第2話 売り方

 

 東京都内。

 暑さも峠を越え、スーツの上着を着る様になった、そんな頃。


 平日の昼間なのに行きかう人は多く、歩道の中で再々肩や腕が当たるほどだった。

 しかし、それら人々の目は一様に澱んでいた。世間も相場も、未だバブル崩壊の余韻を引き摺っていたのだ。

 そんな中、売り方は、ある銀行の本店を目指して歩いていた。


 軽いチックでオールバックに綺麗にまとめられた髪。髭はキチンと剃られている。

 オーダーメイドのチャコールグレイのスーツ、靴はエドワード・グリーンの黒。ワイシャツはブルックブラザーズのスタンダードな白、それにドレイクスの、シンプルなデザインの淡い緑色のネクタイを締める。


 外出する際には、華美過ぎず且つ他人に清潔感を与える服装を心がけよ。

 株の専業になって、その上カネに不自由しなくなっても、かつて勤めていた証券会社で上司から受けた訓令を未だ無意識の内に守っていた。


 少女の手術後、売り方は目黒の邸宅を売り、病院の傍のマンションを買った。

 それは見舞いの都合からだが、それでも一棟まるごと買う必要は無かった。

 手は尽くしたものの、現状では進行を見ている事しか出来ない、少女の病状。

 このままでは、一年以内に最悪の結末しか。

 無駄金を使ったのは、そんな無力感に対する或る種の代償行為だったのかもしれない。


 そんな自分に嫌気し、売り方は再び相場に救いを求めた。

 しかし、前回の大相場での彼の悪名(?)は市場に轟いており、再度の召喚に応える悪魔は一体としてなかった。

 そもそもカネでつく話ではない為、仮に召喚できても、事は進まなかったのだが。


 そうして少女を見舞う日々の中で、売り方は或る事に気付いた。

 悪魔がダメなら鬼が居るじゃないか。

 そう、相場には何でも居る。鬼などは寧ろ在り来たりな存在かもしれない。

 だから、カネでは買えない様なものでも、彼らが持っているかもしれない。

 交渉次第では、それを譲り受ける事も。


 売り方は、目的地である銀行に着いた。

 それはバブルの最中に建て直された、文字通りの白亜の巨塔。

 中に入ると、ホールの天井が下手な建物よりも高く、白色の壁と相まって、まるで天井に吸い上げられるような錯覚を覚えた。

 更に、ホールの端には立派なグランドピアノまで。


 そんな豪奢な施設の中で働く人たちの背中は丸く、しょぼくれている。

 バブル崩壊の直接的な原因は日銀による過熱防止の金融引き締めであり、銀行などはその影響をモロに受けた為に凋落振りが顕著なのは当然だったが、それでもそれらの落差はあまりに酷く、いっそ滑稽でさえあった。


 入り口からたっぷり50歩は歩かされた売り方が、やっとカウンターに辿り着く。

 そして、鬼の本名をカウンターレディに告げた。そいつに会いたいと。

 しかし、カウンターレディの返答はそっけないものだった。そのような者は当店には居りませんと。


「それなら、仕方が無いか」


 そう呟くと、売り方は持ってきていたバイオリンケースから、おもむろに中身を取り出し、カウンターの上に並べ始めた。

 カウンターレディの目が丸くなる。困りますとも言っている。


 しかし、売り方はそれを遮るように、音叉をカウンターに当てた。

 440Hzの澄んだ音が、白けたホールに鳴り響く。

 そして、売り方はその音に耳をすませながら、慣れた手つきで調弦を行った。


 それを一通り終えた後、売り方はバイオリンを構え直した。

 その比較的スリムな体型の、鎖骨と肩の間あたりに乗せられるメイプルブラウン。

 顎当てを顎で引くようにしてバイオリンを保持する。ネックが宙に浮く。

 僅かに首を傾げた形になる。バイオリンを弾くには当たり前の姿勢なのだが、それは

傍目には、カウンターレディに演奏の許可を求めている風にも見えた。

 もちろんそれは、彼女の困惑を更に深める結果しか呼ばなかったが。


 委細構わず、売り方は演奏に入った。

 左手をネックに添え、右手でフロッグと皮巻きの間辺りを摘んで弓を持ち上げる。

 鼻につく、弓の毛に塗られた松脂の匂い。

 嗅ぎ慣れている筈だが、その匂いが一瞬売り方の心をバイオリンを習い始めた頃に引き戻した。



 夏の避暑地、その外れの田畑。

 高原とはいえ、昼間の日差しはそれなりのものだ。

 そこで無心に草刈りをする、少年の頃の売り方。

 流れる汗を気にも留めず、只ひたすらに雑草を刈っていく。

 彼は、単純に楽しかったのだ。草刈りそのものが。


 軍手をした左手で草を掴み、素手で握った草刈り鎌で切る。

 いや、切るというより、刃の曲率に沿った方向で撫ぜるというのが正しいのか。

 生きている、水気を含んだ草の茎。それを切るのに必要と思しき力の量、それより遥かに少ない力で刈る事が出来る。左手での掴む力と、正しく垂直に刃先を滑らせることがうまくバランス出来れば。


 その噛み合った状態ならば、草はまるで魔法の様に何の抵抗も無く切れていく。

 それが面白くかつ気持ち良かった為、少年の売り方は時が経つのも忘れ、それに没頭していったのだ。


 弓の毛を軽く弦の上に滑らせて具合をみる。主に場の湿度を確かめる為だが、空気を必要以上に乾かす忌々しい空調の風は無い様で、至って好調な音を出せる事が確認出来た。

 そして売り方は演奏に入った。

 それは、かなり独自のアレンジが入ってはいたが、確かに誰もが知っているエルガーの定番曲だった。



 父親は、宿題を全て片付けていた息子を遊ばせる先を決めかねていた。

 東京の下町で町工場を営む父の子には、当然の事ながら避暑地に友人は居ない。

 その為、父は息子に、外れにある農家のお手伝いをして来なさい、と言ったのだ。


 その農家は、父親が借りた別荘の持ち主の親戚だった。

 そこには息子と年齢の近い子供が数人居た為、一緒になって遊ぶだろう、そういう算段だった。

 しかし、実際にはその家の子たちは宿題に追われており、また、少年の売り方が父親の言った事を愚鈍に実行しようとしたため、困った農家の人が『じゃあ適当に刈って来てね』とお願いして休耕地に行かせたのだ。


 どうせすぐに嫌になって戻って来るだろう、そしたらスイカでも食わせて昼寝させておけばいい。その農家の安直な思惑は外れる事になったのだが。


 夕刻、別荘に戻った少年の売り方は、草刈りの事を父親に伝えた。

 それがどんなに楽しい事だったのかを。

 息子は、鎌は返してきていたが、麦わら帽子はかぶりっ放しだった。

 それを返す為に外へ出た父親は、道すがら優に三反は綺麗に草刈りされた休耕田を見た。

 僅か半日で。それも子供一人と鎌一柄で。


 父親は息子の言う気持ち良さを一割も理解出来ていなかったが、彼のこの特異なセンスを伸ばしてやる必要がある事には思い至った。



 ホールの中を、バイオリン独特の鷹揚で澄んだ音色が満たす。

 興が乗ってきたのか、売り方は更にアドリブを加えて演奏していった。

 その音はまるで、誰かを誘っている様な。

 そんな、せっつく感じがメロディの端々から溢れていた。



 夏が終わり、東京に戻った父子。

 父親は息子に、何故かバイオリンを買い与えた。そしてバイオリン教室へ通うようにと。

 今度は息子の方が理解出来なかった。いや、売り方は未だに理解出来ていなかった。

 何故あの時、父が自分にバイオリンをやらせたのかと。

 東京の下町に休耕田は無い。父親に、草刈りの気持ち良さを味わえるからと言われては、息子に断る理由は無かった。



 演奏が佳境に入り、それまでザワついていた周囲の客や従業員たちが静かに聞き入り始めた頃、ホールの奥のドアが乱暴に開け放たれ、一人の女性がやって来た。

 年齢の頃は売り方と同じくらいか。他の従業員の様なお仕着せではなく、仕立ての良さそうなスーツに身を包んでいる。

 その女性は、ホールの端にあるグランドピアノの前に座り、中音の幾つかのキーを乱暴に叩き始めた。


 それは演奏を止めろという意味らしかったが、売り方は敢えて無視した。

 その上、そのピアノの音と近い音を弾き始めた。叩きつける様に。それはあたかも、ピアノの制止を、音合わせと誤解させようとしているかの様だった。

 まるで子供のケンカ。凡そ不惑の男がする事ではなかった。



 当時の中高生の部活動といえば、まず野球だった。

 それは少年の売り方も例外ではなく、女子ばかりのバイオリン教室にしぶしぶ通いながらも、学校の部活動には熱心に参加した。


 彼が欲したのは、そこでも草刈りの快感。

 野球の打撃、特にボールをバットの芯で捉えた際の感覚(まるでボールの衝撃を感じない=ボールがバットを突き抜けた様な感じ)にそれを見出した彼は、打撃練習ばかりに拘り、終いにはチームメイトたちから総スカンを喰らう羽目となった。


 それで高校生の途中からはバイオリンの練習に精を出す様になり、その後進んだ大学で更なる技術の向上を目論んだが、当時は大学紛争の嵐。

 バイオリンなぞ軟弱者のする事と相手にされず、またそんな左翼たちの行動も好きになれなかった売り方は、その間隙を縫う様にして卒業、証券会社に就職したのだった。



 チャコールグレイのスーツの袖が忙しく動き、ある決まったフレーズをリフレインした。

 それはまるで、このキーで入って来い、ここだここ、と言っている様な。バイオリンの演奏に、そのピアノで伴奏しろと強要している様に感じられるものだった。


 その女性はピアノを弾く事が出来た様で、渋々といった体でピアノの前の椅子に座り、売り方の伴奏に入った。

 売り方が弾いていた曲は、元々がピアノの伴奏が前提のもの。それで音の膨らみや切れが本来のものとなり、聴衆たちに満足を与えた。


 曲が終わり、売り方は聴衆たちに大袈裟なお辞儀をしてみせる。

 まばらに起こる拍手。

 立ち上がり、ストレートパーマの長い髪をかき上げながら女性が言った。


「ずいぶんな『愛の挨拶』だこと」


 売り方の、鬼の召喚は成功した。




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