第18話 売り蓋

 

「注文だと? それなら既に出してあるぞ」


 売り方が初老に言い放ったと同時に、後場開始の鐘が鳴る。


(株式の売りで宜しいのですか?)


 実栄で混雑しているカウンターの中を、まるで無人であるかの様に、売り方の傍まで進んでくる初老。

 初老が一歩進む度、何故か周囲の色がセピア調に変わっていった。


「相場で扱うものしか売買出来ない、そうなのだろう?」


 正面に来た初老に向かって、売り方。既に手を伸ばせば届きそうな距離だ。


(貴方が欲しがっているのは紙のカネなのですか? 昨日、散々稼いだ筈ですが)


 肩を竦めてみせる初老。

 その周囲、いや立会場全体がセピア色に染まっていた。


「紙? 昨日王子製紙を買った新規の客は、やはりアンタだったのか?」


 セピア色に染まった周囲。その中でも人の動きは止まってはいない。ただ、コマ送りの動画の様にゆっくりとしたものになり、現実感を無くしつつある。


(いえ、私ではありません。あれは貴方の身近にいらっしゃる方です)


 小首を傾げて、初老。それが今聞く事なのかという風で。

 そして周囲の人の動きもとうとう止まり、昨日と同じ、舞台の書き割りの様な遠近感の無いものに変わった。


「そ、そうか」


 身近に居る、この初老と同じ世代の男性。

 売り方は、病院の院長が自分と同じ苗字だった事を思い出した。

 確かに、彼ならあの程度の資金は持っていそうだった。そして株式相場でのセオリーを知っている事も。

 売り方は、心に有った引っかかりが一つ消えた事を実感した。


(それに、貴方が今日出された御注文は、つい今しがた約定しましたが)


 傍らに置いてある板を見ながら。

 それは、売り方が出した注文の中の一つの銘柄。

 実栄が手に持った鉛筆で、今まさに横線を引こうとしているところだった。


「そうだったな。それじゃあ」


 売り方は、とりあえずの要求をしてみる事にした。


「万病を治す薬を売ってくれ」


(……昨日も申し上げましたが、相場で扱うものしか、お売り出来ません)


 申し訳無さそうに、初老。


(それは、貴方も先程仰ってらしたでしょうに)

「いや、ちょっと待て。昨日、命は売れるとか言ってなかったか?」


 時が止まったかの様な周囲。その中で売り方は、自由に動ける自分の体を不思議に思った。


「命の売買なんて、比喩以外では聞いた事が無いが」

(売れます。但し、持っている人には売れません。これも昨日申し上げました通りです)


 初老は、売り方の真意を測りかねている様に言った。


(因みに、運命やら何でも出来る能力やら、そういう理不尽なモノも取り扱っておりません)

「そうか、ではついでに教えてくれ。アンタは何故、俺なんかの相手をしてくれるんだ?」


 この、時間が止まったかの様な状態を作り出す力。

 人の心や、処方された薬の中身まで見通す力。

 そして何より、相場参加者たちの心を操るかの様なチェロの演奏。

 そんな存在が、自分の様なインチキ相場師の相手をしてくれるのは何故なのか。

 売り方は、そんな自虐めいた疑問を口にした。


(それは……)


 質問の内容が意外だったのか、初老は少し戸惑いを見せた。


(貴方が私を認識して下さるからです)

「また禅問答か? 俺も昨日、ゴメンだと言った筈だぞ」

(いえ、これは本当の事なのです)


 冗談ではないと証する為か、姿勢を正して言う初老。


(貴方も、存在を認識出来ない相手とは話を出来ないでしょう?)


 隣に居る、板を書き替えようとしたまま停止している実栄を見て。


(私は寂しいのです)


 溜息と共に。


「寂しい、だと?」


 それはオマエに儲けさせる為だ、等の詐欺師めいた内容を予想していた売り方は、埒外の返答に意表を突かれた。

 相場の中限定とはいえ、仮にも神と呼ばれる者が、寂しい?

 全知全能の存在が?


(気がついたら、私は居ました。遥か昔、此処より遥か西に在る所なのですが。取引の、売買の熱気の坩堝の中で、溢れた部分や足りないところを平らにならすコトを、私は何時の間にか行なっていました)


 初老は売り方が絶句したのを見て、寂しさに関しては答えずに続けた。


(気がついたのは、誰かが私を呼んだからです。“相場の神よ、居るのなら応えよ”と)


 そこまで言って、少し気だるそうに視線を落とした。


「……それで、応えてやったのか?」


 初老の様子から、ロクな結果ではなかったのだろうと推測しながら。


(いえ、それは叶いませんでした)


 カウンターの奥側に居る、東証の職員の眼前に手を振ってみせる初老。


(近くに居た人達全員に声を掛けたのですが)


 セピア色で止まったままの職員は、当然反応しない。


(誰一人として、私を認識してはくれませんでした)


 首を振りながら、売り方のほうに向き直った。


「そりゃ、こんな風に時間を止めてしまっては、気付ける奴は居ないだろう」


 売り方も、傍に居た他社の場立ちの目の前で手の平を振ろうとした。

 しかし、そこには誰も居なかった。


(時間ですか? 別に止めてはおりませんが)


 何の事だと言う風に、初老。


(時を止めると貴方と話が出来なくなりますし、それにそもそも、時間とはモノが動く事で発生する風の様なものです。モノを動かして時だけ止めるのは矛盾ですし不可能です)

「そ、そうなのか?」


 腕時計を確認する売り方。時刻は後場寄りから10分ほど経っていた。


(話を戻しますが、これまでに幾人かの相場師の方達とはコミュニケーションをとれました。しかし……)

「済まんが、その話はまた後で頼む」


 電光掲示板を見る売り方。

 その表示は変わらずセピア色のままだったが、数字は明らかに下げを示していた。

 時間は止まっていなかったのだ。


「先に仕事をさせてくれ」

(そうでした、今はザラ場中でしたね。瑣事を話してしまい失礼しました)


 恭しく頭を下げる初老。


(売られた株を買い戻されますか? それとも残り半分を売り乗せされますか?)

「む……売り乗せだ」


 電光掲示板の、個別の株価を見ながら。

 どうやら今日は売り方に向かう筋は少なかったのか、売り方の売りに乗っかる筋が優勢だった様で、全体的に下げ方向で推移している。


「但し、後場寄りの値よりも高くで売りたい」

(分かりました。では、如何ほどで?)

「そうだな……」


 考える売り方。売るのなら高ければ高いほど有利だが、半分は既に売っている。あまり高くなると、生保の担当者達が慌てて損切りの注文を出してくるかもしれない。


「後場寄りの値から、プラス2%で頼む」


 その辺りが限界だろう、と売り方は判断した。


(良い線だと思います。プラス2%、承りました)


 片手を胸に置き、お辞儀をする。


(貴方が売りの注文を乗せ終わりましたら、上げを行ないます)


 そして、胸に置いた手を頭上に上げた。


(それではまた後ほど。ミスター・フィドラー)


 初老が上げた片手。それが下方向に動き始めた瞬間、辺りのセピア色が通常のものに戻った。そして、止まっていたかの様だった周囲の動きも元通りになった。

 カウンターの中の初老は消えてしまった。

 念の為に周囲を見回す売り方。視界の範囲内にブラウンのジャケットは確認出来なかった。

 時刻は12時45分。初老が現れてから15分が経過していた。


「ずいぶん長い間じっとしてらっしゃいましたね」


 ブースに戻った売り方に、従業員が声をかける。


「ああ、ちょっと考え事をな」


 言いながらテーブルの上に注文票を並べる。


「では残り半分を売りますか?」


 売り方の行動を見てそう判断したのか、従業員も後場寄り前に使った注文票をテーブルに並べる。


「おう、そうする。但し後場の寄値からプラス2%の値段でだ」


 チラと電光掲示板を見る売り方。

 個別銘柄の値段は、後場寄りから総じてマイナス1%あたりで推移している。

 売り方は、注文票の値段を変えながら、従業員の“何故”に答える心積もりをした。


「プラス、ですか……端数はどうしますか?」


 売り方が上げを予測している事に僅かに戸惑った様だったが、従業員はすぐに具体的な質問をしてきた。


「切り上げで頼む」


 二度に分けてが基本、とか適当な言い訳を考えていた売り方は、肩透かしを食った気分になった。

 が、すぐに頭を切り替える。

 初老の世界から抜け出した此処は、いつも通りの生き馬の目を抜く鉄火場。

 30銘柄の手配には時間が掛かるし、従業員も状況を把握しているという事だ。


「残り全数、後場寄りからプラス2パーで売り、端数切り上げ、了解!」


 従業員の復唱。

 その滑舌の良さとその後の値段計算・記入作業の早さが、売り方の、従業員に対する見込みを肯定していた。

 この三十絡みの男は、少なくとも立会場の中の作業に於いては頼るべき存在だろうと。


 売り方も素早く暗算して注文票の値段を書き換えた。

 そして、僅かに早く書き換えていた従業員の後を追う様にしてカウンターへ走った。


 カウンターの向こうに居る実栄に、注文を出す売り方。

 後場寄り後の注文も一通り終わったのか、張り付いている場立ちも少なく、注文出しは比較的スムーズに進んでいく。


「残りを」


 売り方が半分ほど出し終えたところで、いつの間にか隣に来ていた従業員が、手を差し伸べてくる。

 彼は既に出し終えた様だった。流石に現役の場立ち、手が早い。


「頼む」


 感心しながら、注文票の残りから4枚を従業員に渡す。これで売り方の残りも4枚。

 だがそれは、そこから離れたカウンターで扱う銘柄ばかりだった。

 そちらに向かおうとする売り方。

 だが、それまで閑散としていた辺りは、売り方と従業員が慌しく注文を出し始めたのを確認しようと寄って来た、他社の場立ち達で混雑していた。


「おい、どいてくれ」


 それらを掻き分けて進もうとする。

 初老はよく分からない存在だ。どこで自分らの注文出しを完了したと判断するか不明だ。カウンターから自分が離れた今をそれと見るかもしれない。

 そう考え少し焦る売り方。急ぎ足の彼の肩を、しかし誰かが叩いた。


「ちょっといいか?」

「忙しい、後で」

「そ、そう言うなよ」


 纏わり付いてくる、黒いジャケットの袖。

 売り方はそれを無視して歩き続け、目当てのカウンター前に着いた。


「昨日は助かったよ、まさかWTIの電信が不具合になってたとは」


 カウンターの中に居る実栄に売り注文を出しながら、付いてきた声の主を見る売り方。

 それは昨日の、手張りを打診してきた東証の職員だった。


「あの後、上から説教喰らっちまってさ」


 職員を無視して注文を出し続ける売り方に向かって。


「なんでかって? そりゃ、異常に気付けなかった立会場担当も責が有るっていう」


 問われず語りを始める職員。


「まあ結果的に、相場に手を出さずに済んで良かったんだけどな」


 更に、違法行為の触りまで喋り始めた。


「……で、今日は大丈夫なのか?」


 流石に呆れた売り方が、職員に問い掛ける。


「大丈夫かって、何がだ? まさか美味しいネタでも有るのか?」


 変わらず、山っ気を隠そうともしないで、売り方に喰いついて来る。


「いや、WTIの表示が、だよ

 注文を全て出し終えた売り方、電光掲示板の原油価格のところを見る。

 今日は、真っ暗なまま何も表示していなかった。


「え、ああ、大丈夫だ。だからさ、何か良いネタがあるのなら……」

「なら問題無いな」


 職員の声に被せる様に、売り方。改めて職員の顔を見る。

 年齢は売り方と同じくらいか。

 細面、浅黒い顔色、油で固めた髪、額に深く刻まれた皺、緩んだ瞼、弛み気味の頬。

 家に帰れば家族が居るのだろう。そんなくたびれた中年が、違法なカネ儲けに目の色を変えている。

 売り方は、その様を浅ましいと思ったが、また同時に、完全には否定も出来なかった。


「問題無いって何だ」

「もういいから、仕事に戻れよ」


 ムッとした風の職員に言い放って、ブースの方を見る売り方。ちょうど従業員がブースの中でインカムを付けようとしているところだった。

 注文を出し終えたのだろう。流石に早い。

 その従業員に向かって、電話をしろの手サインを送る。

 従業員はすぐに気付き、了解の手サインを返してきた。


 これで、山師に後場の注文を全て出し終えた事が伝わるだろう。

 腕時計を覗き込む。13時17分。

 売り方は、最後にもう一人、この事を伝えるべきだと思った。


「おい、無視するなよ」

「……売り注文を出し終えたぞ」


 テラスの少し下辺りの中空=昨日の後場に初老が現れた辺りに向かって、売り方は言った。


「売りだと? この下げ方向で更に追いかけるのか?」


 板を確認する為か、カウンターの中に入ろうとする職員。

 しかし、売り方の動向を確認する為に寄って来ていた他社の場立ち達の、こんな高値で売れるものかよ、の声に立ち止まらされる。


「なんだ、売り蓋かよ」


 呆れた様に言う職員。


「あぁまあ、そういう事だ。分かったら散ってくれ」


 職員と、数人の場立ち達に言い放つ売り方。

 その耳に、あの特徴的なチェロの音色が飛び込んできた。


「来たか?」


 テラスの下辺りを見る売り方。

 其処には、昨日と同じく初老が現れ、チェロの演奏を始めていた。


 何が来たってんだ? と、職員や場立ち達が売り方と同じ方を見る。

 しかし、彼らには初老が見えないのか、すぐに不審な目を売り方に向けた。

 だが、売り方はその視線を気にしなかった。

 初老が奏でるチェロの音。これは昨日の曲とは違うもの。

 敢えて言えば、ドヴォルザークの交響曲に似たものが有った様な……

 売り方は、その曲名を思い出そうとしていたのだ。


「ああ、第八番の『イギリス』か」


 思い当たり、溜飲が下がった気分の売り方。

 その彼の目に、昨日と同じく、チェロの音色から変わったと思しきチャート図の様な楽譜の様な紙が舞い降りてきた。

 そして、その内の一枚が、職員と場立ち達の頭上に至った。

 その直後。


「オマエの売り玉は担がれるぞ、早く取りやめた方が良いぞ」


 職員が言う。

 周囲の場立ち達も異口同音に。

 例の紙が、彼らの頭上で弾けて細かな光の粒になったと同時に。


「な、何を言って……」


 周囲の人間の、態度の急変に戸惑う売り方。

 だが、昨日の立会場の様子を思い出し、電撃の様に理解する。


 初老がチェロの演奏を行なう。

 音色が不思議な紙に変わる。

 それの下に居た人間たちが、行動を何故か買いに転換する。

 相場が上げ基調に転換する。


「なるほど、そういう事か」


 音とは、空気の振動である。

 細かく見ていくと、上げと下げが無ければ振動足り得ない。

 相場でも、売りと買いが一致した瞬間に、音の素と同じものが発生している。

 それを、一致したから発生するではなく、因果を逆にして、発生したから一致させる、という事を行なえれば?

 相場参加者たちの行動を、コントロールする事が可能になるのではないか?


「それなら……」


 例の紙が多く舞っているカウンターの方へ歩いていく売り方。

 思い出す、昨日の事。

 頭を抱える青年医師。

 苦悶と共に搾り出した言葉、自分を妬んでいると。

 それは、バイオリンの演奏に対しての事。

 それは、彼をして、少女の病の進行を抑え込んだと言わしめたもの。

 もし、それよりももっと結果に対して直接的な効果を持ったもの、即ち、今目の前で舞っているこの紙を少女に与えられたら?


 売り方は、熱に浮かされた様に、舞い降りる紙を掴もうとした。

 そして、数度の失敗の後、ついに一枚を掴んだ!

 だが――



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