第15話 雨とポケベル

 

「お客さん、証券会社の人?」


 周囲に染み付いた、タバコのえた臭い。

 間欠ワイパーの軋む音、エンジンやデフロスターの単調な低音。


「……お客さん?」


 後部座席で、腕組みをし俯いている売り方。

 ゆっくりと顔を上げる。

 前方の車のテールランプと信号機の赤が、フロントウインドウの雨粒に滲んでいた。


「着いたのか?」


 左側のウインドウを見る。

 しかし内側が曇った窓からは、夜闇と、最も左側の車線を走る車しか見えなかった。


「いえ、まだなんすけどね」


 そう言った運転手は、信号が青に変わったのを見て、タクシーを発進させる。

 高まるエンジン音と、タイヤが水をかき上げる音が車内を満たす。


 売り方は、後ろの車のヘッドライトの光に腕時計を翳した。

 22時18分。15分ほど寝ていた様だった。


「本降りになってきたんだな」


 売り方が山師の会社を出た頃は、まだ降り始めの小雨だった。

 生保の人間達は、21時頃に帰った。

 それから1時間ほど、山師と今日の反省や明日の為の打合せを行っていた。


「ええ、嫌な雨すね」


 パタパタと、リズミカルにコラムシフトを操作する運転手。

 シフトアップされ、速度を増していくタクシー。


 生保から来たのは4人で、みな重役だった。

 そして、全員が売り方の説明するインバースタイプの投信に、興味を示さなかった。

 彼らは、不良債権化する手持ちの株式の運用に苦慮していた。

 そこへ山師からの話。

 彼らは、噂に聞いた“悪夢の売り方”の、その手腕に頼ろうと考えていたのだ。


「それで、お客さんは株屋さんなんすか?」


 生保の意向は単純明快だった。

 山師は即座に頭を切替え、手持ちの株式を自社へ移動する事を提案した。

 それらの総数や期間に関しては、交渉に時間が掛かった。

 だが、その殆どは山師とその部下達の仕事だった。


「え、いや……ああ、そうだ」


 戸惑ってしまう売り方。

 山師の会社に入社してまだ日も浅く、また、交渉の最中彼は脇役状態だったので、証券会社の一員に復帰したという認識が薄かったからだ。

 しかし結局のところ、インバースタイプの投信にしても、単なる繋ぎ売りにしても、売り方が相場で売りを仕掛けるという構図に変わりは無い。


「証券会社の社員だ」


 自分に言い聞かせる様に。山師の会社の社員だと。

 その山師に、後場の初老の話はしなかった。

 信じていない人間に話しても時間の無駄だからだ。


「この不況は、いつ頃終わるんすかねえ?」


 左にウインカーを出し、車を側道に入れる運転手。

 運転に集中しているせいか、返答を期待していない、独り言の様な言い方だった。


「暫く続くと思う」


 売り方は、寧ろ正常な状態に戻る途中だと思っていた。

 不況などではなく、今までが異常だったのだと。

 だが、必ずしも下げ一辺倒というワケでもない。

 今日の後場の様な、初老のあの買い煽り(?)が明日も続くとすると、当面は売りは控えた方が無難。


「なんとか、なりませんかねえ……」


 溜息と共に、運転手。

 生保分の売りを、明日からやらなければならないとなると、売り方にはかなり苦しい展開になる事が予想出来た。


「難しいな」


 明日からの相場もまた、タフな展開になりそうだった。


 病院の裏口に到着するタクシー。

 救急入り口の庇の下に入った売り方は、タクシーの運転手に呼び戻された。

 車内に忘れ物をしていたのだ。

 それを取って、再度庇の下に駆け込む売り方。

 振り返って会釈をする。

 タクシーは、クラクションを一つ鳴らして、夜の街角に消えていった。


 冷たい雨が、黒々としたアスファルトの上で音をたてる。

 頭や肩に付いた水滴を払いながら、売り方は、今朝のリムジンでの出勤を遠い昔の事の様に思い出した。


 救急受付に病室番号と名前を告げ、病棟に入る売り方。

 この頃には、既に顔で通れる様になっていたが。


 入ってすぐ、右側の方に有るエレベーターホールを見る。

 二つ有るエレベーターの内の一つ、患者・職員用が閉鎖されている。

 それに何か不穏なものを感じた売り方は、左側の方に有る階段に向かって歩いて行く。


 こちらの方が病室に近い、という事もあった。

 が、3階を過ぎて4階に向かう辺りで、早くも後悔の念が売り方を襲った。

 疲れが溜まっているせいか、足に来る。エレベーターを使うべきだったか。

 右手に持った大きな紙の箱が、カサコソと乾いた音を立てる。


 エレベーター。山師の会社があるテナントビルの。

 小さなそれで、よくも持って来れたものだと思うほどの、大量の食べ物。

 オードブルやサンドイッチ、ソフトドリンクやケーキなどの仕出し。

 それは、交渉が長引く事を見越した山師が、レストランに注文したもの。

 もっとも、それらが山師の会社に着いた20時頃には、交渉はほぼ終わっていたが。


 “大きな商談が決まると、腹が減る”以前、山師が吐いた言葉だが、今日に限っては売り方も同意だった。

 ロクな食事をしてこなかった上に、金額の張る商談。

 その緊張から解き放たれた時、胃袋は自然に食べ物を要求してきた。


 それは生保の重役達も同様だったようで、皆がよく食べた。

 刺身やサラダ、冷めても美味しいカツレツ系統などは、羽が生えた様に男達の腹の中に消えていった。

 しかしそれでも、余った。ケーキ類は殆ど全部。

 残業を余儀なくされていた事務の女性は、喜んで持てるだけのケーキ類を持って帰宅した。

 その際、売り方に最も派手なホールケーキを押し付けて。


 やっとの体で、少女の部屋のある階に着いた売り方。

 目の前に廊下、左側にエレベーターホールとナースステーション、右側に少女の病室。


 薄暗い廊下を、右側に向いて進む。

 階段よりも更に濃くなった消毒液の匂い。

 昼間の喧騒と対照的に、耳鳴りがするほどの静けさ。

 廊下の突き当たり、少女の病室の前に着く。

 いつもの儀式の後、片手の為に、いつもより重い引き戸を開ける。

 明かりの落とされた室内。

 もう寝てるか、それなら寝顔だけ見て、という売り方の考えは無用なものだった。


 その部屋は無人だったのだから。


 廊下からの僅かな明かりに浮かび上がる、部屋の中心にあるベッド。

 その上の布団の感じは、つい今しがたまで人が寝ていた様な雰囲気を持っていた。

 慌てて部屋の明かりを点ける売り方。

 だが、明るくしたところで、状況を変化させる事が出来るわけでもない。

 ただ、少女が使っていたメモ用紙が数枚、ベッドの下に落ちているのが見えただけだ。


 売り方は棒立ちになり、持っていたケーキの箱を落としてしまった。

 取っ手の部分が開き、ケーキの上部が見える。

 その豪奢なホールケーキの上には、砂糖で作られたと思しき、小さな男女の人形が乗っていた。


 エレベーターホールへ向かう売り方。

 着いた其処で彼は、ナースではなく公衆電話を探した。

 それは、観葉植物の影に有った。

 この位置関係だと、ナースステーションからは観葉植物が遮って死角。


 売り方は、ポケベルを取り出す。

 ラストメモリを呼び出そうとしたが、電源は切られていた。

 腹の底に冷たいものが出来たのを感じながら、電源を入れ、ラストメモリを呼び出し、

目の前の公衆電話の電話番号と照合する。

 それらは、同じものだった。

 つまり、売り方や山師が間違い電話だと断じた通信は、此処から発信されたものだったのだ。


 跪く売り方。

 その音で気付いたか、ナースステーションからナースが一人出て来る。


 売り方は、ホールケーキを押し付けてきた、事務の女性の言葉を思い出す。

 曰く、ポケベルであんな事を伝えられるなんて、モテモテですね。

 曰く、お土産に、これくらいは持って行ってあげないと。

 曰く、500731は、ゴメンナサイ、と読みます。

 そして、114106は――


 売り方の背を軽く叩き、伝言を伝えるナース。


「お待ちしておりました。至急、院長室へいらして下さい」


 ゆっくりと立ち上がる売り方。

 彼には、少女に伝えなければならない事があるのだ。

 そう、昼間のポケベルに入ったものと同じ事を。


「114106は、アイシテル……」


 そう呟いて売り方は、重い足取りで院長室へ向かった。



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