飼い猫と野良猫-3-

 白い野良猫の青い目は赤く充血していた。薄暗い土管の中に射す一筋の太陽の光が、白い野良猫の体に付いた汚れを照らしている。太陽は既に昇り切り、野良猫がいる地上は青い空に包まれていた。


 黒い野良猫は、「ここはどこでしょう」という白い野良猫の小さな声で目を覚ます。体を起こし、伸び、瞼を開ける。ちょうど白い野良猫が土管の外へ出て行くところであった。


 黒い野良猫は、白い野良猫の後を追うように土管の外に出る。雨に晒され泥となった地面に黒い野良猫の脚は沈む。それは、白い野良猫も同様で、昨日まで汚れを知らなかった美しい猫は、一夜を越え、汚れを知ったのである。


 白い野良猫は、自身の足が小汚い泥に沈んでいく様を見つめ、長く、低くニャーと鳴く。そんな白い野良猫に、「どうした?」と黒い野良猫が尋ねると、白い野良猫は

「思い出しました。私は、野良猫というものになったのでした」と、ジッと地面を見つめながら答える。


「そうだ。お前は俺と同じ野良猫になったのだ」

「はい、その通りです」


 白い野良猫が空を見上げると、泥に沈んだその足がさらに沈んでいく。その様が、余りにも物寂しいものであったから、きっと、腹が減っているのだろうと黒い野良猫は考え、「ご飯を食べに行こう。昨日から何も食べていないはずだ。ついて来い」と言い、泥を踏み越えながらしっかりとした足取りで前を行くのである。白い野良猫も、今頼りに出来るのは黒い野良猫しかいないものであるから、「はい」とついていく他なかった。


 土管の有った公園を抜け、アスファルトの地に小さな足跡を残していく二匹の野良猫は、言葉を交わすことなく青空の下を歩む。


 黒い野良猫は、時折後ろを振り返り白い野良猫の様子を窺う。白い野良猫の歩みが、まるで子猫のようであるから、何とも弱々しいのだろうかと哀れに思えてならなかった。これだから人間なんぞに飼われていた猫は、とも思った。しかし不思議と見捨てるということだけは出来そうになかったのである。黒い野良猫にとって、誰かに飯を与え、こうして誰かの歩幅に合わせ歩くことは遥か遠い、黒い野良猫すら忘れてしまうほど、ずっと昔以来のことである。


 一方で白い野良猫の方は、時折空を見上げながら、しっかりとした足取りで力強く歩む黒い野良猫の後ろ姿を眺め、ああ、こんなにも力強くこの世界を生きている猫がいるのだと、これまでそのようなことを知らなかった自身が恥ずかしくなったのである。よく見れば、黒い野良猫の体には生々しい傷跡がいくつか見て取れ、昨日、この世界は恐ろしい場所であると話していたことを思い出していた。そんな恐ろしい世界を、しっかりと自身の脚で歩みこの野良猫は生きて来たのだと思うと、体に刻まれた生々しい傷跡が、とても美しいものに見えて来たのである。


 黒い野良猫は、あの人間が捨てて行ったゴミをこの白い野良猫に食べさせるのは酷であろうと思い、狩りをするために森へ向かった。森、とはいっても森公園の一角にある森のことであり、その昔、黒い野良猫はこの森公園にある森の中で食べ物を得るために狩りをしていたことがあった。ただ、時が経つにつれ人が良く目に付くようになり、また人間が黒い野良猫にエサを与え、体を自由に撫でまわすようになったため、今はもう行くことも無くなっていたのである。


 黒い野良猫は、出来る限り人間を避けるよう、裏道を通って森公園の敷地に入り、そうして森に足を踏み入れたのである。


「何か食べ物を見つけて来る。お前はここで待っていろ」


 そう言い残し、黒い野良猫はどこかへと駆けて行く。そんな黒い野良猫を、白い野良猫は見ていることしか出来なかった。もう、白い野良猫の体力は限界であった。足を動かすことが難しく、体のあちこちが酷く痛んでいた。白い野良猫は、近くにあった木の下で体を丸くする。小さく丸くなった白い野良猫を、木漏れ日がチラチラと照らす。白い野良猫は顔を上げ、自身の背丈よりも遥かに高い木の頂きを見ようとしたが、どうにも見えそうになく、ただ、暖かな木漏れ日と、雨に濡れた深緑の美しさに目を奪われていた。木漏れ日の温もりが、かつていたあの小さな世界に入り込む日差しの温もりに似ており、なんだか、かつてあの小さな世界で飼い主と共に過ごしていた日々が、どうしようもなく遠いものであるような心地がした。チラチラとする木漏れ日が飼い主と過ごした記憶の欠片のようだと、白い野良猫は虚ろな瞳で眺めているのである。


 しかし、この場に飼い主はいないのである。白い野良猫を、「トト」と呼んでくれる者は、愛してくれる人はいないのである。白い野良猫は、上げていた顔を自身の体に沈め、より一層小さく丸まり、「ああ、私はいつまでも物事を覚えてはいられないから、きっといつの日か、このまま野良猫として過ごしているうちに、あなたから受けた愛も、温もりも、あなたが私をトトと呼ぶ声も、トトという名も、すべてを忘れてしまうのでしょう」と、きっとそうなのだと音無く鳴く。ただ、この木漏れ日は心落ち着くものだと、やはり私は陽の光が好きなのだなと、白い野良猫がウトウトとしていると、どこからかカサカサという音が聞こえ、白い野良猫は耳を立てそちらの方に顔を向ける。そこにはあの黒い野良猫の姿があり、白い野良猫は黒い野良猫が帰って来たことに安堵を覚えるのである。


 黒い野良猫は、その口に蛙を咥えていた。狩りの感覚を黒い野良猫は忘れていなかったらしく、そう時間のかからないうちに一匹の蛙を捕まえて来たのである。

 黒い野良猫は、木の下で丸くなっている白い野良猫に、「ほら、食べ物を獲って来た。これを食べて元気になってくれ」と、白い野良猫の前に蛙を置く。蛙の足は千切れかかっており、まだ息があるのか、無様に白い腹を見せヒクヒクと不規則に引き攣っている。


 息も絶え絶えな蛙を見た白い野良猫は、「これは何ですか? 本当に食べ物なのですか?」と、警戒するように左前脚で死んだ蛙を突くのだった。


「これは蛙と言う。お前、これまで何を食べて来たんだ?」

「飼い主が用意してくれたものです。これは、生き物ではないですか。生き物を食べるのですか?」

「当たり前だろう。俺達は命を食べるのだ。そんなことも知らないのか」


 黒い飼い猫が言うように、白い野良猫はそのようなことでさえ知らなかった。命を食べていたことを、白い野良猫は知らなかったのである。白い野良猫は、この死にかけている蛙を食べるなど出来そうになかった。それは、どうしようもなく残酷で、虚しいことのように思えてならなかった。


 この蛙も生きて来たのだ。我々と同じである。独り寂しい夜もあっただろう。そのような時は、きっと月を見て鳴き、過去に思いを馳せることもあっただろう。度々降る長雨を、どのように耐え忍んできたのか。仲間や家族がいるのだろうか。待っている者がいるのだろうか。生き物である。命である。それが、今目の前で燃え尽きようとしている。そうして、それを食すのだと言う。ああ、やはりこの世界は酷い。欠陥品だ。命を食べて生きて行けと言う。我々は、これまで知らぬうちに命を食す罪を日々背負い続けて来たというのだろうか。


「どうした? 食べなければ生きては行けぬ」

「あなたは、これまでもずっとこうして生きて来たのですか?」

「そうだ。ただ、最近はあまり狩りをせず、人間が捨てたゴミを漁ることの方が多い」

「ならば、私はそちらの方が良い。命を直接食べるよりも、ゴミを食べていた方が良い」

「ダメだ。人の捨てたゴミを食べると、時々腹を壊す。俺も時々吐いてしまうのだ。俺はお前よりも強い自信がある。そんな俺が時折吐くのだ、お前にはとても食わせられない」


 黒い野良猫は、蛙の胴体を前足で押さえ、千切れかけた足を口に咥え引きちぎり、「さあ、食べるのだ」と、白い野良猫に促すが、ああ、今まさにこの蛙は死んだのだと、其ればかり考えてしまい、到底その命の一部であったものを口に入れ、噛み砕き、飲みこむことなど白い野良猫に出来るはずがなかった。白い野良猫は顔を横に振り、「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返すばかりである。


「分かった。そう謝らなくていい」

「いいえ、ごめんなさい。あなたは私のために命を獲って来てくれたのに、ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」

「良い。こいつは俺が食べる。他の、何かを見つけてくる。だから、お前はもう少しだけここで待っていて欲しい」

「ごめんなさい。ごめんなさい」


 黒い野良猫は、口に咥えた蛙の足を口に入れ、噛み、飲みこみ、そうして残りの蛙の体を口に咥え、謝り続ける白い野良猫から目を逸らすようにその場を後にする。


 飼い猫であった白い野良猫は、やはり人間が食していた物の方が口に合うのだろうと、黒い野良猫は蛙を食べながら考える。しかし、人間の残したゴミをあの白い野良猫に与えるのはやはり酷なことである。そこで、黒い野良猫はあることを思い付く。人間を嫌う黒い野良猫にとって、その手段はあまり好ましくないものであるが、このままあの白い野良猫が何も食べずにいる方が問題であった。ならば、その好ましくない手段を取るのも致し方ないと、黒い野良猫は腹を決め、森を抜け、森公園をトボトボと歩く。歩き、人間を探す。


 人間が居れば、人間が食べている食べ物がある。それを盗むのだ。人間に近寄り、ゴロゴロと喉を鳴らせ人間から食料を恵んでもらう野良猫もいるが、その行為は黒い野良猫にとって殺されるも同然であるから、あくまで黒い野良猫は盗むことに決めた。生きる為に、盗むのである。


 人間に気付かれぬよう、遠くから人間を見定める。あの人間は大丈夫そうだ。あの人間はダメだ。あの人間ならば何か食べ物を持っていそうだ。そのように、五、六人の人間を観察したところで、公園の木の下にレジャーシートを敷き、食事をしている母と子の姿を見つけた。母は子に食べ物を与え、子は時折笑みを溢している。袋に入ったパンと、弁当箱に入った食べ物。黒い野良猫は、袋に入ったパンの方に狙いを定めることにし、ジッと盗む機会を待った。そう時間のたたないうちに、子の方が「おしっこ」と言い始め、母は子を連れどこかへ行くものであるから、今だと黒い野良猫は力強く地を蹴った。蹴って、走り始めたのであるならば、一度も振り返ることなく駆け抜ける。走り、パンの袋を咥え、そのまま白い野良猫の元へ駆けるのだ。


「あ、ママ!」と声が聞こえようが、「こら!」と声が聞こえようが、「おお、野良猫が何か加えているぞ」と声が聞こえようが、ただ食べ物を白い野良猫に与えるためだけに、全力で足を動かすのである。


 走って、走って、人間の群れを抜け、何だか、ずっと遠い過去にこのようなことをしたことがあったような気がすると、そのようなことをぼんやりと頭に浮かべながら、俺の脚は人間よりも速いと誇りを持って、ただひたすらに白い野良猫の元へ急ぐのである。


 森に入り、白い野良猫の元に辿り着いた黒い野良猫は、「これならばお前も食べることが出来るだろう」と、白い野良猫の前に、袋に入ったパンを差し出す。


 丸くなっていた白い野良猫は、「ああ、これならば食べることが出来ます。本当に、ありがとうございます」と声を上げ、それから「これはどうやって手に入れたのですか?」と黒い野良猫に尋ねる。黒い野良猫は、「人間から盗んできたのだ」とこの白い野良猫に本当のことを話せば、白い野良猫はパンを食べてはくれないような気がしたため、「人間から分けてもらった」と答える。白い野良猫は、それ以上黒い野良猫に尋ねることはなく、「ああ、本当にありがとうございます。頂きます」と言い、袋を破り、中のパンにかじりつくのだった。


 黒い野良猫は、パンを食べる白い野良猫を見て落ち着いたのか深く息を吐き、猫一匹ほど離れ、白い野良猫の右隣に座り込む。


「あなたも食べますか?」

「いや、俺はいらない。お前だけで食べるといい」

「いいえ、あなたも食べてください。これはあなたが手に入れてくれたものです。ですから、あなたも食べてください」


 白い野良猫は柔らかいパンを器用に前足で押さえ、口を使って二つにちぎる。そうして、片方を黒い野良猫の前に差し出し、微笑むのだった。


「私、誰かとこうして同じものを食べるのは初めてです」

「そうなのか?」

「はい」

「そうか。俺も、誰かと同じものを食べるのは初めてのことだと思う」

「そうなのですか?」

「そうさ」


 白い野良猫はやはり微笑む。そして、そんな白い野良猫につられるように黒い野良猫も細く笑うのである。


 猫が二匹。木の下でパンを食べながら笑い合っていた。

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