第3話
いつものように、誰も居ない教室に到着する。別に俺が特別教室にいるだとか、子供の人数が少なくてクラスメイトが居ないとか、そういう訳ではない。クラスには27人の生徒がいる。
人より早く学校に来るのは昔からの癖。明確な理由が過去には存在したのだが、今の俺には特に理由は無い。だから、自分の席に着いて、一人で教科書をめくるのが日課だ。
自分の席に着くと何か違和感を覚えた。いつもよりなぜか教室が狭いように感じる。
「まぁいいっか」
別に俺に何か害があるわけじゃないし、どうでも良いので教科書をめくり出す。
時間は勝手に過ぎ去っていくものだ。止まってほしいと思っても早く過ぎ去ってほしいと願っても変わらないで同じペースで時を刻む。
時計の針はもう8時過ぎ。少しずつ教室は賑やかに変わっていく。俺は最初からいるけれど、誰からも絡まれることなく。一人の時間が続く、別に悲しいとは思わない。
周りの人を見ていると辛そうだと感じる時もある。話題を合わせて、意見を合わせて、笑顔を作って空間を維持させる。誰一人、本心を晒していないのではないだろうか。そんなことを考え始めたら、俺は別に最低限で良いと思ってしまうのだった。
「おはよう。秋博」
前方の椅子を引く音と共に声を掛けられる。俺の最低限は大体こいつとの会話だけだ。声を掛けられていることは分かっていたが、数学の問題が佳境だったから一回目はスルーしていた。
「おはようございまーす!聞こえていますかー!榊原秋博さーん。君に唯一声を掛けてくれる親友の大原君だぞ!」
必要以上に大きい声で呼びかけられて、俺は仕方がなく顔を上げる。すると席に座って後ろを振り向いている男子生徒の姿があった。
身長は俺よりも高くてがたいも良い。そんな彼はバスケ部でエース級の活躍をしていて校内でも人気が高い。オマケに容姿も整っているとくれば、俺では彼に適う要素は見当たらない。別に、こいつとは端から張り合うつもりもないけれど。
「なんだ。朝から元気だな。光希はさ」
これ以上、無視をしたら何されるか分かったものじゃないから、適当にいつもと同じように話をする。光希は俺の塩対要にも慣れているから、何も気にすることなく話を続けていた。
「あったりまえだ!俺は今日だって、朝練という過酷な戦場を生き延びたんだから、元気さ。ところで」
バスケ部の次期エースはやっぱり格が違うらしい。同級生のバスケ部員は今も死にそうな様相で帰ってきているというのに、こんなに元気に騒いでいられるのだから。
光希は俺に一枚のプリントを見せてきた。
「秋博は、ちゃんと書いてきたんだよな?これ」
進路調査票をヒラヒラと揺らしながら、そんなことを聞いてくる。昨日クラスメイト全員の前で俺が提出していないことを話されたおかげでこんな話題を振られてしまう。
「ああ、書いたよ。きちんと考えて」
俺は机の横にぶら下げられていた鞄から、乱雑に入れていたA4用紙を取り出して、光希に向ける。
こいつは何を期待していたのだろうか。紙を取り出すまでの間は明らかに嬉しそうな表情をしていたが、紙にある二文字を見た瞬間に小さくため息をついてから呟くように言葉を漏らした。
「本当にこれでいいのかよ……。お前の本心でそれを書いたのか?」
俺の本心なんて正直もうどこにあるのかも分からない。でも、今の俺が選べるのは、誰もが頷くような選択肢を選ぶことだけだ。
大学にみんなと同じように進学して、その後は、親に迷惑を掛けないように就職して、多くの人にとっての当たり前から、かけ離れてしまわないように生きていく。それが今の俺が唯一持っている人生プランだ。
『起業家になって世の中の問題を解決していきたいだ』とか『動画投稿サイトで有名になって、人を楽しませたい』なんて大きな夢を持つことは俺にはもうできる気がしなかった。
光希の問いかけに対して、俺は声を出すことはなく頷いて返すことしかしない。いくら言葉で伝えても多分こいつは受け入れないのだから。
「夢は……」
光希は俺を説得しようとすることはなんとなく分かっていた。だから、夢というワードが聞こえた瞬間に俺は言葉を遮る。
「小学生の夢なんて、シャボン玉みたいなもんだ」
自分でも驚くほど冷たい言葉だと思う。でも、この言葉は間違った物ではない。スーパーヒーローになりたいと言ったり、仮面ライダーになりたいと駄々をこねたり、子供のうちは次から次へと夢を抱いては次の瞬間には消えていく。
まるで、それはシャボン玉だ。一つの息で沢山のシャボン玉が現れて、その美しさを認識して、記憶に焼き付けている頃には、次から次へと消えて無くなっていく。どれだけ頑張ったって、それを永遠に維持することは出来ない。それは当たり前なことだ。
だから、夢を持っていられるのも一瞬。何がきっかけであっても簡単に破裂してしまう物だ。そして一度消えたシャボンはもう二度と戻らないように、夢もまた戻ってくることはない。
「また、それか……」
光希は小さくそう言うともうすぐ担任が来る時間なので、前を向き直った。
本当に光希は優しい奴だと思う。こんな言い方しかできない俺にいつも話し掛けてくれている。俺の過去を知っている数少ない人物だから、いつも俺の夢には親身になってくれるのだ。
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