二章 音無しの夢
一
あの人に思いを告げたのは、もう手の届かない所まで行ってしまった後だった。
あの人が亡くなった激しい雨の日と同じ、バケツをひっくり返したような大雨の日に一人で墓参りに行った。拙い言葉ながらも伝えてみた。誰も答えちゃくれなかったけれど。
あの人は本当にうるさくて意地汚くて自分勝手で、誰よりも明るくて聡明で美しくて綺麗で、それでいて。
俺じゃない人を真剣に愛していた。
最初はなんであんな奴なんか好きになるんだと思っていたけれど、確かにあいつは優しくて謙虚で真面目でいい人だ。作る曲も奏でる音も天才的で絶対に追い越せないと思わされた。
だからこそ、あいつからあんな電話がかかってきた時は死ぬほどムカついた。
ただでさえ愛する人を失って辛いであろう時期にきつい言葉を浴びせてしまうほど我を失っていて、時間差で謝ったけれど、あいつはそれすら許してくれて逆に謝ってくれるほどのお人好しだ。
思い返せば返すほど腹が立つ。
大好きな恋人が亡くなったっていうのに代わりの女引っさげて音楽やろう!なんて誰が同調してくれるというのだろう。
もっと何年もクヨクヨしてウジウジして悩んで泣いて立ち直れずに何も出来ずに……………とか。
何故あんなにあっけらかんと出来るのだろうか。
最近はずっと入院生活だったから部屋にいなくても違和感が無いのかもしれない。まだ死んだ事実を受け入れられていないのか…?
なんて、無駄な事でグルグル頭を働かせる。
俺はずっとずっと、この瞬間まで苦しいってのに。
あの人の歌が頭から離れない。一緒にステージに立って、俺のドラムから始まる音楽を、強めに引っ張ってくれるあの人の事が忘れられない。
最近はやっと動く気になったけれど、あの人が亡くなって数日は授業に出られないどころか、自分のベッドから動けなかった。
付き合ってもない、ただ恋焦がれて一方的な思いを抱いているだけのくだらない、まだ何も知らないような子供が。
こんなに苦しい思いをしているのに、あの人の1番近くにいていとも簡単に愛されていたあいつが。
あの人のことを忘れようとしている。
本当はこんなことを思ってはならないのだろう。
早く忘れて自分の新しい人生をスタートさせるのが一番良い事なのだろう。
だが俺の中のモヤモヤした感情はそれを許してはくれなかった。
気づけば夜は更け、時計の針は1時を指していた。
空腹を我慢できずヨロヨロと冷蔵庫に駆け寄る。
何かないかな…と軽く食べ物を漁っていると後ろでドアが開く音がした。
「お兄ちゃん?」
振り返ると、パジャマ姿の弟が眠たそうに目を擦っていた。
「
「ううん、お腹すいちゃった…」
「俺もだ。カップラーメン食べるか?」
そう言うと優希は嬉しそうに返事をした。
給湯器のボタンを押し、水を沸かす。
「お兄ちゃん疲れてそう…大丈夫…?」
優希が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「ちょっと眠れないだけだ」
「もう無理ー!ってなったら僕も働くよ!」
「ははは、優希は小学生だからまだ早いかなあ」
無邪気な弟の笑顔に絆される。
離婚して親権を勝ち取った父親と別居を初めて数年。初めは養育費を振り込むと調子のいいことを言っていたあいつも、今では一切金も連絡も寄越さなくなった。
その為、家賃も学費も生活費も自分の分と弟の分を稼がなければならない。毎日のようにバイトに明け暮れ、勉強する暇も休んでいる暇も趣味に使う時間も無い。幸い、最初に振り込まれた金額が大きめだったので貯金に回し、少しづつ切り崩しながらギリギリの生活をしている。
俺にとって、家族と呼べる人はもう弟しかいない。
目をしょぼしょぼさせている弟をしばし眺めていると、給湯器から陽気なメロディが流れ出した。
用意していたカップ麺にお湯を注ぐ。
「熱いから気をつけて」
「ありがとう!」
優希は心底嬉しそうにカップ麺を受け取る。
自分の分のお湯を入れ、キッチンタイマーを操作し時間を設定する。
「まだかなー」
「今お湯入れたばっかりだよ」
「固くてもいいから早く食べたいのー」
カップ麺の蓋をパジャマの袖で押さえながら、じーっと見つめる優希。
「お兄ちゃん歌って」
「歌?」
「いつも流してるやつだよ、綺麗なお姉さんが歌ってるやつ」
優希は目をキラキラさせながら俺を見てくる。
"綺麗なお姉さんが歌ってるやつ"は、バンドをやっていた時の叶多さんの歌だろう。
珍しくバラードを録音した時のものだ。
ふとタイマーを見るとあと2分程だった。
仕方ない…と腹を括り最初のメロディから歌い出す。
"~~この感情に名前はつけない
浸かる程度が心地良い"
最初のサビのフレーズが終わると、タイマーがピピピピと鳴った。
「すごいすごい!お兄ちゃん!」
カップ麺の存在を忘れて、優希は拍手をしてくれる。
「ありがとう」
「お兄ちゃんの歌好きだなー!なんで歌わないの?」
「歌の担当が埋まってたからね。俺はその人の歌が好きだったし、後ろでサポート出来るだけで良かった」
「そうなんだーでも勿体ないね」
「そんなこと言ってくれるのは優希だけだよ、ありがとう」
そう言って頭を撫でてやると、優希は恥ずかしそうに俺の手を押さえながら言う。
「お兄ちゃん大好き」
にひ~っと子供らしい笑顔で言う優希が、世界の誰よりも愛おしく思えた。
もうあの人は、この世にいないから。
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