飼い猫-2-

 陽の匂いがした。それは幸福の匂いであった。もう二度と味わうことなど出来ないと、そう思っていたのに、私は今その幸福に包まれている。それから、「トト」という声を聞いたのだ。そうだ。私はトトである。あなたがそう名付けてくれたのだ。そうして、今もなお、あなたは私をそう呼んでくれる。


 瞳を開けると、飼い主の顔がそこにあった。飼い主の向こう側には雲一つない青空が広がっている。


 ああ、飼い主の顔はこのような顔であった。


 ああ、飼い主の声はこのような声であった。


 ああ、飼い主の温もりはこれほど心地の良いものであった。


 私を許してくれるのでしょうか。私は、あなたに愛されていいのでしょうか。私はあなたと話すことが出来ない。言葉を交わすことが出来ない。私はあなたと話がしてみたかったのです。


「ニャー」と鳴いてみせると、私の声に気が付き飼い主は顔を私の方に向ける。


 その時、私は思いました。ああ、言葉を交わすことが出来なくとも、私は確かにあなたから愛されていて、私の居場所はきっとあなたのこの腕の中なのであるということを。


「トト、おかえり」


 帰る場所があるというのは、居場所があるということなのでしょう。私には、生きていても良い居場所があった。そのことを、今日あなたが涙を以て教えてくれたのです。


 きっと、いつの日か別れなければならない日が来るのでしょう。あのカラスが言った通り、いつの日か私たちは死んでしまうのですから。私は、きっとあなたほど長く生きることは出来ないのです。それがとても悲しい。そんな別れがあるのなら、いっそのこと出会わなければいいと、そう思ってしまう。きっと、あなたが私に与えてくれている愛情は、長い年月を経て重荷になるのでしょう。そのことを思うと、私はどうしようもなく悲しく、虚しいと思ってしまいます。


 だから、せめて私が生きている間は、目一杯あなたと日々を過ごしたい。あなたに押しつぶされるのなら、それはきっと幸福なことなのです。あなたにも、出来る事ならそう思って欲しい。もう、出会ってしまったのですから、それがどんなに悲しく辛いことであろうとも、いつか来る別れの日には共に満たされるように生きていたい。


 振り返ると、そこにはもう黒い野良猫の姿はどこにもありません。私の腹の上には、自ら引きちぎった首輪がありました。きっと、黒い野良猫が私に届けてくれたのでしょう。私は思い出します。ずっと、覚えておこうと思います。黒い野良猫が生きているということを。黒い野良猫の体に刻み込まれた美しい傷跡の数々を。きっと、その傷跡はあなたがこれまで生きて来た轍です。どうか、誇りを持って生きていて欲しい。もう二度と会うことは叶わぬのでしょう。私はあなたと永遠の別れをしなければならない。でも、私は確かに覚えています。あなたと出会った数日の日々は、この首輪の傷と、私の胸の内に残った火傷跡が覚えています。


 ただ、唯一の心残りは、あなたに伝え忘れたということです。あなたのその傷を、とても美しいと思った事を。


「ニャー」


 さようなら。さようなら。あなたに出会えてよかったと、そう思います。

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