Good night.



     ◇



 私の通うガスト魔術学院は、やたらと歴史が長い。その気位きぐらいの高さ故の伝統と格式を重んじる校風には、王宮実家ともまた違う窮屈さを少し感じることもあるけれども、概ね私はこの学院が気に入っていた。


「えーっと……たしかここら辺に……」


 私が学院ここを気に入っている理由。それは、正直なところ、9割がたこの大きな図書館が占めていた。


 堅牢な建物が並ぶ敷地内でもとりわけ立派なこの図書館は、国内でも有数の蔵書量を誇る。私は言うほど本の虫っていうわけでもないんだけど、それでも人と話さないで済むこの空間は気楽でいい。


 ここ数日、かつてないほど人から声を掛けられて疲れていたのだろう。仰々しい石造りの館内がつくりだす無機的な静けさと、つんと冴えた空気に包まれて、心が落ち着きを取り戻していくのがわかる。


 ……このところの私の憂鬱の源泉たるリオンのことについて、ちょっと話しておこう。


 入学式以降の彼は、意外にも非常に真面目に授業を受けていた。授業中から休み時間まで、私の背中が熱い視線に灼かれるのを感じる瞬間は多々あれど、人目をはばからず私に襲い掛かるつもりはないらしい。


 イケメン編入生としてすっかり時の人となった彼のもとには、ひまさえあれば人垣が築かれていた。


 別にそのこと自体はどうでもいい。だがあいつは、そうして集まった人々に、いちいちこんなことを訊くのだ。


『ジル・ソーリスについて、情報が欲しい。最近……いや、この際いつのことでも構わない。何か変わったことはなかったか』


 おかげで私まで針のむしろに座る思いをしているのである。いったいなんの罰ゲームなんだろうか、これは。


「……お、R-22。ここか」


 内心で愚痴を溢しながら可動書架の仕掛けを動かし、むせるほどのインクの匂いの中からお目当ての本を引っ張り出す。


『時魔術の試行』。


 ペーパーバックの飾り気のない装丁のその本は、ページの四方が黄ばんではいたものの、開いてみれば傷みのひとつもない、綺麗なモノクロだ。刷られてから今まで20年、如何にも手付かずといったていであった。


 リオンが本当に未来人かどうかは半信半疑だけど、確かに、時を操る魔術が可能かどうかというのは、その手の研究者でなくとも盛んに議論されるところだ。それが可能であるにしろ不可能であるにしろ、『時』の正体を解き明かそうというムーヴメントに憧れを抱く気持ちは、正直わからないでもない。


 なんてごちゃごちゃ考えてるけど、ぶっちゃけ何か読めれば何だってよかった。今回はリオンのせいでそんな気分になったという、ただそれだけだ。


 手近にあった読書スペースに腰掛け、いざ文字の海にどっぷりと浸かろうと、序文を読み進める。



 ──固ハ万象ノ一形質ナリ。固ヲ異ナル固トセシム土ノ呪法ニ於イテ固ノ個々ヲ粉ナル固ト為ス故ハ、粉ヲ滾々ト涸セザル湖ト呼シタル水魔ノ法ト其ノ理ヲ違ワザル無キナリ。然ルニ固ノ粉タル個ノ呱々ノ声ヲ──



「……なんぞこれ」


 コッココッコ言ってるだけで話が進まないんだけど。著者はニワトリか何かなんだろうか。全然読まれてないのも頷ける話だ。


「で……わたしに何か用?」


 すっかり気が削がれてしまったので、一息ついでにずっと書棚の陰に隠れているリオンに声を掛けてみた。


「…………」


「……」


「……」


 おぅ……無視か……。


 館内は、その外と比べかなり薄暗い。それだけで、闇にちかしい私の感覚は否応なしに研ぎ澄まされていくのだ。なんなら、私が声を発するのと同時にあいつがびくっと身じろぎしたのも筒抜けだ。


 でも、まあ……こうなったら仕方ない。


「あー、気のせいだったかのなあー、うーん」


 ちょっとわざとらしく伸びでもしてみせて、ゆっくりと机から立ち上がり、元の位置に本を戻そうとリオンに背を向けて見せた。


「《アクセル・レイ》……!」


 振り返ると、案の定リオンは書棚の陰から躍り出て、なにやら呪文めいた聞き慣れない言葉を呟く。


 そして、次の瞬間、彼は加速した。残像を置き去りに、あっという間に私の目の前まで迫る。その手に刃物を抱えて……。


 これはまた……仮にも魔術学院の生徒とは思えない、物理的な手段に打って出てきたものだ。


「『罔けネゥラ』」


「……チィッ!」


 そしてリオンは、私にナイフを突き刺して、その手応えの無さに舌打ちした。


 わざわざ我が身に影を纏うなんていう七面倒くさい魔術ではない。もっと原始的な、自らを影とする魔法だ。


 この魔術のおかげで、今の私は蜃気楼も同然で、刺しても斬ってもすり抜けるばかりだった。……まあ、代わりに私も物に触ったりできなくなるんだけども。


 先日、リオンの魔術から私を守ってくれた《まゆ》は、私に向かう一定以上のエネルギーを私にとって無害なレベルにまで低減させる魔術だ。衝撃の吸収はできても、物体そのものを消せるわけではない。


 つまり、今みたいにナイフを持って凄い勢いで走ってこられたら、正直、《朏の繭》では対処に困るのだ。助走の勢いは消せても、そうして突き立てられたナイフが、私の健康を害さない程度の速度でずぶずぶゆっくり私の腹に沈むことを防ぐことはできない……と思う。まさか試したことなんてないから、本当にどうなるかはわかんないけど。


「なんというか……よく考えたね」


「クソッ、次から次へと……出鱈目なヤツだッ」


『朏の繭』対策も虚しく、不意打ちが完全に失敗したことを悟って、リオンは私(の影)を切り刻むことをあきらめると、忌々しげに言った。


「でたらめにナイフ振り回してる人には言われたくない」


「バカにするな。今のは出鱈目にナイフを振り回していたわけではない。……《アクセル・レイ》だ」


「……あー、うん。そうね」


 呪文じゃなくて技名だったのそれ。


「しかし、今日は……そうだな。このくらいで勘弁してやる」


 他に手を用意してなかったのか、リオンはお茶を濁して踵を返そうとする。


「いや、ちょっと」


「なんだ?」


「まあ……なに? 確かにあなたは、わたしにキズ一つ付けられてないわけだけど……。でもこれで、『また明日ねー』ってゆーのは……なんか、ちょっと……ちがくない?」


「……? 何が言いたい……?」


「おしおき。…… 『晦を纏かむやボヌ・ノクテ』」


「!?」


 右手の人差し指と中指をリオンに向けて、そのままそっと下へとおろした。彼が私のその仕草を見る・・だけで、その魔術は効果を為す。


 ……仮にも将来極悪人になる予定(そんなつもりは微塵もないけど)の私相手に気を抜き過ぎなんじゃないか。……なんというか……緊張感がないんだよなあ、いまいち。


「……貴様……何をし……。……!?」


 ものの数秒もしないうちに、リオンは膝から崩れ落ちる。


「か……身体が、動かん……」


「しばらくそのまま、寝てなさい」


 闇魔法の基本性質、『低減』を応用しただけの簡単な魔術だ。リオンは貧血起こしたみたいにフラフラになってるけど、加減を工夫すれば不眠治療とかにもなる。


 力無く床に倒れたリオンに近寄って、私は彼の手に握りしめられたナイフを没収する。


「なにを……」


「聞いたことない? ナントカに刃物、持たせちゃダメって」


 出てくる出てくる刃物に凶器。袖口にナイフ、襟の裏に投げナイフ、ベルトのバックルの裏には湾曲した折り畳みナイフ……。なんだかちょっと面白くなってきた。


 あと、ジャケットの内ポケットに入ってた銃みたいなやつ(この前出会い頭に撃たれた時のヤツだ)も没収。それから……ポケットの中をまさぐると、のっぺりした板状の……なんだこれ? まあいいや、身ぐるみ剥いでこう。念のため、念のため。


「や……めろ……」


「大人しくしてたほうがいいよ。体はもう寝てるんだから」


「だめだ……それ……は……」


 それだけ言うと力尽き、リオンは意識を手放した。


「おあがりよ、っと」


 ……このまま床に放置しておくのもあんまりなので、すっかり大人しくなった彼を椅子に座らせて、受付から借りっぱなしだった膝掛けを雑に被せると、私は悠々と図書館を後にしたのだった。

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