日だまりの彼

朝。

僕はいつも、ホームルーム開始のチャイムが鳴る数分前に教室に入るようにしている。他の人間に紛れ、できるだけ教室に居座らないようにするためだ。

教室に入ればいつも通り机の上には花瓶があって、数人が怯えた目で僕を見る。怯えた目をしている人間が恐らくその日の«当番»なのだろう事は、このクラスになって数日で分かった。

そんな顔をするくらいだったら、やらなければいいのに。こんな安い精神攻撃が効かない事くらい、2ヶ月も経っているのだから分かってほしいものだ。いちいち避けるのも面倒くさいが、直接暴力を振るわれる“いじめ”よりなら数百倍マシというものである。


僕の直後に、石井零士はやってくる。いつも僕に何かと話しかけてくる、席が近いだけの男。彼は明るく語り掛けてくるが、僕は無視をする。

それがいつもの日常。

何も変わらない。けれどある意味では平穏な日々。


「すいません!!!遅刻しました!!!」


ホームルームが始まった30秒後に飛び込んでくるのは、転校生だ。

担任が軽い口頭注意で済ませ、周囲からは小さな笑いや「またかよ!」という野次が飛ぶ。

恥ずかしそうに頭をかきながら座る転校生。ここ最近ではお決まりの光景である。


隣人となった転校生は度々僕に話しかけてこようとしてきたが、無視にならない程度に避け続けた。

クラスの人間とほぼ数日で打ち解けた様で、彼は自然とクラスの輪に入っている。ように思える。

実際の所どうであるかは分からない。知る由がないのだ。

僕はホームルームと授業、それから掃除以外の時間は、ほとんど人目の付かない屋上で過ごしている。

だから彼がクラスメイトとどう過ごしているか、僕は知らない。


けれどそれでいい。

陽だまりの中にいる人間を、僕のせいで日陰に追いやることになったらと思うとぞっとする。

ただ、今は僕に与えられた平穏を享受するべきだ。いない者として扱ってくれるなら、それでいい。どうかこのまま、何事もなく日常を送ることができますように。


だが、そんなささやかな僕の願いすら、神は聞き届けてはくれなかった。



それは唐突にやってきた。


いつも通り屋上で、家で握ってきたご飯をほおばる。すっかり固くなった米を咀嚼しながら、その日はアガサ・クリスティを読んでいた。

アガサ・クリスティと言えば灰色の脳細胞を持つ名探偵が代名詞かもしれないが、僕は彼女の書く安楽椅子探偵が好きだった。

推理小説では、ほとんど必ずと言っていいほど人が亡くなる。登場人物は誰しもがその“死”と向き合うのだ。だからこそ、そこには死に対する『やりきれなさ』が存在する。

その『やりきれなさ』。あるいは『痛ましさ』は、僕の喉の奥にある異物とたまに混ざり合った。そしてその異物が『推理小説による痛ましさ』なのだと考えると、幾分か心が楽になる。

屋上に僅かに存在する日陰と、そんな『痛ましさ』に身を寄せながら、僕は静かに米を食んでいた。


「あ、やっと見つけた」


そんな平穏を壊す声に、僕は思わず身を固くする。

だが、本から顔を上げず、平静を装って文字列を追い続けた。さっぱり頭に入ってこないままページを繰る。

そんな動作を続ける僕の元に、声の主は靴音を鳴らしてやってきた。


「えっと……。美月……」

「……」

「あれ?……美月だよな?」


壁に背中を預けて座る僕の前に、彼がしゃがみ込んでくる。

少しでも視線を上げれば彼の顔は目に入るだろうが、極力それは避けたかった。


「……ごめんね」

「え?な、なんだよいきなり?」


僕が本に目を落としたまま口を開けば、相手は素っ頓狂な声を上げる。数日前にやってきた転校生の声は、もはや聞き慣れたものだ。

僕は紐状の栞を手繰って本に挟みながら、ゆるゆると首を振る。


「僕には話しかけない方がいいと思うんだ。……君まで避けられるよ」

「避けられる?なんで」


そこで僕は顔を上げた。正面にしゃがむ彼は陽だまりの中でじっと僕を見つめている。

思わず息を飲みこむが、彼の瞳に捉えられた僕の視線はもう外せない。


「何でって……。僕の事、他の皆から聞いてるだろ」

「何がだよ?」

「いや……僕の……」


父親の事を。殺人者の息子である事を。

明確に言葉にする事など容易いはずが、何故か口の中で声が詰まった。


「俺、美月君のこと探してたんだよ」


まごついた僕の返答を待たず、彼はそう言う。ふと上げた視線いっぱいに、楽しげな彼の笑顔が広がった。

誰かの目を見て話すなどいつぶりの事なのだろう。いや、目を見て話すどころか会話すらままならないのが僕の常だ。近頃は母親とすら話をしていない。

久しぶりの会話に戸惑うばかりで、僕は「探してた……?」と彼の言葉を繰り返す事しかできなかった。


「前から話してみたかったんだよな。隣の席なのに全然話した事ねえじゃんか。な、推理小説好きなんだろ?」

「えっ」


何故それを。と続けそうになって、必死に飲み込んだ。

本には常にブックカバーをつけているはずだ。僕が読んでいる本が推理小説だとバレないように。

今ここで声を出せば、僕が推理小説を、『殺人』に関わる本を読んでいる事がバレる。

そうすれば、どうなるのだろうか。怯えるのだろうか。他の皆と同じように。

それは、僕の本意ではない。

ぐ、と自分が本を持つ手に力がこもった。彼はそれを見止めたのか、苦笑を浮かべて僕に笑いかけてくる。


「あー、いや、その。……盗み見たのは悪かったよ。俺、昔っから目が良くて。けどこの前美月君がエラリー・クイーン読んでたの見えて、うわ、そこ読んでる人いるんだと思ってうれしくなってさ」


まるで言い訳のように捲し立てられたその内容を、一拍置きで把握する。


――日向の彼は、まさか自分と話をしに来たのか?


咄嗟に立ち上がった。視線を落とせば、しゃがんだまま僕を見上げる彼が、口を開けて目を丸くしている。


「ごめん」


言いおいて歩き出そうとした僕の腕を、彼の手が掴んだ。


「ちょ、おい!そんな逃げなくたっていいだろ!?」

「でも」

「え?推理小説好きって訳じゃねえの?それともそういう話するの嫌い……とかか?」

「いや……そりゃ嫌いじゃないけど……」

「そうか!よかった!なぁ、エラリー・クイーン好きなのか!?俺『悲劇4部作』好きでさ!」


呆気にとられた僕の腕をあっさりと離し、彼はエラリー・クイーンだけではなく、森博嗣が、東野圭吾の名作がと目を輝かせて話を始めてしまった。

完全にその場を去るタイミングを計り損ねた僕は、あぁ、とか、うん、とか、へどもどな返事しか返す事ができず、視線を宙に彷徨わせる。


「……って、悪い。……やっぱ迷惑、だったか?」


だが、熱を持って僕に語り掛けていた転校生は、僕の反応を見てすぐに口を閉ざした。

1人で長々と語る趣味はないらしい。彼は恐らく本当に推理小説を語れる人間を探していただけなのだろう。

それがたまたま運悪く僕しか見つける事ができなかった。それだけの話なのだろうか。


「僕は迷惑じゃないけど。……でも、僕の方が佐々木君に迷惑かけかねないから」

「いやいや、俺が話したくて探してたんだから、迷惑な訳ないだろ」

「でも、僕と話してたら、クラスの皆に冷たくされるかもしれない」

「はぁ……?マジで意味わかんねーな。じゃぁ、そん時は美月君が俺の相手してくれよ」


そう言って転校生は膝を伸ばし立ち上がる。昼間の日光を浴びた彼は、口元を吊り上げて僕に笑顔を見せた。


「な、美月君が好きな推理小説とかないのか?」

「え、……僕?」

「あぁ。ほら、何か俺よりずっと小説読んでそうだったし、おすすめとかあればさ!」


屈託のない笑顔だった。

先の反応を見る限り、僕の事をクラスの人間から聞いていない訳ではないのだろう。ただ彼は、僕の父親という存在を完全に僕から切り離していた。それだけの話で。


「……僕は」


今まで、僕に好奇心で近づいてきた人間は少なからずいた。僕に優しくすることで、自身の優しさを誇示しようとする者もいた。

けれど、それらが見ていたのはあくまでも『殺人犯の父親を持つ美月一義』だ。


「『容疑者Xの献身』が好き……かな」

「うっわ、分かる!!やっぱお前分かる奴だった!!」


興奮気味に人差し指で僕を指し、直後「やべ、うっかりお前とか言っちまった」と慌てふためく。

やはり彼は言葉を選ぶことが苦手なのだろう。けれど、それを悪し様に思う事はない。

口から言葉が滑り出した今でも、まだ半信半疑だった。本当に、僕個人に対して好奇心を向ける人間が存在する事があり得るのか。

だがこの場で、この瞬間に答えが出る事はない。

例え裏切られたとしても。目の前で笑う彼がやはり『殺人犯の父親を持つ人間』に興味があっただけだとしても。

それでもかまわないと思えた。

あの不気味な異物が少しだけ薄まる。この感覚を、もう少し留めていたかったから。



そうして僕と彼が共に行動するようになって更に数日後。

珍しく彼が僕より先に席について、その日は確か『アヒルと鴨のコインロッカー』を読んでいた。珍しいな、と思ったのを覚えている。


僕の机の上に、花瓶はなかった。

遠巻きに僕を見る視線の中、先に座っていた佐々木幸平が、僕を見て笑ったのだ。


「よ、おはよ」


小さく挨拶を返し、席に座る。

足元が少しだけ砂利ついた。


その日以降、僕の机の上に花瓶が置かれる事は無くなった。

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