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