5-7

『私はこれから何をしようとしているでしょうか』


 綾子は掴まれながらも必死に首を振ろうとした。もう、あんな地獄のような日々は二度とごめんだわ。やめて、やめて、お願いだから、もうやめて!


 クミ子さんはさらに口角を上げると、綾子の顔を掴んだまま腹を抱えて笑い出した。これが彼女の本性なんだ、と綾子は遅すぎる結論に達する。

 彼女の体は絶望以上の無力感以上の悲壮感でも言い表せないほど、大きな黒い渦、きっと光どころか、光を超越するどんな仮想的物質でも抜け出すことができないほどおおきくて暗い渦に飲み込まれて行った。


『ブッブー。時間切れよ。いいえ、今のあなたの反応から見るに、回答拒否と言った方が正しいかもしれないわね。何人殺せば人々は許してくれるのか、あなたはそう考えたわね。考えてしまったわね。

 いいえ、そう考えるように私が仕向けたのよ。あなたなら、どの状況であればその考えが浮かんでくるかを予想した上で、この世界を作ったんだから、侮らないで。それに、ここからがこの世界の本当の力を発揮するところなのよ』


 クミ子さんはとても楽しそうに言うと、空いている方の手で指をパチンと鳴らした。途端に周囲の空間が歪み、みるみる辺りの光景が巻き戻って行った。クリシェが蘇り、周りの人が蘇り、核発射ボタンから指を離し、ナイフも体から抜き取られ、電話の音は逆再生され、そして(いや)、そして(いや)、


! ! ! ! ! ! !)


 また、あの朝に戻る。






 そこから先は、まるで地獄にいる方が幸せと思ってしまうほど辛い日常が待っていた。


(いやああああああぁあああぁあああぁあああぁああぁあぁああ)


 毎日、毎日、仕事に宿題、研究に淫行けんきゅう


(ああああぁああぁああぁあああぁあああぁああぁあぁぁあああ)


 数世代経つと、まつりごとも行うようになった。


(あああぁぁあぁぁ 言葉というのは恐ろしい あぁぁああぁあ)


 だが結局は除け者のように扱われてしまう。


(どんなに尊いものでも亡くし、かったことにできてしまう)


 どんなに善策を打ち立てても、どんなに建設的な議論を促しても


(I’ve been working on the railroad All the livelong day)


 人を殺した女の言葉なんぞに誰も耳を貸さなかった。


(ああ 苦しい っあぁ いっそ ぁああぁ 一思いに ぁああ)


 いや、そもそも、そんなことが言えていたのだろうか。


(あぁああ 助けて あああぁあ だすげて あぁぁあぁぁああ)


 百五十人の生を背負った人間が、真面目に勉強をして人間性を養い、信頼たる人物として国を治められるだろうか。


(ああ……ああ……ああああああ……あ…………あぁ……ああ…)


 それは、神だって分かりゃしないだろう。


(いやだ いやだ いやだ    !)






!」


 百三十四回目の荒廃した大地の前で綾子は耐えきれずに叫び出した。いや、本当はもっと前から叫びたかった。叫ばして欲しかった。けれども、咆哮する気力すらなかった。


 しかし、ここで声を出さなければ。足掻かなければ。彼女の心の奥深く、核とも呼べる綾子の本心がそう訴えていた。このまま彼女の言いなりになれば、自分は本当に壊れてしまう。


「どうして、私はこんな仕打ちを受けなきゃいけないの?」


 目からは大量の涙が溢れてくる。ただれて痩せこけた頬を涙が伝って痛い。そうだ、これが痛みだ。これが人の力なんだ!


(生きるというのはとても不便なことだ。痛みと共生しなければならないから)


「たった百五十人よ。ほんの、たった、百五十人。世界に七十八億いる人類のたった、たった、0.0000002%よ。この世界には私よりも人を殺している人や組織はたくさんあるわ。

そうでなくとも、戦争、虐殺、インターネットでの誹謗中傷、パワハラ。それらが原因で亡くなった人が、人類が滅亡するような事態が平然と現在進行形で行われている。それをあなたは放置して、たった百五十人しか殺していない少女にこんなことをさせるの?」


 綾子の前に現れたクミ子さんは、一人の少女の叫びに耳を傾けたまま、黙って俯いた。その顔を綾子は窺い知ることはできない。


 やがて、はポツリと言った。


『だからって百五十人殺していい理由にはならないでしょ』


 その声に彼女はハッと息を呑んだ。それは今まで聞いたことのないくらい重く、冷たい言葉だった。途端に自分が数十万年考え続けてきたことが醜く思えてしまう。そう、綾子の言ってることは結局、他人に責任をなすりつけているだけで——。


『たしかに全体的に見ればそうかもしれない。百五十という数字は七十八億という大数に比べれば極微小かもしれない。けど、その一つ一つは誰かにとって——たとえそうでなくても——大切な存在で、一人が死んでしまうことで世界は脆く壊れてしまうものなの。


(一つの命が消えるだけで、この世界は何て崩れやすいのだろう)


そう、腹を痛めて産んだ我が子が死んだことを知った母親のように。もちろん大勢で石を投げつけたり、執拗に精神を摩耗させて命を絶たせることは許されたものではない。

けど、それとこれとは別の話よ。それらが横行している世の中だからって、何人なんびとたりとも人を殺していい理由にはならないわ。


 人を殺すことはその人が歩むべきだった今後を背負うということ。例えばあなたたちが食事を前に「いただきます」と言うのは、この食事のために殺された動物たちの歩みを背負う精神が起源になっている。

人は自分という一人分の人生しか背負えないもの。どんなに優秀で才能のある人間であろうと、一度に二人以上存在することができないように、二人以上の人生を背負うことはできない。

だから、私たちは身体的に殺人が可能であっても精神的にはできないようになっているのよ。あなたはそれを履き違えたのね。人間を電気信号が流れる有機体と捉えて、尊厳や誇りを忘れて非人道的な方法で殺した。

 何度も何度も、良心で人を殺したの、!』


 クミ子さんは大きく深呼吸すると、再び右手をあげた。


『綾子、もしあなたがここまでで誠心誠意反省してくれたら、これ以上は止めてあげようと思ってた。けど、少しでもその思いが芽生えるのであれば、容赦無く叩き潰すまでよ。私が本気だってことを徹底的に教えてあげるから!』


 そして、指をパチンと弾く。途端に周囲の景色は逆流する。


 嘘でしょ。あまりにも無慈悲すぎるわ。あと、398545786回もあの地獄より恐ろしい日々を繰り返さなきゃいけないなんて。

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