第16話 貴族令嬢VS上野 ラウンド2

「また上野? わたくしああいう薄汚れたところにはもう参りたくありませんのよ」




 燕湯


「う゛あ゛あ゛あ」  


 壁面には、雄大なる富山の立山が描かれていた。その横には今は貴重となった富士山の溶岩石によってつくられた岩山がある。

 そして、客の居ない湯船、うなり声がある。


「う゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁ……」


 湯船の中には美しい女がいた。陶器のように白い肌は赤くなり、優雅な輪郭は堅く食いしばれたことにより歪む。目を閉じ、ただずっと唸りながら湯船に肩まで使っている。


「あ゛あ゛あ゛ぁ……」


 貴族令嬢マリーは現在47度の熱湯風呂に肩まで浸かっていた。

 

 ここは上野有数の老舗銭湯である燕湯だ。まるで昭和時代のドラマのセットそのままな店構えとその内装は見るものを圧倒する。

 

「この銭湯は五十度近い都内有数の熱湯風呂が名物ですわぁぁ……煮込まれていくモツ煮になつた気分……」


 燕湯の湯船温度は最大50度にも達する。いかに貴族といえどそう長く耐えられる温度ではない。


「限界が見えたら熱湯風呂から脱出!」


 豪快に湯船から立ち上がる、マリーの均整の取れた体。そのままシャワー場へ歩く。

 栓を押した。


「そのまま冷水シャワー!!」


 燕湯に水風呂はない。ザバザバと、冷水シャワーを頭から浴びながらマリーはゆっくりと息を吐いた。


「ふぅぅぅ、自律神経が整っていくぅ……」


 △ △ △


「銭湯上がりのコーヒー牛乳はなぜこんなにも美味なのか……」


 一糸まとわぬ全裸で腰に手を当ててコーヒー牛乳を飲む。扇風機の風を全身に浴びながら、タオルをスパンと肩に当てて担ぐ。まるでギリシャ彫刻の如き優雅な肉体美。

 マリーは銭湯の作法を完全に習得している。

 

「燕湯は銭湯でありながら国指定登録有形文化財。まさに貴族にふさわしい伝統の風呂でしたわね……御徒町駅から降りて来たかいがありますわ」


 今日は、上野を満喫するのだ。


「さあ、待望の十万円が給付されましたし、今日は貴族らしく昼風呂から上野を悠々と楽しみましょう」


 十万円が来た。耐え難きを耐えた、その報いが今。


「これぞパーフェクトプラン……!」


 その前に、服を着ろ貴族令嬢。


「まあ色々支払いで十万円もそれほど残っていませんが……まずこざっぱりとしたところで」



 △ △ △



立ち呑みカドクラ


 時刻は午前11時。数人の先客が卓を囲んでいる。ビニールシートが張られた店先を潜り、マリーはキッチン受付を目指す。


「始めはここですわ……ハイボール、ハムかつ、あと牛すじとキムチお願いしますわ」


 注文し先に会計する。本来ここはキャッシュオンデリバリーで商品と引き返しに会計する方式だったのだが、コロナの流行で先会計の券で呼び出すやり方に変えたそうだ。


「あいよーはいまずハイボールと牛スジ!」


 酒と煮込みはすぐに出てきた。マリーは風呂上がりの乾いた喉へ、迷うことなくハイボールをぶち込んだ。


 ゴキュゴキュ


 呑む。

 

 ゴキュゴキュ


 呑む。呑む。呑む。


 ゴキュゴキュ


 呑む。呑む。呑む。


 ズゾゾゾ


 そして底にある酒をすする。


 やがて、マリーはジョッキから口を離した。


「……ああああ!! 四日ぶりの酒は美味すぎですわこりゃあ!!!! SAN値すり減るぅ!!」


 令嬢は狂おしいほどに渇いていた。


「ハイボールおかわり! 濃いめで!」


 またもカウンターで注文、酒と引き換えに会計して席に戻る。ついでにハムカツとキムチも持ってきた。


「カドクラは焼き肉屋大昌園の系列…肉系のつまみに外れない、当然ハムかつは美味……!焼き肉屋ということでキムチも外れがないですわ!」


 ムシャムシャとむさぼりながら、さらにハイボールを傾ける。もういくらでも入っていきそうだ。

 

「やはり日が高いと飲む酒のうまさも倍に感じますわねぇ!!」


 グビグビと呑む。呑んで食う。その開放感、プライスレス。


「というか酒はやはり昼から呑むもんですわ! むしろ夜呑むほうが不健全!!」


 貴族令嬢の倫理観は一般人と少々異なっていた。貴族なので仕方がないことなのだ。


「しかし、アルコールやシートがペタペタ垂れ下がってはいますけれど、確実に人は店に戻ってきていますわね……」


 店にはいる時も検温してアルコール消毒をさせられた。飲食業としてはクラスター発生源となっては致命的になるかもしれないので必死になるのは仕方ないことなのだが。


「少しずつでも、いつもの日常が戻って行くのは嬉しいものですわ」


 グビグビと、ハイボールを呑む。


「酔っ払いがいない上野なんて米のないチャーハンのようなものですわ」


 貴族令嬢の上野観は偏っていた。


 △ △ △


肉の大山


 店先の立ち飲みスポットを抜けてやや薄暗い店内へ。検温とアルコール消毒を済ませて、マリーはカウンター席に着座する。


「大山盛り合わせスペシャルランチ一つ、あとは生ビール。それと特製メンチ二個。ライス無しで」


「はいわかりましたー」


 肉の大山、前回の上野ではここの立ち飲みスペースを利用した。だがここもまた上野老舗の一角。店内のレストランメニューも当然侮り難い。


「二件目はここですわ。大山はランチのコスパが抜群ですの。肉屋ならではのパワーあふれる肉洋食の味わい……堪能させてもらいますわ」


「はいビールとメンチカツ!」


 まず即座に運ばれる酒とメンチ。流れるような手つきでマリーはまずなにもつけずにメンチをかじる。


「そして飲む!!」


 ザクッとした衣、弾力ある肉。旨味。それらをビールの濁流で流し込む。


「荒々しい快感!!」


 いくらでも呑める。呑めてしまう。


「店先での立ち飲みも乙ですが、こうやって座って落ち着いて味わうのも良きものですわ。……店先の立ち飲みスペースにサラリーマンが結構いますわね。そりゃこんなの見たらこらえきれませんわ」


 これもまた上野の良き光景。酒と飯を分かち合う限り、人はみな優しく平等でいられる。日の高いうちから呑む酒は、この世から争いを無くすのだ。


「はいスペシャルランチー」


 運ばれる皿。肉の大山名物の一つ。


「さあ本命ですわ……!」


 サラダ、そして数々の肉料理がマリーを迎え撃つ。


「特選スペシャルランチはミニステーキ、ミニカツ、ミニハンバーグ、骨付きソーセージ、エビフライにポテサラという豪華な布陣。まさに大人のお子様ランチなのですわ」


 お子様ランチ。様々な種類のワンプレートだ。色々な料理を一度に楽しめるというワクワク感は、教育と修養により成熟した精神を持つ貴族令嬢でも抗い難い。


「目移りするような殿方たちを前によりどりみどりな一時……まずはステーキ! 肉のうまさを上品に噛みしめますわ!」


 ナイフで切ったステーキを口に運び、かみしめる。小さくても肉質は確か。


「ハンバーグにエビフライ、箸休めにポテサラもつまむ……洋食オールスターズで最後の最後まで食べる人間を楽しませてくれますわ、なんてエスコート上手な紳士達。……」


 フォークとナイフが止まらない。そして瞬く間にビールが空になる。


「生ビールおかわりお願いしますわ!!」


 高々と、貴族令嬢は空のジョッキを掲げた。


「ランチをつまみに酒を呑む、この背徳感が私を燃え上がらせますのよ……!」



 △ △ △



「ふぅーやはりランチの満足感で少し満腹になってきましたわね」


 アメ横から上野駅へ歩きながら、マリーは腹をさする。なかなかの充足感だ。


「しかしどこも平日の昼間から呑む人間ばかり……結局元の上野に戻ってますわね」


 さもあろう。コロナと言われても日常の喜びを捨てることなどそうはできない。


「花見もろくにできない3ヶ月分のストレス、みなさん発散できる時をまっていたのかしら。……次の店どうしよ」


 貴族令嬢は迷っていた。


「うーんと、ひさしぶりに上野来たらアレ食べようとか思ってても、いざ来たら忘れてしまっている……」


 なかなか思い出せない。


「いやですわね老化かしら」


「えーと、あ、そうだあれだアレ」


「牛丼ですわ」



 △ △ △



牛の力


「牛力丼、白一つっと」


 マリーの細い指が、食券の画面を押す。


「牛の力は国産牛、高級醤油を使ったハイエンド系牛丼が売りの店。三大大手牛丼屋を除いた言わば個人店インディーズ系牛丼屋でもかなりの有名店ですわ」


 細長いカウンターのみの構造の店内。その椅子に腰掛ける。食券を出す。しばしの間の後、おまちかねの丼が来た。


「はい牛力丼白お待ち!」


 褐色の煮込まれた薄切り和牛の上に、温玉とバター、そして海苔が彩る。


「白は牛丼にバター温玉ノリをトッピングした代物。私はこれに卓上の丸ニンニクを」


 テーブルにあるにんにく絞り器、そこに丸ニンニクを入れ、マリーそれを両手で持った。丼の上で構える。


「絞る……!」


 ギュウウウウ


 絞り器から、粉砕されたニンニクが飛び出す。


「もいっこ絞る……!」


 丸ニンニクをもう一つ装填し、絞る。


 ギュウウウウ


 絞り器から、粉砕されたニンニクが飛び出す。


「もう一個、力を込めて…!」


 丸ニンニクをもう一つ装填し、絞る


 ギュウウウウ


 絞り器から、粉砕されたニンニクが飛び出す。


「くたばれ、くたばれ消費税……!」


 憎しみとは力である。


 やがてニンニクマシマシな牛丼を混ぜる。溶けるバター、絡まる半熟。にんにくの芳香。


「そしてかっこむ……!」


 ガツガツと、マリーは牛丼を胃にぶちこんだ、


「国産牛の柔らかさ……バターの背徳感…そしてニンニクぅ! 他では食えない牛丼ですわ!」


 パワー。まさにパワーを今マリーは食らっている。生き抜くためのパワーだ。


「……ふぅー、汁物も味噌汁ではなくお吸い物なのも高級感を演出していますわね」


 吸い物を飲み、ようやく人心地つくマリー。やはりこのハイクラス牛丼はいつ食べても満足感が素晴らしい。


「うー満腹ですわ…」


 △ △ △


「ありやとやっしたー」


 店員に見送られ、マリーは店を出る。眼前には上野広小路口。多くの人間が行き交っている。


「ふぅーひさしぶりの上野にはしゃぎすぎてしまいましたわね……貴族たるものいつまでもこんな風ではいけませんわ」


 満腹から自己を反省する余裕が生まれる。常に自己を振り返る慎ましさが貴族に必要なものだ。


「……中断してた就職活動再開しませんと。YouTuberになれないかなとか現実逃避してる場合ではありませんわ」


 戦わないといけない現実は、まだまだある。


「でも、その前にもう少し楽しんでもいいですわよね。

ちょっと神保町まで腹ごなしに行ってみましょうか……」

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