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この宿業において一番重要なのは子孫の補充である。彼女はそれを精算するために薬を服用して卵子を一気に数個排出し、かつ一度の■■に複数の旦那を巻き込むことで何人もの子供を産んでいた。この十年の間、彼女の子宮が空になることは、一度たりともなかった。
おかげで郁奈として夫たちとの間には無事に三十人の子供が生まれた。綾子は十年間で旦那一人につき一人の子を産みきったのだ。しかし、旦那たちは二人目を欲しがったため、今の彼女のお腹の中には三人の新たな命が宿っている。
そういう意味では桑原家のアドバンテージがないことは幸いした。もともと父親と母親は子供を産める年齢ではなかったし、桑原莉子は幸運というべきか生涯独り身だったため、子孫を残すことはなかった。けれども彼女の心はどこか揺れ動いていた。
あの夜、窮屈な世界から解放されて行なった一つ目の殺人。まだ彼女の思惑を知らなかったとはいえ、子孫を残さないからといって殺してよかったのだろうか。そんな疑問が時々ふと彼女の頭をよぎっては消えていった。
もはや、ここから抜け出す、などと考える余裕はすでになかった。自分のお腹を痛めて産んだ我が子は可愛らしく、五十八人も世話するとなると一苦労どころではなかった。
これから三十一人の元紀と三十人のラムジー、そしてもしかしたら二十九人の稗島の分も子供を産まないといけなくなる。いや、もしかしたら私が産ませるのかな? どの道、辛い日々が待っていることは間違えなかった。
ただ、変わらないのは脳内で流れ続ける、あの音楽だけ。
百年目。
三十一人の元紀の第二子が画家として成功した。しかし、綾子は元紀の第二子を二十五人までしか産めなかったため、残り六人分画家の仕事をしなければならない。
本来ならシワクチャのおばあちゃんになって、あの世を旺盛するはずなのだが、(クミ子さんの仕業に違いないが)彼女の体は老いずに動き続けた。
ラムジーの第一子がベンチャー企業を立ち上げるが失敗、彼女は自分が産めなかった八人分の借金を持って、仕事に明け暮れる事になる。
一方、稗島は本来四十九歳で獄死した。すると、彼の生涯を記録して世に発表したいと二十九人の作家が彼女のもとへ取材に来た。しかし、忙しいので断ると、彼は子供を残せず死んでしまった。後年、彼の子孫が文化人として活躍するはずだったのを、彼女によって奪われてしまったため、彼女はその人たちの代わりにワイドショーのコメンテーターを務めることになった。
しかし、世間の綾子の評判は最悪で、スタジオに出てくるなりゴミを投げつけられる始末だった。そんな状態をスタッフやキャストは「だってあなたが稗島さんを殺したからでしょ」と突き放したまま黙って見ていた。
悠里の養子二十八人は物理学者となり、教壇に立った。これは、養子であったため、綾子が代わりを務めずに済んだが、彼女が勉強を全然教えられなかったせいか、養子たちの出来はすこぶる悪く、一部の知識人は彼を育てた綾子を糾弾するようになった。養子たちは本来できるはずだった結婚ができず、彼女はそのアドバンテージも受ける事になる。
郁奈の息子はこの年に殺人を起こす。同居人との怨恨によるもので、証人として裁判所へ出廷した彼女は、自身の育児が不十分だったのではないか、と指摘を受ける。
百三十六人の子供を一度に育てて来たのだから、細部まで気を配れなかった、と証言すると、裁判長は「ではなぜ百五十人も殺したのですか」と問いかけて来たため、何も言えなくなってしまった。
百五十人を殺した女。その言葉が綾子の人生に深淵と言う表現には収まらないほど、暗く重い影を落としていた。
ただ、あの音楽が流れたまま。
五百年目。
その頃になっても綾子は老いることなく生きていた。彼女が犯した殺人の影響が未だに蔓延っていたからだ。この時、彼女は一人で四つの国の政治を担い、一つの力学体系の生みの親となっていた。もちろん、これ以外にも様々な仕事を一人でこなそうとしていたが、語り始めたらキリがない。
一つ目の国は元紀の第一子の第三子の第二子の元恋人の第一子の親友の第四子のパートナーの元妻との間にできた子供が住んでいた国の首相であった。綾子はここまでで、元紀に関してはあと一人後継を産めれば終わり、というところまで来ていた。
しかし、その子供が本来統一するはずだった国は、かつてリトアニアと呼ばれていた社会主義国家で、ラムジーの子孫の代わりとして旧アメリカの内政も担当していた綾子は内通者ではないかと疑われ、まともな仕事もできないまま処罰された。
もう一つは稗島の伝記を書けずに死んでしまった元作家の子孫がなるはずだった文化人の子孫として朝鮮半島にある統一国家、朝韓連邦の長だった。しかし、その国は反発意識が強く、旧リトアニアで失脚したことを同じ社会主義国家である朝韓連邦の国民は謝罪を綾子に要求した。彼女は民衆の前で一週間ひたすら額を地面に擦り付けることになった。その間、飯も水もとらず、民衆が投げつけてくる糞尿や汚物を黙って受け止めた。
最後の一つは科学を発展させる目的で永世中立国としてヨーロッパに作られた国の大統領だった。これも文化人の子孫の成れの果てだそうだが、幸いしたのは悠里の養子の子孫と同一人物であったことだ。
悠里の養子が打ち出した理論は後年になって評価され、その子孫である子も自然と才能を発揮するようになり、大統領の地位についたことになっていた。
しかし、これらは彼らの功績であって綾子は一切関与していない。彼女はどこの国でも何もすることができず、醜い権力闘争の象徴とされ没落していった。世界に戦乱の予兆が少しづつ近づいている中で。
それでも彼女は生き続けなければならなかった。
I’ve working on the railroad
All the livelong day
頭の中で流れ続ける歌詞の真の意味が分かった気がした。
千年目。
荒廃した大地を綾子はただただ眺めていた。数年前に始まった戦争は瞬く間に世界各地に広がり、それこそ彼女にとってあっという間に放射線の嵐によって人が住める地域ではなくなった。
この時点で綾子の殺人の影響は完全に消え去っていた。彼女が殺した百五十人の子孫や、彼らによって人生が大きく変わった人々はみんな核の炎の中に消えていった。
綾子もその灼熱に三、四回巻き込まれたが、どれも無傷に済んだ。ただ、死よりも恐ろしい痛みが走ったことだけは憶えている。
殺人の影響が全て消え去ったことで、ようやく体の老化が始まった。ついに、本当の意味で彼女は自由の身になったのだ。そこから綾子がし出した事は、生き残った人類の救済だった。
それしかやることがない、と言われればそうかもしれない。システムも文化も、文明という工場が生み出したものは、全て死の灰となって消えたのだから。彼女の尽力は虚しく、目の前の命は次々とその灯火を消していった。
綾子はゆっくりと目を閉じてこれまで消えていった命に思いを馳せると、シェルター(とは言っても換気部が破損しているため、放射線の影響をモロに受けてしまう)に戻った。
急拵えで作られたいびつな廊下のあちこちには腐敗した死体が置かれている。あの夜も、もし時間が進んでいたら、こんな嗅覚の伝達を遮断したくなるほどの腐臭を発していたのかもしれない。
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