第41話

 そのぐるりを囲む灰色の外壁を、鉄の大門扉から抜けた。一行は、凍境に到着した。

 街並みや建物のひとつひとつに装飾や趣向が著しく乏しく、色彩はおよそ白で統一されている。何十階にも及ぶであろう高層建築が背を比べ合い、区画を区切ってちょくちょくと密集している。通りは広いが、区画の奥に繋がる路地へ曲がると、やけに道幅が窮屈になるようであった。一行は馬車から降りると、萵苣を先頭に大門から一直線に伸びる大通りを進んだ。雪景色のような白一色の風景に時たま、修道服の黒がちらつく。まばらな通行人は全て神官で、通りがかったユッタたちにいちいち深めのお辞儀をした。次いで胸の前に手を合わせ、握った首飾りの十字架に祈る。無言の彼女たちを不気味にも思わず、ユッタは浅く辞儀を返した。

「新郎新婦はこちらです。天使様とその伴侶は、そのまま街の中心へ。みながお待ちです」

 ジノヴィオスとミモザは萵苣に促され、路地を曲がった。萵苣と神官に腕を取られたさくらも伴われた。ユッタとリンのふたりでもうしばらく歩かされるようであった。

「こんな娯楽の少なそうな場所で、ヤク中の甲斐性なしが夫婦生活を営めるというの?」

 リンに声をかけられ、振り返ったジノヴィオスはやけに安らかな表情であった。

「お互いみなしごの身の上、そういう生活に憧れてたのはお前も同じだろ。どうせ国に戻っても浮草稼業、腰を落ち着けたいんだよ。いい加減、俺の女房たちに責任を取るべきとも思うしな。お前にも、もう苦労はかけないつもりだ」

 ミモザの肩を片手に抱き、片手でリンに手を振りながら、ジノヴィオスは路地の奥に消えた。萵苣と神官にぶら下げられたさくらも、ユッタに言い置いておくことがあるようであった。

「これでお別れかあ。地下牢に来れば面会くらいはできるだろうから、思い出したら会いに来てよ。たまに人と話すことだけを楽しみに、神様は生きてるんだからね。天使ではなく、人間の君とだよ。もし天使になったとしても、つらいときは甘えさせてあげちゃうんだから」

 ふたりの神官に引っ張られ、さくらも路地を曲がって消えた。ふたりきりになると、真っ白の世界にふと凍えるような、心細いような心地を覚えたが、天使の知性にすぐその感覚はかき消された。リンと目を見交わし、ユッタは再び大通りを歩きはじめた。

 先ほどから、遠く進行方向にぼんやりと見えていた黒い影があった。街角の風景に変化は微塵もないくせに、やたらと面積ばかり広い街らしく、退屈な道行きに代わり映えのあるのはせいぜい、だんだんと大きく見えてくるその黒い影くらいであった。

 歩き飽きたころ、影の全体が把握できた。塔のように高い、漆黒の人型である。日の光が反射すると、艶がある。全身が金属らしいが、シルエットは曲線的だった。首筋や胸元、肩から腕にかけての筋肉といった部分部分に血紅のラインが引かれたその肢体は、手甲や具足、大鎧を纏った筋肉質な成人女性の風情である。それが判断できるのは、腰つきの締まったすらりとしたボディラインと、顔貌を包む兜の後頭部から垂れた長い毛髪のかたどりのためである。全貌として流線形の黒と紅の巨人が、街の中心に屹立しているのであった。その足元が通りの合流する大広場になっており、ここから放射状に街の全体が構成されているようである。広場には、大勢の神官が集っていた。

「お待ちしておりました、天使様」

 話しかけられたのが自分だと、一瞬ユッタは気づけなかった。手近な神官のひとりがこちらを見ていた。その声を合図に、大勢の神官が次々と振り返った。みな、美しかった。

天使光ピスティスに目覚めた方は、実に数千年ぶりです。このときのためだけに、私たちは汚れた肉体に甘んじながら、神に祈り続けてきました。やっと、報われるときが来たのです」

 広場の神官らは、みな微笑んでいた。みな同じような顔をしていたが、顔立ちは整って、やはり細かくは違いが見いだせた。一様にユッタを見つめ、うっとりと頬を染めている。

「……何をしようというの。その、人の夫に向ける顔とは思えないほうけぶりだけれど」

 リンはユッタに添い、明らかに怯えていた。無言の微笑の群れには、淀んだ気迫があった。

「儀式です。私たちが神の妻になるため、模像に真理を受け取るため、神と天使に相応しい一者になるため、処女人形の器を借り、祈祷機神に我々の一切を捧げるのです」

「きとう、なんですって?」

祈祷機神きとうきしんグノーシス」

 そのとき、ユッタの視界の隅にちらつくものがあった。天使的思考の網をくぐって反応する、強烈な感覚があった。神官が祈祷機神と呼んだ巨人の腹部に半ば埋まるように、ひとりの少女が縛り付けられている。ふたつくくりにした髪型と、半開きのまなこに特徴があった。

「……夜来香イエライシャン

 ユッタは目を見開いた。視界の幻像エイコーンたちが一瞬、かすんだ。

「感動のご再会ですね。そろそろ、天使様のほうも現世への未練をお捨てになれましたか」

 声に振り向くと、萵苣ちさが追いついてきていた。呆然として、ユッタは萵苣に問うた。

「夜来香……コウに、一体何をするつもりなんだ、あなたたちは」

「機神様の御力を借りて、彼女の無垢な信心に私たちの精神を託します」

 不可解な言にユッタは眉をひそめた。睨みをきかせて、萵苣に説明を促す。

「祈祷機神……超古代の霊的兵器と考えられています。火之本の最初期、凍境の地下に発掘したのですが……霊肉の撹拌機とでも言うのでしょうか。要は、祈りに駆動する霊肉の分離・結合にもとづく新人類創造の装置なのですが、取り扱いが難しいのです。霊肉の結びつきを変えた新人類、人形私窩子はすぐに実現しました。次に複数の肉と肉の合一、霊と霊の合一を試したのですが、前者は異形ネフィリム無頭人エグリゴリ、後者は堕天使ゴーストを生んでしまった」

「……異形ネフィリム無頭人エグリゴリは、あなたたちが造り出したものだった?」

「仕方がないことだったのです。私たちの祈りも最初から完全ではなかった。研究と実験は積み重ねるほかありません。ですが、まったくの木偶の坊でもないのですよ。私たちの平和な暮らしは、今も堕天使ゴーストが異教徒たちを屠ってくれているからこそのものです」

 リンの肩がびく、と震えた。ユッタの天使的知性も、戸惑いを消し去ってはくれなかった。

「私たちの祈りが、不幸にも悪しき霊性の面で顕在化してしまい、無秩序に人間を殺戮する不可視の悪魔を産み落としてしまった。敬虔な天使様にお明かしするのも酷ですが、本当にただの人間が天使軍とお思いでしたか。どだい、大陸の軍事技術にかなうはずもないでしょう」

 歴史上、大陸に派兵されたという天使軍の存在は、おそらく嘘ではない。ただ、彼らが六千年も独力で敵軍を相手取れるわけがなかった。神官の信仰が生む悪霊が、早いうちからそれに取って代わったのである。

「敵国の人間なら、と納得はしませんよ。守るべき自国民まで危険に晒しておきながら……」

「忌むべきことと自覚はしています。けれど、信仰の究極に到るために必要なことです。罪ならその後でいくらでも償いましょう。私たちの霊肉の完全な訣別けつべつが、実現したその後で」

 萵苣は優しげな微笑に、一抹の苦さを込めて語りだした。

「神……普遍的一者の実在を、万物と我々を創り給うた神の存在を、あなたは信じますか。私たちは信じます。ただし、それは誰しもに明らかな客観的存在者としてではなく、私たちの中に根拠を有する何らかの普遍的な事象性、実在性をこそ神性とみなしての帰納的な結論としてです。私たちは、神の模像である私たち自身の普遍性から、神の存在性格を考えます。普遍的一者は単なる知性の構成物ではなく、私たち自体に内在する神的根拠を正しく知ったうえでの、真の認識グノーシスの結果としてあるのです。今われらは鏡をもて見るごとく見るところおぼろなり、然れど、かの時には顔を対して相見ん。鏡の中に見るごとく、謎において我々は神を見る。鏡とは、私たちの精神です。私たちの精神は神に賜った大いなる謎であり、またその自己観照を極めることによって神を映じ得る、最高の叡智である。自己を知ることこそが神を知ることなのです。そこで、神の直観は具体的にどう実践されるべきでしょうか。前提として、錯誤神サクラスに肉欲を与えられた我々の霊肉に、真実の神は容易には見えません。天使光ピスティスに到ったあなたなら、それは痛いほどお分かりでしょう。人類の果てなき探求の末にも神は分裂してしまい、一者に統合されえなかった。無数の個々人が神の表現を重ねて普遍的な神の美を目指しても、一者には至らない。素朴な存在の類比アナロギア・エンティスは、誤謬する以外になかった。その原因は、まさしく性愛エロスの原理に他なりません。私たちは信仰の出発点として、人間性愛を徹底的に否定します。そして、あらゆる形での性愛の否定は、他者愛の否定と通底します。私たちは、救済者としての神は信じません。他者愛の尊さとは、人間と隔絶した絶対他者たる神が我々を救済し給うた、幸福な旧世界でのみ証された倫理です。神が人を救ってこそ、人も他者への無償の愛を持ちえます。よって、決して神が我々を救い給わない現世界では、他者愛はまったくの幻想と言わざるをえない。独り子アウトゲネスの福音なき現世では、信仰の類比アナロギア・フィディでの神の探求も不可能なのです。自然神学も啓示神学も、私たちには許されなかった。神からの啓示はない。福音はない。愛はない。しかし、祈り続けるしかない。自己観照に充足し続ける、神の自己愛アガペーに祈るしかない。ならば、我々もまた自己愛アガペーの中に神を見なければなりません。自己愛とは他者を顧みぬことではなく、他者に救済を夢見ぬことです。錯誤神サクラス性愛エロス原理に媒介される他者愛ではなく、至高神の恩恵である人間理性が自己愛に充足することにのみ、救済を求める。それがたとえ、叡智ソフィアの過失という神話に否定されていても、です。むしろそれは、理性を絶対化して叡智ソフィアの二の舞を踏まぬことを肝に銘じての信仰です。他者愛を棄却してなお自己愛の僭越に警戒する、二重に困難な信仰の道を我々は選んだのです。叡智ソフィア的自己愛の僭越を生まぬため、私たちは自己愛アガペーによる個人的救済を志しながらも、普遍教会カトリックを組織しました。その眼目は、他者を愛さずに他者と共同すること、他者同士に内在する普遍性から神に到ること、普遍的な自己愛の本質を探ることで、神の本質を見ることです。そこで確認されたのは、やはり性愛、他者愛の根深さ、肉体に囚われた我々の宿痾でした。肉体を取り払わなければ、真の自己愛の普遍性自体が究明できない。そこで、我々はまず現実の生活や異性からまったく離れるため、妊娠能力を切り離すことを考えました。悪しき交接という他者愛の終局にのみ肉即霊、霊即肉を実現する人形ならば、すぐにでも造られたのです。人は世代を継ぐために子を作りますが、私たちはこれを必要悪に過ぎぬものと切り捨てます。なぜなら、子作りは霊ではなく肉の交接に愛を見出させるためです。霊に肉の善きことを尊ばせ、霊の自己疎外を招くためです。他者の視線に愛される自己を鏡像的に追求し続ける、終わりなき客観の地獄。これが他者愛という様相です。そして、他者愛を尊んだ旧世界の父権制文明は滅んだ。肥大した人の理性的自我が偽りの他者愛を汲んで客観的合理性を追求し、それを僭越にも神としたためです。理性は神の自己思惟に由来する、徹底して主観的な働き。独立的な主観を束ねた客観性に、真理などなかったのです。ところで、人類が旧世界で犯した原罪は修道士に償われています。何千年もの間、男性は修道士として自己を捨て、名を残さず、決して到達できぬ神に祈り、神の模像を代償に抱きながら、それをすら手に入れられぬまま静寂と孤独の死を何億回と繰り返してきました。ですが、これは原罪即救済。肉の愛に霊の愛が実現するやも、という幻想を見続けることこそが、彼らへの罰であると同時に唯一の救済なのです。霊肉の葛藤を軽視し、そこにこそ人間性があるなどとのたまう者たちは、旧世界と同じ悲劇を繰り返し続ければよい。……話が逸れましたね。他者愛的な客観の地獄を拒否しながら、自己愛的な理性の暴走も危ぶまれる私たちの導き出した結論は、どうやら霊肉に自己矛盾し続ける人間は、主観を極めても客観を極めても神には到れないということでした。自己観照による純粋な人間の神性の追求も、肉体の個別化原理によって、結局は一致を見るところがない。となれば、霊肉相即の人形に俗世のことを任せ、私たちは純粋精神、天使になるしか道がないのです。そこで、祈祷機神の御力の究明がはかられました」

 静かな口調を崩さないまま、一挙にまくし立てると、萵苣はひとつ、深い溜息をついた。

「聖書に記された人類の最終的救済像は、花嫁の部屋ニュンフォーン……模像における婚姻です。私たちは汚れた現世で救われなければ、死後も救われることはない。地上での婚姻を経た上で、死の瞬間に霊的な異性――天使が私たちの伴侶として超世界プレローマから遣わされるのです。だから、私たちは霊肉を分離させるにも、地上の模像的伴侶が必要だった」

 萵苣の褪めたような青の瞳と、大勢の神官たちにじっと眼差され、ユッタは戦慄した。

「……それは、天使光ピスティスに目覚めた者でなければならないというのですか」

「肉体を充足させなければ、性愛が祈りに紛れ込み、異形ネフィリム堕天使ゴーストを生んでしまう。ですが、そこらの生臭坊主で今さら私たちが満足できると思いますか。真に天使学を究めた者を凍境に招いたのは、選別作業だったのです。あなたのお師匠様は、いいところまで行ったのですよ。独力で天使光ピスティスに到る道を拓きかけていたのですから。とはいえ、老いに方法論がなかった。屈折した老人とは、一緒になれませんよ」

「それをあなたが言いますか。師はあなたたちの玩具になるため、天使に祈ったのではない」

「神官の花園に対して、下心を一切持っていなかったとは言わせませんよ。まあ、それはもういいのです。あなたが来てくれたのですから。私窩子との愛に甘んじず、神を見るために自己と対峙し続けた、真に愛情深い修道士よ。私たちはあなたのような、嫌悪感なしに安全に抱擁しあえる神の代償を、私たちの肉体に残った性愛の残滓を満たしうる者を待っていた。私たちの救済の準備は今、整ったのです」

 祈祷機神の足元にかしずく修道服の姿が増えていた。凍境中の神官が集まっているらしい。

「……小生が聞いたのは、コウをどうするつもりか、ということだったはずだが」

「ええ。私たちは肉体の愛を果たして死後の救済を担保するに留まらず、精神の愛によって神の妻になる、真の救済をも目指します。自己愛と他者愛の腑分け、神愛と性愛の同時的達成。それを成すには、神――普遍的一者と同じく、私たちも普遍的一者に統合されなければならない。その霊的統合に、処女の私窩子が器として必要なのです。というのも、私たちの精神は神愛に淫蕩を尽くし過ぎた。あなたの師は、自然本性的神と個人の理性に働きかける神を分けた、至福直観論を唱えましたね。あれは自己観照の理屈としては間違っていないのです。主観的対象として、理性に愛をもって働きかける、自由を生じさせる神。私たちの魂は普遍的神性ではあるものの、自由な理性の働きに個人の人格ペルソナを形成してしまう。人の自己愛は別々の神を魂に映じてしまうのです。確固とした主観的神への祈りは、そのままでは統合しえない。まだ十全に祈りが確立されていない、霊的処女の私窩子の魂を器にすることで、私たちの人格ペルソナの祈りはリセットされ、まっさらな人格ペルソナの下に再び自由な綜合的主観的神を見ることができるのです。ちなみに、肉体的処女は霊的処女の大前提。肉即霊の人形は、姦通された時点で相手の修道士を神同然と見てしまいますからね」

「なぜそれが私窩子でなければいけない……信仰の未熟な者なら、神官でもよかろうに」

「やはり疑問に思われますか。あなたの師はまた、母胎者メトロパトゥル――真の神名を娼婦プルーニコスと言いますが、彼女をこそ人の本質の流出源としましたね。人形論においては、それもあながち的外れではないのです。祈祷機神は錯誤神サクラスとは異なる機械的な、幾何学世界の創造神。彼ににえと祈りを捧げることによって、実体的神――諸天使アイオーンからの神性流出をやり直した人類再創造が行えます。叡智ソフィアから錯誤神サクラス、そして人類という流出の系譜とは、完全に異なる経路で神性を受け取れるのです。肉即霊の人類を欲した私たちの祈りは、祈祷機神を通じて娼婦プルーニコスへと届いた。私窩子こそ神の自己思惟に生まれた最初の天使アイオーン、神の妻の神性をより純粋な形で秘めた人間なのです。神の自己観照による鏡像であり、自己愛と他者愛の未分化な天使だからこそ、私窩子の肉即霊を実現しえたのです。聖なる娼婦の名の下に、我々は神と結ばれます」

 ユッタは絶句した。黒い巨人の下に拝跪はいきする神官の群れを直視できなかった。神官から目を逸らしても幻像エイコーンは視界から消えなかった。理解しがたい火之本の真実を明かされたというのに、天使的知性は極めて冷静にその事実を受け止め、足元がふらつくようなユッタの感覚を、怒りに血が沸くような感情を、理性の完全な働きによって雲散霧消させてしまう。気絶することも許されぬまま、神官らの邪悪な祈りを見届けているほかなかった。神官をいくら憎悪しても、コウをいくら想っても、血は冷め、心は動かなかった。ここで彼女たちを殺め、コウを連れて逃げ出すことに、どんな意味があるのだろうか。ユッタの中の天使は、地上に顕現した神の国、凍境という超世界プレローマの光景に怖気づき、ただ幻像エイコーンの美貌をちらちらと踊らせるのみであった。

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